見出し画像

長編小説『六つの席』第一部 六人の一週間⑥



第六章 中野俊

月曜日――朝のない部屋

中野俊は、月曜日の朝を嫌っていた。

嫌いになったのは、いつからだったのか。

会社勤めをしていた頃なら、月曜日は一週間の始まりだった。目覚ましが鳴り、シャツに袖を通し、ネクタイを締め、決まった時間の電車に乗る。

それが当たり前だった。

月曜日が来れば、仕事が始まる。

仕事が始まれば、金曜日までの日数を数える。

そして金曜日になれば、

「やっと一週間が終わった」

と思う。

そんな生活を、何十年も続けてきた。

けれど今は違う。

俊はもう会社へ行かない。

定年を迎えてから、三年が経っていた。

それでも月曜日になると、体が昔の記憶を思い出す。

朝六時。

目が覚める。

時計を見る。

もう起きなくてもいい。

そう思う。

それなのに眠れない。

俊は布団の中で目を開けたまま、天井を見ていた。

部屋の中は静かだった。

時計の秒針だけが、

カチ、

カチ、

と動いている。

隣の部屋から音はしない。

台所からも音はしない。

以前なら、この時間には妻が起きていた。

俊より少し早く起きて、湯を沸かしていた。

俊が起きる頃には、台所から味噌汁の匂いがしていた。

「起きた?」

妻は、いつもそう言った。

俊は、

「うん」

と答える。

それだけだった。

毎朝繰り返していた、たった二つの言葉。

それが今はない。

俊は時計を見る。

六時二十三分。

「起きるか」

誰もいない部屋で言った。



台所へ行き、カーテンを開ける。

朝の光が入ってくる。

俊は窓を少し開けた。

夏の空気は、すでに暑かった。

蝉の声が遠くから聞こえる。

冷蔵庫を開ける。

卵。

牛乳。

納豆。

野菜。

昨日買った豆腐。

何を食べようか迷った。

昔なら、

「何食べる?」

と聞いていた。

今は聞く相手がいない。

俊は卵を一つ取り出した。

フライパンを火にかける。

油を少し。

卵を割る。

じゅっ、と音がする。

その音を聞きながら、俊は昔のことを思い出した。

妻は目玉焼きを少し固めに焼くのが好きだった。

俊は半熟が好きだった。

だから朝食のとき、

「また固い」

と俊が言う。

すると妻は、

「あなたが半熟すぎるのよ」

と言う。

そんなくだらない会話をしていた。

今になって思う。

くだらないことほど、

大切だった。

俊は卵を皿に乗せた。

一枚の皿。

一つの箸。

一つの椅子。

テーブルの向こう側は空いている。

俊はそこを見ないようにして朝食を食べた。



午前九時。

俊は洗濯機を回した。

白いシャツ。

タオル。

靴下。

洗濯物は少ない。

以前はもっと多かった。

二人分だったからだ。

洗濯機の音を聞きながら、俊はソファに座った。

テレビをつける。

ニュース。

天気。

スポーツ。

通販。

どれも興味がない。

消す。

また静かになる。

俊は新聞を開いた。

一面を読む。

二面。

三面。

途中で手が止まった。

小さな記事だった。

誰かが亡くなったという記事。

年齢は七十代。

名前を見ても知らない人だった。

俊はその記事を読み終え、新聞を閉じた。

人は毎日、

誰かの人生が終わったことを知らされている。

けれど、

自分の人生がいつ終わるのかは、

誰も教えてくれない。

俊は時計を見た。

まだ午前十時だった。

「長いな」

月曜日は、

やっぱり長い。



昼前。

俊は散歩に出た。

目的地はない。

最近は、目的地のない散歩が増えた。

昔は、

「どこへ行くの?」

と妻に聞かれた。

「歩くだけ」

と答えると、

「それなら犬でも飼えば?」

と笑われた。

俊は犬が苦手だった。

世話ができる自信がなかった。

今思えば、

飼っておけばよかったのかもしれない。

そう思うことがある。

公園を歩く。

子どもたちが遊んでいる。

母親たちがベンチに座っている。

老人が一人で歩いている。

それぞれの時間がある。

俊は木陰で立ち止まった。

風が吹いた。

葉が揺れる。

一枚の葉が地面に落ちた。

俊はそれを見た。

「早いな」

夏は始まったばかりなのに、

もう葉が落ちている。

人間も同じなのかもしれない。

まだ大丈夫だと思っているうちに、

少しずつ何かが失われていく。

俊はそんなことを考えながら歩いた。



午後一時。

小さな定食屋に入った。

「一人です」

店員が頷く。

「こちらへどうぞ」

俊は窓際の席に座った。

焼き魚定食を頼んだ。

料理を待っている間、

スマートフォンを見る。

メールはない。

通知もない。

画面を閉じる。

しばらくして料理が来た。

ご飯。

味噌汁。

焼き魚。

漬物。

昔から好きな組み合わせだった。

俊はゆっくり食べた。

店内には数人の客がいた。

誰も俊を見ていない。

それでよかった。

一人でいることに慣れるというのは、

誰とも話さなくても平気になることではない。

誰とも話さない時間を、

自分で受け入れられるようになることだ。

俊はそう思っている。

会計を済ませて店を出た。

空は青かった。



午後三時。

俊は病院へ向かった。

妻のところへ行く日だった。

病院の廊下を歩く。

窓から光が差し込んでいる。

病室のドアを開ける。

「こんにちは」

妻はベッドに横になっていた。

「来たの?」

「来たよ」

俊は椅子に座った。

妻は俊の顔を見た。

「今日は何曜日?」

「月曜日」

「そう」

少し間があった。

「朝ご飯食べた?」

「食べた」

「何食べた?」

「卵」

妻は笑った。

「また?」

「簡単だから」

「料理しなさいよ」

「してるよ」

「嘘」

俊は笑った。

「本当だって」

そんな会話ができるだけで、

今日はいい日だった。

俊は妻の手を握った。

少し冷たい。

「外、暑いよ」

「そう」

「蝉が鳴いてた」

「もう夏ね」

「うん」

妻は窓の外を見た。

俊も一緒に見た。

二人で同じ景色を見る。

それだけだった。

でも、

それでよかった。



午後五時。

病院を出る。

俊は駅まで歩いた。

夕方の街は人が多い。

仕事帰りの人。

学校帰りの学生。

買い物袋を持った人。

俊はその中をゆっくり歩いた。

昔は自分も、

この時間に駅を歩いていた。

急いでいた。

早く家に帰りたかった。

けれど、

家に帰れば仕事の疲れが待っていた。

今は、

急ぐ必要がない。

それが少し寂しかった。

駅のホームで電車を待つ。

ベンチには座らない。

立ったまま、

線路の向こうを見る。

電車が来る。

風が吹く。

俊の白髪が揺れた。

電車に乗る。

窓際に立つ。

流れていく景色を見る。

夕焼けが建物の間から見えた。

俊は写真を撮ろうと思った。

けれど、

やめた。

写真に残さなくても、

今日の夕焼けは今日だけのものだ。

そう思った。



午後七時。

家に帰る。

冷蔵庫を開ける。

昼の残りがある。

それを温める。

テレビをつける。

食事をする。

ニュースを聞きながら、

一人で食べる。

食器を洗う。

風呂に入る。

そして、

机の前に座る。

俊には日記を書く習慣があった。

ノートを開く。

今日の日付を書く。

月曜日。

その下に、

今日のことを書く。

「朝、六時二十三分に起きた。」

「卵を食べた。」

「散歩した。」

「病院へ行った。」

そこまで書いて、

俊はペンを止めた。

そして、

少し考えてから、

最後に一行だけ書いた。

「妻と話せた。それで十分。」

俊はノートを閉じた。

部屋の時計を見る。

午後十時三十八分。

まだ眠くない。

俊は窓を開けた。

夜風が入ってくる。

遠くで電車の音がした。

ガタン。

ゴトン。

ガタン。

ゴトン。

その音を聞いていると、

なぜか安心した。

電車は、

誰かをどこかへ運んでいる。

誰かを待っている人もいる。

誰かの帰りを待っている人もいる。

俊は窓を閉めた。

電気を消す。

布団に入る。

目を閉じる。

明日は火曜日。

特別な予定はない。

いつもの朝。

いつもの食事。

いつもの病院。

いつもの一日。

俊はそう思って眠った。

このときの俊は、

まだ知らなかった。

何気なく過ぎていく一日一日が、

後になって、

自分の人生の中で、

とても大切な意味を持つことになることを。

けれど、

今はまだいい。

明日は明日の朝が来る。

俊は静かな部屋の中で、

ゆっくり眠りについた。

いいなと思ったら応援しよう!