【歴史探訪】鳴海城跡 〜桶狭間の戦いで最後まで籠城を貫いた今川方猛将・岡部元信の城〜
鳴海城は、かつて愛知県名古屋市緑区に存在した城で、桶狭間の戦いの際には今川方の重要拠点でした。織田信長はこの鳴海城に対し、丹下砦・善照寺砦・中島砦を築いて包囲し、厳重に警戒していました。
一方、鳴海城の守将は今川方の猛将・岡部元信。あまり知られていない武将ですが、彼は桶狭間の戦いで今川義元が戦死した後も籠城を続け、城の明け渡しを条件に交渉し、主君・今川義元の首級を取り返すことに成功しています。
本記事では、知られざる鳴海城での攻防の歴史と、その関連スポットについてご紹介します。
鳴海城の歴史

鳴海城は、現在の愛知県名古屋市緑区鳴海町にかつて存在した城で、別名・根古屋城とも呼ばれています。現在、跡地には鳴海街道を挟んで東に天神社、西に鳴海城跡公園があります。
当時の遺構はほとんど残っていませんが、いずれも周囲より高台状となっており、かつて城があったことを感じさせます。


鳴海城の起源は、戦国時代の応永年間(1394〜1428年)、足利氏の武将・安原宗範が、かつてこの地に鎮座していた成海神社を乙子山へ奉遷し、築城したことに始まります。

現在も乙子山に鎮座しています。
天文年間(1532年から1555年)の頃には、織田信秀(信長の父)の支配下にあり、織田家に仕えていた山口教継が城主でした。信秀が死去し信長が家督を継ぐと、教継は一転して今川家に寝返ります。そして、鳴海城の城主を教継の子・山口教吉としました。
天文21年(1552年)には、山口教継が今川方の武将を引き入れたことで、信長が出陣し、「赤塚の戦い」と呼ばれる戦が勃発しました。勝敗はつかず、捕虜や馬の交換によって決着したといわれています。
しかしその後、山口親子は今川義元により切腹させられます(一説には、赤塚の戦いで山口親子が織田方へ与したことを危惧したためだと考えられています)。

成海神社は遷座しましたが、かつて鳴海城の鎮守であった
天神祠は、現在も跡地に鎮座しています。
ここで次の鳴海城主となったのが、今川方の武将・岡部元信でした。元信の「元」は、今川義元の「元」の字を拝領したものといわれています。また 岡部元信は、天文17年(1548年)の第二次小豆坂の戦いで織田信秀(信長の父)の軍と戦い、勝利に貢献しました。これらのことから、義元の信頼が厚く尾張侵攻の最前線であった鳴海城の守備を任されたと考えられます。
そのような情勢の中、対する織田信長は永禄2年(1559年)、鳴海城から約700メートル圏内に丹下砦・善照寺砦・中島砦を築きました。



こうした睨み合いの中で勃発したのが、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いでした。世に知られる通り、信長は今川義元を討ち取りました。他の今川方の武将も次々と戦死する中、元信は鳴海城で籠城し、最後まで抵抗を続けました。そして元信は信長と交渉し、鳴海城を開城することを条件に、主君・今川義元の首級を取り返すことに成功します。
鳴海城を開城した岡部元信は今川氏の領国である駿河国(現在の静岡県中東部)へ帰還します。その途中、主君・義元の無念を晴らすためか、刈谷城(愛知県刈谷市)に火を放ち、城主・水野信近を討ち取りました。義元の嫡男・今川氏真はこの働きを喜び、元信に感状を与えたといわれています。

徳川家康の母・於大の方ゆかりの地でもあります。
その後、鳴海城は信長の家臣である佐久間信盛とその子・信栄が城主となっていますが、天正18年(1590年)に廃城となったといわれています。
そして、かつて鳴海城主であった岡部元信は今川氏真に仕えるも今川氏が滅亡。次いで武田信玄・勝頼に仕えます。さらに勝頼から高天神城の城代に任命され、今度は徳川家康の軍勢に対して籠城戦を繰り広げることとなるのです。

【関連スポット】
東福院
真言宗智山派の寺院で、鳴海城跡から北西約100mに位置します。古くは鎌倉街道沿いにあり、寛永年間(1624年〜1644年)にこの地へ再建されました。
その寺門には、鳴海城の廃材が用いられていると伝えられています。

鳴海宿高札場(復元)

鳴海城跡(天神社側)の付近には、復元された高札場があり、高札のレプリカが5枚掲示されています(高札の実物は名古屋市博物館に保管されています)。
江戸時代の鳴海は、五街道の一つ「東海道」の40番目の宿場町でした。こうした人通りの多い宿場町には、幕府や藩主が定めた法度(ルール)が高札に墨書きされ、掲示されていました。
成海神社

前述の通り、元々は鳴海城跡に鎮座しておりました。創建は大変古く、朱鳥元年(686年)に草薙神剣が熱田に還座された際、日本武尊との縁起により創建されたと伝えられています。日本武尊を主祭神に祀り、妃神の宮簀媛命と、その兄神である建稲種命を配祀しています。
平安・鎌倉時代以前の鳴海周辺は、鳴海浦と呼ばれる潟(遠浅の海岸で、潮の満ち干によって隠れたり現れたりする所)であったといわれています。
景行天皇即位40年、東征の際に日本武尊は、対岸の尾張国造(ヤマト政権が任命した尾張の地方官職)の1人・乎止与命と、その娘・宮簀媛命が住んでいたと伝わる火高(現在の名古屋市緑区大高)の地を遠望し、「鳴海浦を 見やれば遠し 火高地に この夕潮に 渡らへむかも」と詠んだと伝わっています。
以上、関連スポットのご紹介でしたが、歴史パートでも記載した通り、鳴海城跡からそれぞれ約700メートル圏内には、織田信長が築いた三砦(丹下砦・善照寺砦・中島砦)もあります。これらもぜひ訪れてみてください。
