洋書多読感覚で昭和ファンタジー 「田紳有楽」
藤枝静男「田紳有楽」読了。
敬愛する作家が「昭和のぶっとび私小説」と絶賛していたので、図書館で借りて読む。本当は「空気頭」という作品とともに、代表作といわれる2作を読む予定だったが、公立図書館には2作入りの書籍がなく、とりあえず「田紳有楽」1作を。
借りたときからぶっ飛んでいた。外見が。ボロボロだった。

しかも、市内全域での在庫が、この一冊しかないという… ビンテージものか?
よーし、気合入れて、読むぞ、と読み始めたところ、最初の関門が。
難しい漢字語句がオンパレードで、読み仮名が一切ついていない。そもそも、タイトルからして、読めない。調べると、「でんしんゆうらく」だそう。田舎の紳士が遊んで楽しむ、みたいな意味らしい。これ、辞書に載っていないので、多分、作者藤枝の造語だろう。
1ページに、読めない語句が4つも5つもある。自分に学がないからだと言えばそれまでだが、でもこれ、専門書でも哲学書でもなく、小説だよ。
仕方なく、スマホを駆使して、読み方を調べ、意味を確認していく。すると、どうも、ほとんどが植物や動物の名前、あるいは仏教に関わる用語らしかった。つまり、難解語句の大部分は、固有名詞。なんだ、じゃあ、適当に読み飛ばしていこう。それでも、ストーリーはわかるはず。
この感覚には覚えがある。そう、洋書を多読するときの感覚だ。
「わからない単語があっても、辞書を引かずに、大きなまとまりをつかむようにして読み進めましょう」
ハリー・ポッターを原書で読んだときなんか、意味不明の、読み方さえ不明の語句が相次ぎ、くじけそうになった・・・その大部分は、わけのわからない想像上の動植物や魔法、造語の羅列だったが。そのときの感覚だ。
「1ページに分からない単語が2,3語あるくらいが、あなたの語学力に合ったレベルです」
いやいや、この小説、私の日本語レベルを超えているんですけど…
そんな感じで、じゃあ、日本語の多読ね、とわりきり、語句を飛ばし飛ばし読み進めると、一人称語りの主体が、頻繁に入れ替わる。最初の「私」(とはいえ日本語らしく一度も私という言葉がない)は、人間らしかったが、10ページほどで次の章に移ると、急に「私はぐい吞みだ」となる。陶器?しかも池に住んでいて、金魚と恋をする、陶器… そしてその次の章の「私」は、抹茶茶碗。日本全国、水のあるところどこにでも移動できるらしい。さらに次は、なんと、空を飛べるどんぶり茶碗の「私」。
作者が強く「私小説」であると主張するからには、このように「私」としての視点が頻繁に変わるのには、何か意味があるに違いない…しかも、全ての「私」が人外とは。(主人公のように見えた最初の人間でさえ、実は人間に化けた弥勒菩薩であった。)
人外であるばかりか、それぞれの「私」は、見かけとは違う「イカモノ=まがい物」であり、本来のモノにはない特殊能力を持っている。それら「私」たちの突飛な行動に加え、何だかわけのわからない仏教的な要素が加わり、奇想天外な世界が矢継ぎ早に繰り広げられてにいく。私は仏教のことは詳しく知らないので、どこまでが本当のことで、どこからが創作なのかはわからない。
そんなところも、ことの詳細がつかめずモヤモヤしたまま読み進める、洋書多読の感覚に似ている。
私小説というと、リアリズム、ということのはずなのだろうが、どうも、藤枝のこの私小説は、違うようだ。
明らかに現実とはかけ離れた設定の私小説が、どんどん怪しく、混沌としていく。
「ぐい吞み」と「金魚」との、エロティックな交尾。(本当にエロい。人間じゃないから発禁にならなかったのでは?)
チベット奥地での仏教修行と、壮絶な鳥葬の一部始終描写。
蛇の姿のなりすまし阿闍梨の、これまたなりすましの「私」による暗殺計画。
人間の姿をした弥勒である「私」と、同じく地上に潜伏する地蔵や妙見や大黒との終末世界談義。
一体どのような結末になるのかと思いきや、いわゆる「結」らしきものはなく、代わりに全登場人物による、にぎやかで滑稽な、ヒマラヤ仏教音楽?合奏シーンで終わるのであった。
ジャラン ジャラン ジャラジャラ
ガーン ポラーン、
「ペイーッ、ペイーッ」
それはまるで、昭和のテレビバラエティ「8時だヨ、全員集合」でのドリフの芝居コントがクライマックスに差し掛かったときに、おもむろに姦しい音楽が流れて舞台セットが回り出し、混沌のうちに幕を閉じる、という、あのおきまりの終わり方を彷彿とさせるものだった。
なんなの、この私小説??まあ、楽しく読ませてもらったけれど… これのどこが、私小説なのだろう…? ファンタジーかSFにしか思えなかった。
作者の藤枝静男について、ちょっとだけ調べると、私小説という形態をとった「心境小説」の境地を開いた作家、ということらしい。つまりは、このわけのわからない話は、藤枝の心情をカタチにしたものである、ということだ。
著者によるあとがきで、二つほど、なるほど、だからこうなのね、と納得した部分があった。
ひとつは、この小説が、最初から最後まで順に筆を進めたものではなく、まずはあるシーンを書き、その前後左右にさらに話を継ぎ足すという方法、建物で言えば、まずは掘っ立て小屋を建て、それから2階部分や離れを建て増ししていくような、「積木式のやりかたで畸形児みたいなもの」をこしらえた、とある。それで、「私」が脈絡なく入れ替わっていく、あの形になったのか、と納得した。
もうひとつは、「朝鮮李朝民画」の「文房具図」の構成をイメージしたとある。ウェブで調べると、確かに、様々な文房具が、遠近法を無視して雑多に並べられている。そのような「理解不能な」変な絵に、当時の藤枝が惹かれていたという。これも、本小説の雑然とした構成を表しているなと思った。
このふたつをあわせると、藤枝の心中は、「理解不能な」「畸形児みたいな」脈絡なき混沌が、渦巻いていた、それを、このような形で表現した、ということになる…
藤枝は別にエキセントリックな人物だったわけではなく、寧ろくそまじめな人間だったらしい。志賀直哉の影響を受けた、「簡潔で硬質な力強い文体と自他を隔てず冷徹な観察眼」をもつ作家だとのこと(自称・他称)。
年表を見ると、幼少時より最後まで結核に悩まされ、それが原因で家族や妻まで亡くした人生だったようなので、晩年に書かれたこの作品は、ずっと背負ってきた重い死の影に対する、何か、アンチテーゼのようなものを表現したかったのかなあ、と、私は勝手に考えた。
ここで、ひとつ、思い出した言葉がある。水木しげるの言葉だ。
「この世は通過するだけのものだから、あまりきばるな」
確か、作中の猫に言わせていたセリフだったと思う。水木しげるも、戦争で悲惨な思いをした人だった。抱えきれない苦しみをどうやって乗り越えるのか、それを、猫を擬人化した漫画でこう表現したと。
藤枝も、耐えられない永遠の苦悩に、疲れて、何か救いがほしかったのかもしれない、と思った。その証拠に、ラストの部分で妙見菩薩が弥勒菩薩に
「(最新の科学によると、弥勒の君が五十六億年後に衆生を救うよりも先に、全世界はブラックホールに飲みこまれるのだから、)この世の暗闇がすなわち浄土(だから、悩むだけ無駄だ、ここはもう、気楽にいこうや)。」
と、諭す場面で、話が事実上、終わっている。
作中で唯一人間らしい「私」である弥勒は、常に体中に強いかゆみを覚え、ぼりぼりと掻く描写が随所にあった。途中で人となって現れる妙見菩薩も、人となった途端に、同じかゆみで苦しむ。
この、かゆみの描写を、わたしは、「人間界の欲や苦しみ」に対するアレルギー反応なんじゃないか、と感じた。もう、そんなことからは、自由になりたい、というような…
この私小説、一作だけで、藤枝の分析や評価はできないわけで、深く踏み込むには、何作も読む必要があるが、この作品が一番有名で、次に有名な「空気頭」は、どうも、赤裸々な下の話を含むかなり暗い作品のようなので、これ以上、別のものを読む気にはなれず、この一冊で終わりにしようと思う。
洋書多読感覚で楽しむ、昭和ファンタジー、田紳有楽。
ペイーッ、ペイーッ

