私の精神崩壊と再生の記録~壊れていく日々 第3話
「そこまでして働かなくていいと思う」
それは、幼い頃から私を知る義理の兄の言葉だった。
その瞬間、胸の奥で何かが「かたん」と音を立てて倒れる感覚があった。
鋭く刺さるような静寂のなかで、私は言葉を失い、
頬を伝う涙が、堰を切ったようにあふれ出した。
「ほら、そこまで追い詰められなくてもいいから」
優しく問いかけてくれた兄に、私は何も返すことができなかった。
翌日、私は会社に退職届を提出した。
今度は、すんなりと受け取ってもらえた。
肩の荷が一気に下りたようで、胸の奥からふっと安堵が湧き上がったのを覚えている。
「有給を使って、しばらくゆっくりしなさい」
兄とともに、姉も穏やかな口調でそう諭してくれた。
春風に優しく撫でられるように、
その言葉は、ざわついていた私の心を、静かに凪がせた。
これで、すべてが終わる。
そう思った。すぐに再出発できると、信じて疑わなかった。
けれど、20年分の疲労は、すでに私の心を、静かに、深く錆びつかせていた。
退職後、私は久しぶりに訪れた自由な時間を楽しんだ。
けれど、どこか心の片隅で、「このままではいけない」という焦りが、常にくすぶっていた。
私は、自分に日課を課すことにした。
毎日のランニング、筋トレ。
そして、30年以上続けてきた武道の稽古。
やがて再就職についても考え始め、履歴書を書き、就職サイトに登録し、面接を申し込むようになった。
運動と、就職活動のための事務作業。
それらが、私の毎日を埋め尽くすようになっていった。
けれどその頃から、私は、少しずつ、気づかぬうちに、灰色の世界に沈み込んでいった。
ある日、就職面接のために駅の繁華街を歩いていた。
すると、突然、違和感が襲ってきた。
「おかしい……人が、みんなこちらを見ている」
その視線が、無数の針のように突き刺さってくる。
胸の奥がざわついて、呼吸が浅くなる。
面接では、さらに奇妙なことが起きた。
面接官の声が、頭の中で、響いていたのだ。
現実に聞こえている声と、頭の奥で反響している声。私は混乱しながら、二つの会話を同時に進めなければならなかった。
汗が額を流れ落ちるのを拭いながら、私は必死に面接を終えた。
だが、帰り道では、
横断歩道の人々や、街頭に立つ人たちの“心の声”までが、頭の中に流れ込んできた。
その情報量の多さに、私はめまいを覚え、足元がぐらつくような感覚を抱えながら、駅へと急いだ。
「大丈夫、この人」
「え、きもいんだけど」
そんな声までもが聞こえてきて……
私は、全身を恐怖に支配された。
それから、私は家に閉じこもるようになった。
けれど、誰もいないはずの部屋の中でも、声は聞こえてきた。
知らない誰かが、壁越しに語りかけてくるような気がした。
昼も夜も関係なく、さまざまな情報が頭の中に流れ込んできた。
まるで、自分がずっとテレビの中にいるような錯覚に陥っていた。
やがて、遠く離れた場所にいるはずの両親や姉の声までもが、聞こえてくるようになった。
その頃にはもう、現実と妄想の境界が、すっかり曖昧になっていた。
私はその声を信じ、姉にメールを送り続けた。
異様な内容に、姉たちはただならぬ気配を、確かに感じ取っていたという。
そして、決定的な出来事が起きた。
妄想の声に導かれるまま、
私は、数百キロ離れた実家へと、車を走らせてしまったのだ。
突然の帰省に、実家は慌てていたらしい。
けれど私は、頭の中で何度も家族と会話していた“つもり”だった。
だから、不思議と心配はなかった。
ところが、目的地に近づいたころ、再び声が響いた。
「今、家に帰ると問題が起きる。直ぐに引き返せ」
突拍子もないその言葉に戸惑いながらも、私は帰宅を諦め、途中でUターンしてしまった。
異変を確信したのは、母と姉たちだった。
マンションに戻った私に、姉から電話が入った。
その声は、どこまでも優しく、諭すようだった。
「就職活動はいいから、一度家に戻っておいで。待ってるからね」
その優しさに、私は電話口で、こらえていた涙が溢れ出した。
喉の奥が詰まり、嗚咽が堰を切ったように漏れ出す。
その私を、姉はただ静かに、何も言わずに、受け止めてくれた。
このとき私は、何があっても、実家に帰ろうと決めた。
「無理せずにね」
その一言を胸に、私は再び車を走らせた。
今度はもう、追われるような感覚ではなかった。
ただ、温かな場所に帰りたい。
家族に、会いたい。
その思いだけで、私はハンドルを握った。
実家に到着すると、家族が迎えてくれた。
そして姉の勧めに従い、私は精神科を受診することになった。
玄関先で深呼吸しながら病院へ向かうその足取りには、
どこか、すべてを委ねるような、静かな覚悟があった。
安堵と安心に包まれた私は、
これで、すべてが終わると信じていた。
けれど、本当の試練はここからだった。
苦しい闘病と、閉鎖病棟での日々が、私を待ち受けていたのである。
その時はまだ、その静寂の先に広がる現実を。
私は知る由もなかった。
閉鎖病棟への入院へ、続く。
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