「私の精神崩壊と再生の記録~壊れていく日々 2話 ーその時ー
「どうだった」
事務所に大きな声が響き渡る。
出張の成果を問う上司の声だ。
皆の前で成果を問いただされる。
その成果によっては、全員の目の前で、叱責が容赦なく飛んでくる。
胸が苦しくなる。
喉が渇き、うまく声が出ない。
絞り出すように、成果を報告する。
成果は、まずまずだったはずだ。
けれど、少しでも気に食わないことがあれば、すぐに言葉の刃が突き刺さる。
一言一句、地雷を踏まないように言葉を選びながら、慎重に話を進める。
「よし、分かった。」
その一言で、身体の力がふっと抜ける。
重圧から、ほんの少しだけ解放されたような気がする。
だが、それも束の間。
すぐに報告書の作成に取りかかる。
実際の販売数字や今後の伸び率の予測、
提案内容の見積もりや企画書も添付して、
具体的な成果を、細かく、正確に、まとめあげていく。
2週か3週に一度、数日だけ事務所に戻ったときには、この作業に追われる。
その1〜2日の間にすべてを終わらせなければならない。
商談内容によっては、追加の提案書まで作成する。
作業は、深夜まで及ぶ。

夜、静かに流れる時間。
その静けさの中で、私は黙々と、報告書と企画書を仕上げていく。
ようやく終わった頃には、時計の針が0時をまわっている。
もはやこれが“日常”になってしまった。
深夜を超える資料作成も、
当たり前のようにルーティンに組み込まれていた。
重い体を引きずるようにして、帰路につく。
家に着くと、熱いシャワーを浴びて、すべてを洗い流す。
まるで、泥を落とすように。
たまった疲れと、こびりついた緊張を剥がしていく。
身体が温まるにつれて、固くまとっていた鎧が、
ゆっくりと剥がれ落ちていく。
「はぁ……」
一息つきながら、コンビニの弁当をかき込む。
出張先でも、家でも、やることは同じだった。
マンションやホテルには、ただ寝に帰るだけ。
まるで、自分が不在のまま、何かの“装置”として暮らしているようだった。
やがて、意識の帳が下りていく。
こうして、今日という一日が終わる。
それはまるで……
繰り返される影絵のように、
自分が主人公ではない紙芝居を、
ぼんやりと眺めているような感覚だった。
今、振り返って思えば、
このころから、私はすでに自分の心を閉ざしていたのだと思う。
厚く、硬く、何層ものビロードで覆われた心。
その奥にある“本当の自分”は、すべてを殻の内側から眺めていた。
あたかも、他人の人生を傍観するように。
「ああ……明日は、あいつがいる。」
心の内でそうつぶやき、瞳を閉じる。
眠りという名の逃避の中へと身を沈めていく。
早朝。
重い体を無理やり引きずりながら、出社の準備をする。
あいつがいる時は、特に気が進まない。
身体と心が、まったく別の方向に進んでいくようだった。
遅れがちな心を引っ張りながら、無理やり“人間らしさ”を装う。
そして今日もまた、スーツという名の“鎧”を身にまとう。
それが、私の最後の砦だった。
事務所に着くと、隣の席には、あいつがいる。
今日は月に一度の報告会。
月間の売上の結果や、今後の予測について、
各セクションごとに報告する会議だ。
私が任されているセクションも、当然報告をしなければならない。
これが特に、気が重い会議だった。
この会議では、結果が良ければ何も言われない。
だが、少しでも悪い点があれば、そこから傷口を広げるように、
非難の集中砲火が浴びせられる。
最終的には、何も言えなくなり、沈黙するまで、
問い詰められるのがお決まりだった。
「えー、では発表を順番にお願いします。」
一人、また一人と、報告が進んでいく。
誰もが、自分の数字を守るために準備を重ねてきている。
もちろん、私もだ。
何を聞かれても答えられるように、細かい数字まで把握しておく。
だが、毎回のように、私の数字にだけ揚げ足を取ってくる者がいる。
それが、あいつだ。
結果が良かった月でも、関係のない数字を持ち出して、何かと突っかかってくる。
「では、○○課、報告を。」
私の番が来た。
心臓が、鋼のように硬くなる。
余計なことを言わないよう、細心の注意を払いながら発表を進める。
「売上とその結果については、以上です。」
そう締めくくった私の言葉を遮るように、あいつが口を開く。
「ちょっと待ってください。
売上に関してはそうですが、
プロジェクトの管理はどうなっているのですか。」
また、関係のないことで突っ込みを入れてくる。
たまたま今月、人員に病欠が出て、管理が手薄になっているのを分かっての発言だろう。
毎月、イタチごっこのように繰り返されるやりとり。
いい加減、飽き飽きしてくる。
けれど、答えられなければ、そこから集中砲火が始まる。
気は抜けない。
私は無難にやり切り、席に着いた。
あいつが忌々しげに、こちらを見てくる。
“見るな。”
心の中でそうつぶやき、
何事もなかったかのように、手元の書類に目を落とす。
頭の中がぼうっとしている。
それでいて、全身が内側から熱を持ったように熱い。
「どうでもいい」という感情と、「怒りが沸き上がる」感情。
相反するものが同時に押し寄せてくる。
胃が締めつけられる。
私は静かに呼吸をしながら、その熱を閉じ込めていく。
花びらがそっと閉じるように、
その奥にある感情を、ふわりと包み込んで。
気がつけば、次の発表者の報告は、もう終わっていた。
会議が終わると、どっと疲れが押し寄せる。
毎回終わるたびに、身を削られていく感覚が残る。
でも、これだけではまだ終わらない。
私はそれを知っていた。
「この報告書の内容で、お客様は大丈夫でしょうか。」
事務所中に響き渡る、大きな声。
あいつがまた、詰め寄ってくる。
……お前には関係ないだろうが。
そう言いたいのを、ぐっと堪えて。
平静を装いながら答える。
「どういう事でしょうか。」
私は相手の出方をうかがい、何が言いたいのかを探る。
話の根拠を、的確に潰さなければならない。
したり顔で不安点を挙げてくる相手に、
根本的な問題はないと、落ち着いて説明していく。
その間も、頭の中で鐘が鳴り響いていた。
その鐘が、警報なのか。
それとも、何かを告げる鐘なのか。
この時の私は、まだ分かっていなかった。
「そうなんですね。」
わざとらしく納得したように告げる相手の表情を見ながら、
私の中の何かに、音を立てて亀裂が入っていく。
ピシピシと、確かに聞こえるような音だった。

けれど私は、スーツという“鎧”をまといながら、
その異変を、なかったことにしていく。
心の奥から聞こえてくる声を、すべて無視して。
厚い殻で心を包み、
どこか他人の人生を見ているような感覚で過ごしていた。
そうして、何年も続く茶番を、ただやり過ごしてきた。
少なくとも、この時までは、
“やり過ごしているつもりだった”。
しかし。
崩壊は、突然やってきた。
ああ、あいつがまた、いる。
出張から戻り、いつものように席で清算を済ませる。
だが、何かが違っていた。
体中を、悪寒が駆け抜ける。
うっ。
吐き気がこみあげる。
全身の毛穴が一斉に開き、
嫌な汗がじわじわと滲み出してくる。
這うようにして、トイレへと駆け込む。
途端に、息苦しさがすっと消える。
呼吸が、少し楽になる。
何なんだ。
一体、何が起きている?
頭が混乱する。
パニックになる。
深呼吸を繰り返し、
ようやく冷静さを取り戻して、席に戻ろうとする。
……が、動かない。
体が、まるで鉛のように重く、動かない。
この時は、まだ気づいていなかった。
長年、心をないがしろにして、無理やり動かしてきた代償が、
突然、形になって現れたことを。
堰を切ったように、あふれ出す不快感。
とうとう私は、自分の席に戻ることができなかった。
こうして、私は休職することになる。
しかし……
この時は、まだ分かっていなかった。
崩壊は、「終わり」ではなく、「始まり」に過ぎなかったのだ。
以降次回「発症」に続く。
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