長編小説『六つの席』第一部 六人の一週間④
第四章 黒田遼
月曜日――どこにも行かない電車
黒田遼は、朝から電車に乗っていた。
目的地はなかった。
ただ、乗っていた。
窓の外を眺めながら、流れていく景色をぼんやりと見ていた。
午前十時二十分。
普通なら、会社へ向かっている時間だった。
けれど、遼にはもう会社がなかった。
昨日、辞めた。
正確に言えば、辞めさせられた。
「黒田さん、申し訳ないんだけど……」
店長はそう言った。
その後に続く言葉は、もう聞かなくても分かった。
人手が足りない。
仕事ができない。
遅刻が多い。
客からの苦情。
どれも間違ってはいなかった。
だから、遼は何も言わなかった。
「分かりました」
そう言って、制服を返した。
それだけだった。
店を出た。
空が青かった。
それが、少し腹立たしかった。
自分の人生がうまくいっていないのに、空だけは何も知らない顔をしていた。
家に帰る気にもなれなかった。
実家には、
「仕事、どう?」
と聞いてくる母親がいる。
遼は、その質問が嫌いだった。
「普通」
と答える。
でも、普通ではない。
何度も仕事を辞めている。
そのたびに、
「次はちゃんとする」
と言ってきた。
もう、自分でもその言葉を信じていない。
だから帰りたくなかった。
電車に乗った。
そして、まだ乗っている。
どこへ行くのかは決めていない。
終点まで行ってもいい。
途中で降りてもいい。
ただ、
「家に帰らない」
ということだけを決めていた。
電車が駅に止まった。
人が降りる。
人が乗る。
遼は窓の外を見た。
ホームのベンチに老人が座っていた。
新聞を読んでいる。
その隣には、若い男性がいた。
スーツ姿。
時計を何度も見ている。
そのさらに向こうには、買い物袋を持った女性。
みんな、それぞれの目的地がある。
遼だけがない。
電車が動いた。
しばらくして、遼はスマートフォンを見た。
通知はなかった。
SNSを開く。
友達の投稿。
結婚。
昇進。
旅行。
子ども。
新しい車。
新しい家。
遼は画面を閉じた。
「みんな、ちゃんとしてるな」
小さな声で言った。
でも、その言葉を言った瞬間、
「じゃあ、自分は?」
という問いが返ってきた。
答えはなかった。
昼過ぎ。
遼は知らない駅で降りた。
駅前の小さな商店街を歩く。
パン屋。
古本屋。
クリーニング店。
喫茶店。
そして、古い写真屋。
店の前に、小さな看板が出ていた。
「証明写真 10分」
遼は足を止めた。
証明写真。
履歴書。
仕事。
そういう言葉が頭に浮かんだ。
けれど、今はもう見たくなかった。
そのまま通り過ぎようとした。
すると、
「兄ちゃん」
声をかけられた。
振り返る。
写真屋の店主らしい老人が立っていた。
「暇そうだな」
遼は苦笑した。
「暇ですよ」
「なら、ちょっと手伝ってくれないか」
「え?」
「重い箱がある」
「……俺ですか?」
「他に誰がいる」
老人は店の奥を指差した。
遼は少し迷った。
でも、帰る場所もない。
「いいですよ」
店の奥へ入った。
古い写真がたくさん並んでいた。
箱を運ぶ。
一箱。
二箱。
三箱。
「そこ置いてくれ」
言われた場所に置いた。
「ありがとう」
「これ、何の写真ですか?」
「昔の写真だよ」
「誰の?」
「知らない人」
「え?」
老人は笑った。
「昔、この辺で写真館をやってた人がいてな。閉店するときに全部置いていったんだ」
遼は箱を見た。
中には古い写真が入っている。
運動会。
結婚式。
入学式。
卒業式。
家族写真。
知らない人たちの人生。
「捨てないんですか?」
「捨てられない」
「なんで?」
老人は少し考えた。
「写真に写ってる人には、それぞれ人生があったんだろ」
遼は何も言わなかった。
老人は続けた。
「だから、簡単には捨てられない」
その言葉が、遼の胸に残った。
自分の人生なんて、
捨てても誰も困らない。
そう思っていた。
でも、知らない人の写真ですら捨てられない人がいる。
不思議だった。
「兄ちゃん、仕事は?」
「……辞めました」
「何を?」
「コンビニです」
「そうか」
老人は、それ以上聞かなかった。
そのことが、ありがたかった。
しばらく写真を整理した。
夕方になった。
「これ、持っていけ」
老人が一枚の写真を差し出した。
「何ですか?」
「余った写真だ」
「いや、いらないです」
「いいから」
遼は受け取った。
古い駅の写真だった。
ホーム。
線路。
そしてベンチ。
六人が座れる長いベンチ。
「どこの駅ですか?」
「知らない」
「知らないんですか?」
「昔、この近くにあった駅だと思う」
遼は写真を見つめた。
なぜか、妙に気になった。
「これ、もらっていいんですか?」
「ああ」
遼は写真をポケットに入れた。
店を出る。
外は夕方になっていた。
老人に礼を言った。
「ありがとうございました」
「また来い」
「はい」
歩きながら、遼は思った。
「また来い」
そう言われたのは、久しぶりだった。
家族以外の誰かに、
「また来い」
と言われた。
それだけで、
自分がまだどこかにいてもいいような気がした。
駅へ向かった。
帰りの電車に乗る。
今度は、行き先を決めた。
家へ帰る。
母親に話そう。
仕事を辞めたこと。
そして、
「次を探す」
と言おう。
嘘ではなかった。
まだ何をするかは分からない。
でも、
何もしないままではいられない。
電車の中で、ポケットの写真を取り出した。
古いベンチ。
六つの席。
遼は写真を裏返した。
裏には、鉛筆で文字が書いてあった。
「待っている人は、いつか必ず誰かに会う。」
遼はその文章を何度も読んだ。
意味は分からない。
誰が書いたのかも分からない。
でも、
なぜか捨てたくなかった。
家に帰った。
玄関を開ける。
「ただいま」
母親が台所から顔を出した。
「おかえり。今日は早いね」
遼は靴を脱いだ。
「母さん」
「なに?」
「仕事、辞めた」
母親の手が止まった。
しばらく沈黙があった。
「……そう」
怒られると思っていた。
「何で?」
「また?」
そう言われると思っていた。
でも母親は、
「ご飯食べる?」
と言った。
遼は驚いた。
「うん」
「じゃあ、温めるから」
遼はリビングに座った。
テレビがついている。
いつもの家。
いつもの匂い。
何も変わっていない。
でも、少しだけ違って見えた。
夕食を食べた。
母親は何も聞かなかった。
遼も何も話さなかった。
食後、自分の部屋へ戻る。
机の上に写真を置いた。
六つの席。
遼はスマートフォンを手に取った。
求人サイトを開く。
検索欄に、
「正社員」
と入力した。
一つ。
二つ。
三つ。
スクロールしていく。
どれも自分には向いていないように見えた。
それでも、画面を閉じなかった。
午前零時。
布団に入る。
写真を枕元に置いた。
電気を消す。
暗闇の中で、
あの言葉を思い出した。
「待っている人は、いつか必ず誰かに会う。」
遼は笑った。
そんなわけない。
人生はそんなに簡単じゃない。
そう思った。
でも、
完全には否定できなかった。
翌朝。
遼は目覚ましを六時半にセットした。
仕事はない。
起きる理由もない。
それでも、
「明日は早く起きてみよう」
と思った。
木曜日の夜。
それだけの小さな変化だった。
しかし、その変化がなければ、
三日後の朝、
彼は駅へ行かなかった。
駅へ行かなければ、
あのベンチには座らなかった。
そして、
五人の人間と出会うこともなかった。
遼はまだ知らない。
自分の人生が変わる日は、
大きな出来事が起こる日ではない。
目覚ましを、
いつもより少し早くセットした夜。
そんな小さな夜から、
始まることもある。
そしてその夜。
机の上に置いた写真の中で、
六つの席は、
誰も座っていないまま、
静かに朝を待っていた。
