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遠くへ行く



遠くへ行きたいと思う夜がある。

行き先があるわけではない。
海でも山でも、外国でもない。
ただ、自分を知っている人が誰もいない場所へ行きたい、とふと思う。

駅のホームに立つ。
発車ベルが鳴るたび、人生には乗らなかった列車が無数にあったことを思い出す。

もしあの日、違う会社を選んでいたら。
もしあの言葉を飲み込まずに伝えていたら。
もし誰かを傷つけずに済んでいたなら。

そんな「もし」は、切符にならない。
だから人は、現実の列車に乗る。

窓の外を流れる景色は、どこへ行っても同じように見える。
田んぼがあり、川があり、夕暮れがゆっくり街を包む。

遠くへ行けば何かが変わると思っていた。

けれど、車窓に映る自分の顔だけは、どこまで行っても降りようとしない。

人は自分から逃げることはできない。

それでも旅には意味がある。

知らない町で飲む一杯のコーヒー。
見知らぬ子どもの笑い声。
夕焼けに染まる踏切。

その小さな風景が、「まだ世界は広い」と静かに教えてくれる。

遠くへ行くというのは、距離を伸ばすことではないのかもしれない。

昨日までの自分から、ほんの少しだけ離れてみること。

そのわずかな距離が、人を救うことがある。

帰りの電車で、ポケットの中の切符を握りしめる。

家は何も変わっていないだろう。
日常も、仕事も、明日の朝も。

それでも、自分の中には目に見えない何かが一枚だけ、静かにめくられている。

遠くへ行ったからではない。

帰ってくる場所があることを、もう一度知るために、人は旅をするのだ。

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