人のうんこの拭き方を笑うなよ、ねぇ
母がフンスフンスと帰ってきた。
足音がやけに凛々しい。怒っているのかなんなのか、とにかく炎みたいな気を纏っていたことは確かだ。
「頭にきたから連れて帰ってきちゃった!」
頭にきた、と言っているわりにその顔はイタズラっ子みたいだったけど。母の後ろで、車椅子に乗せられた父が困ったように笑った。
「この後、先生たち来るから。手伝って」
母は普段からキビキビしているけど、この時はさらにシャキシャキしていた。事態が全く飲み込めないまま、とにかく一階の寝室の片付けを手伝う。手を動かしながら、母に説明を求めた。
「もう何も出来ないって。二、三日しかないって。強い薬で眠らせましょうって言うからつい、連れて帰ります!って啖呵切ってきちゃった。そんな訳でお父は自宅で看取るから。」
父の耳には入らないよう小声だったけど、異論は認めないというような、強い口調だった。
「お父は家にいるのが好きだもんねぇ」
それから、電動式のベッドやら在宅酸素やら様々な医療器具が自宅に運び込まれていく。医師と看護師も来て、リビングで大事な話だけが伝えられた。
「119番は押さないでください。あちらは救命が仕事ですから。」
父の寝室は酸素濃度が高くなり、やけに空気が澄んで綺麗だった。
「空気がうまいから煙草吸いてぇな」
父が笑うから、兄も私も「分かる」と答えた。
「煙草吸ったらどうなるの?」と私が聞くと「ドーン!って爆発する」と兄が脅かしてきた。なぜだか余計に煙草を吸いたくなった。
本来ならば父のベッドの隣には熱帯魚の水槽があったのに、数日前に息子が誤ってエサをあげ過ぎて死なせてしまった。
「俺より先に死ぬなよな」
父は自分の余命宣告の時よりも悲しそうだった。
姉家族もやってきて、家族が揃ったら父が急に元気になった。ゼリーを食べたり煙草を吸ったり孫たちをあやしたりして、「なんだよ、元気じゃん!わざわざ来たのにさ!」とみんなで笑ったのが最期の会話だった。
◇
耳だけは聞こえると往診の先生が言ったから、寝室に家族で集まって団欒の時を過ごす。酸素濃度は限界まで上がっているが、消毒の匂いはしない。
「お父のうんこの拭き方って独特だよね」
誰が言い出したのか、父の尻の拭き方が変わってるという話が投げ入れられた。そこから何故か全員謎のツボに入ってしまい、ヒーヒー涙を流しながら、爆笑して父のうんこの拭き方のモノマネをした。
「ねぇ、聞いてる? ひどくない? 人のうんこの拭き方を笑うなよ、ねぇ?」
ここが病院だったら、なんて不謹慎な家族だろうと眉根を寄せられただろう。
◇
看護師が最期の仕事に来た。なぜか家族の誰よりも泣いていた。
「皆さんでお話しできましたか?」
そう聞かれて、まさか数時間前にうんこの拭き方で爆笑しましたとは言えなかった。兄と姉と目を合わせてふっと笑った。
◇
「お腹すいた。」
「何食べる?」
「寿司じゃない?」
「……お祝いみたいじゃない?」
「そんなことないでしょ。食べたいもの食べようよ。」
酸素も、医療器具も、全てのスイッチが消えた部屋で寿司を囲む。せめて熱帯魚が生きていればポコポコという音やゆらめきが目の端に映るのに。目の前には捌かれた魚しかいない。
本当はドラマみたいに、ありがとうとかごめんねとか言おうと思ってたのに、そういう言葉はひとつも出てこなかった。もしも病院だったら言えたんだろうか。用意された舞台にはそこに合った台詞がある。だけど、私たちが居たのはあまりにもいつも通りの家だったから、そこに似合う台詞が誰にも見つけられなかったのかもしれない。
あの日父に言いそびれた台詞はいつか直接言おうと思う。その時には「うんこの拭き方を笑ってごめん」と詫びなくてはならない。
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