巡る。|あるサンドイッチ屋の9年間
サンドイッチ屋を始めてもうすぐ9周年に突入するが、お店を閉めることにした。
夏の終わり頃、この世田谷弦巻でやっていたサンドイッチ屋を閉めます。
閉めて、群馬県嬬恋村に移住します。
ついにこのお知らせを公にした。
あの日、辞めようと決意したのは、もうだいぶ前のことなのだが。
人と積み重ねた9年間
お店を閉じます、とInstagramにお知らせをした翌日、お店に飛び込んできてくれた人がいた。その人とはお店を始めた頃からの付き合いだ。
最初に覚えてるのは、娘さんの1歳の誕生日にサンドイッチを詰め合わせたBOXを注文してくれた時のこと。
そんな特別な日に、うちのサンドイッチを選んでくれてとても嬉しかった。いつもは度胸がなくてそんなことはできないのに、娘さんの名前を聞いて、箱を開けたら見えるところに、「Happy 1st Birthday ⚪︎⚪︎ちゃん♡」と書いたのを鮮明に覚えている。
そのお母さんが、店に飛び込んできてくれたのだ。
「昨日の夜に投稿を見て!もう、、、ずっとあるものだと思ってたから、、、」と涙目。もちろんつられて涙目になったが、私まで涙目なのがバレたら、今度は二人して涙を流しかねないので、なんとか耐えた。
その娘さんは今はもう小学2年生。ずっとずっと見守ってきた。
なんせお家が近くで、幼稚園のバスの乗り場へ向かう朝、店の前を通る時に、「行ってらっしゃい」と手を振り、帰ってきたら、「おかえり〜」と手を振り、よくサンドイッチも買ってくれた。幼稚園を卒業した後も、休みの日はお父さんとよく店の前を通ってお出かけする時も、大きな声で「バイバーイ」と手を振ってくれる。しかも私と、一緒に店に立つ旦那の二人ともが、しっかり手を振っているかを確認してくれている。生存確認。私たちが見守っているというより、もうこれは完全に見守られている。
「でも、、、サンドイッチファミリーならありえるなって思いました」とも言っていた。移住のことだ。こいつらならやりかねない、ということだ。
よぉ〜くおわかりで。さすが長いお付き合い。
一度もお酒を酌み交わしたことはないし、なんならじっくりお互い座って話したこともないけど、日々顔を合わせて手を振って、たまにちょろっと近況報告して、お互いの子供の成長を喜び合う。そんな9年間でも分かり合えるのだ。いや、そんな人付き合いが、私は好きだ。
嬬恋の近くに来た時は会う約束をした。
お店を閉じるお知らせをしてから数日後、あるお客さんが来てくれた。彼女、というか彼女含めたご家族にはお店のオープン日当日からお世話になっている。
お店のオープン日、不安しかない1日だったが、夕方残っているサンドイッチを全て買い占めてくれた人だ。鮮明に思い浮かぶ。初の完売御礼。
それからも、ここにあるやつ全部、みたいな感じでよく買ってくれた。
買い方がかっこよすぎていつか真似したいと思っているが、未だ財力が伴わない。
この家族の娘さんが小学校4〜5年生の頃に、夜に塾で食べる「塾弁」として、うちのサンドイッチを採用してくれていた。
働くお母さんからの提案で、毎週塾の日の夕方に、娘さんが一人で店に寄ってサンドイッチをピックアップして塾に行く。
小さいサイズのおかず系サンドとフルーツサンド。メニューはおまかせ。代金は、お母さんが毎月まとめて支払ってくれる。
まだ娘にお金を持たせてコンビニで買わせるってのも嫌だし、朝仕事に行く前に作ったお弁当を夜食べるのはちょっと怖いからと。
私は、毎週その日が楽しみだった。サンドイッチを入れる茶色い紙袋に、今日のメニューと「今日も塾頑張れー」とか「今日はこんなことがあったよー」なんていうどうでもいい一言を付け加えるのが楽しかった。
彼女のことだけを考えて、こんなものが好きだろうとメニューを考えたりもした。
そんな彼女ももう大学生になったらしい。毎週サンドイッチを取りに来てくれていた頃はショーケースから顔が出なくて、いつも恥ずかしそうにしていたのに。
この前、顔を見せてくれた時はニュージーランドへの留学を経て、大学受験している時だった。その時も恥ずかしそうにしていたが、彼女の姿は眩しかった。確実に成長している。
私はというと、お店オープン日の緊張と不安がトラウマ(?)となって、お母さんに会うと反射的にシドロモドロになるのは、今になっても変わらない。全く成長していない。
そのご家族も先日引っ越したらしい。そうだ。みんなそれぞれの道を歩み、ずっと同じものなんて何もない。それはここで9年間、人や街の流れを見てきて痛いほどわかっていることだ。
モノに染み込んだ9年間
この間、棚の奥底から木の小さなマドラーの束が発掘された。
これは、、、
9年前、お店をオープンする準備中、確かもう前日とかだったと思う。
脱サラしてお店をやる!という突拍子もない行動にやたら感動してくれた友達が、その子の仕事を休職してまで1ヶ月以上お店をつきっきりで手伝ってくれていたことがある。
店の家賃だけを払い続け、何も始まっていない状況に焦っていた私は、無理なオープン日を決めて、それに向けて暴走していたわけだが、
案の定、前日になって、あれもないこれもない、どーするどーする?やばいやばいやばい、となっていた。
その時の”1/100やばい”が、「マドラー」で、なんとかガムシロップやミルクは揃えたが、それどうやって混ぜる?となっていた。その使い捨てマドラーが意外に売っていない。その友達が、近所を探して回ってくれた。
でも結局近くのコンビニ・スーパーや薬局では見つからず、隣町の百均に行くほど余裕がなかった時、その子は近くの焙煎所に飛び込んでくれたのだ。
私も存在は知っていたが、工場のような建物の入り口に、手作りのコーヒー豆販売の看板。人見知りにはハードルが高い。中がどうなってるのか未知すぎるお店。
そんな焙煎所に飛び込んで、豆を買うわけでもなく、近くでお店を始める予定なのに挨拶もしておらず、そこに豆を頼んでいるわけでもない。そんな状況で、「マドラーちょっと分けてもらえないですか」と頼みに飛び込んでくれたのだ。
コミュニケーションお化けかよ、いや女は度胸。そんな友達だ。
その焙煎所の方の名前もしっかり聞いて、「ようこさんがめっちゃいい人だったー」と仲良くなって帰ってきたのを強烈に覚えている。
だが、こちらは記憶が曖昧だが、結局、肝心のマドラーは手に入らず、(焙煎所でドリンクは提供していないお店だから当然)後日サイズも微妙なマドラーをなんとかして手に入れたんじゃなかったかな。
数年後、その焙煎所「近藤製作所」に豆を焙煎してもらうようになり、今ではそのようこさんに、東京のおばあちゃんばりに、息子のよだれかけや保育園で使うバッグを縫ってもらっているお付き合いだ。
9年やっていると棚の奥底のマドラーでさえ、これだけエピソードが染み込んでいる。
モノに思い出が染み込むとまだわかっていない時、色々なものを手放してしまった。
お店オープン当初に置いていた大きなテーブル。広い空間にポツンとあった唯一のイートイン席。4〜5年目でコロナが落ち着き始めた頃、イートイン席を増やそうと思って、ソファ席を導入。
そうするとどうしてもその大きなテーブルが合わなくなる。そこで近くのリサイクルショップが無料で引き取ってくれるとのことで、お願いした。
お別れが決まった途端、いろんな思い出が小さな粒となって集まり、大きな波となって心は洪水。
知らないおじさんに、お店から運び出され車に積まれるのを見ていて、なぜこんなに悲しくなるのかと動揺した。
大きいテーブルにあの赤ちゃんが寝かされて、お母さんが食べてたりしてたっけ。
どうしても捨てたくなかったモノもある。
それはお店の裏口のドアの内側の郵便受けだ。
なぜか元々郵便受けはついておらず、そこから入れられる郵便物は床に散乱していた。
そこで、オープンを手伝ってくれた友達が、紙袋でお手製の郵便受けを作って、ドアに貼り付けてくれていたのだ。
それには「今日も頑張ろー(^ ^)」と書いてあった。
月日が経ち、裏口からの出入りを繰り返すうちに、その紙袋はボロボロになり、ビリビリと破れだし、もう郵便物も受け止められなくなっていた。
何度かテープで修正して、貼り直していた。がしかし、ビリビリは止まらない。
もう郵便受けとしての機能は諦め、ただそこにあって欲しいと貼っていたが、貼る場所もビリビリと破れ続け、もう貼り直すのも難しくなっていった。
正直汚らしいし、新しく入ったアルバイトのスタッフからしたら、裏口のドアにくっついてるこれはなんじゃこりゃ、と言う感じだったろう。
それを1年前くらいに、もうどうしようもなくなって勢いで捨ててしまった。捨てる前に写真を撮った気もするが、その写真も探し出せない。
でも目にはしっかり焼きついている。モノはもうないけど、あの時手伝ってくれた友達への感謝と、その言葉にどれだけ励まされたかは一生忘れない。
お店を閉めるとお知らせをした後は、わざわざ来てくれる人がいるはず。その人達に何か渡せるモノを用意したい、と思った。
そこで、卒業記念として蜜蝋ラップを作ることに。
お店で数年前から使っている、サンドイッチを寝かしておくときに包む蜜蝋ラップ。
それは、戦争のせいで使い捨てラップの値段が爆上がりしたのがきっかけではあるが、前々から使い捨てラップを消費しすぎている罪悪感もあったから。
それはなんだかとても私たちらしいとも思った。
記念品の蜜蝋ラップには、私たちの日常の写真をプリントした。店のロゴを繰り返す、いわゆるありがちな柄ものの蜜蝋ラップじゃ面白くないと思ったからだ。
しかも写真は、いつもインスタグラムに投稿しているサンドイッチの写真ではなく、日常のこの空間を思い出せる写真にしたかった。

冬の朝、出勤した時に見た、優しい朝の光

ショーケースの明かりをつけて写真を撮ると反射しちゃうので、この写真は店の者だけの特権。

ここでたくさんの時間を、
うちの子供とスタッフ達は過ごした。
カウンター内にある子供椅子って
なかなかレアでしょう。
家族で営むお店ゆえに、オンもオフもごっちゃごちゃ。
でもそれがいいじゃないという、私たちの日常を染み込ませた。
手作りゆえの粗さもあるけど、使い込んだら馴染んでいく。
水洗いして、台所に吊るしていたら、台所の明かりを通して写真に写した空間が浮かび上がって、はっとする。そんなのを想像して作った。
サンドイッチはまたどこでも作れるけれど、この空間とはもう本当にもうすぐさよならだから。
この空間やそこにあった光を、ふと思い出せるように。
景色が巡った9年間
お店をやるということ、特に実店舗を営む、ということは、
毎日同じ場所にいる、ということでもある。
特にうちは正面をガラス張りにしたから、外の景色をずーっと眺めてきた9年間でもあった。
店の前はいろんな人が行き交うT路地。
毎日店の前の道を何度も歩く人には、お店に来たことがなくても、私たちの中で通じる呼び名があった。
店の前の道は近くの小学校の通学路。これは最高の癒し。
近くには保育園もあって、たくさんの親子が行き交う。
9年間、お店のガラス窓の向こうに見える街の景色を定点観察してきたのだ。
結果、分かったことがある。
変わらないものなどないのだ。
いつの間にか見なくなってしまう人もいれば、次々と新しいキャラが登場する。
ずっといる人も成長したり歳をとっていく。
向かいのお蕎麦屋さんは60年の歴史に幕を閉じてしまったし、並びのお店も変わっていった。
ずっと変わることなく同じで、ここにあるものはない。
お店を始めてしばらくは、それがちゃんとわかっていなかったために、寂しい思いをした。
毎日のように(時には1日に2回)来てくれていた常連の親子が引っ越してしまった時だ。息子くんが2歳の頃から毎日のようにお店で遊んで、もはやお店の人と常連客を超えて、友達だった。
ずっとその子の成長を見守っていくものだと思っていた。
でもお父さんのお仕事の影響でドイツに行ってしまったのだ。よりによってドイツ!すぐに会いにも行けない。
そうだ、ずっとここに住んでいるなんてなんで思っていたんだろう。そんなわけないのに。
その家族は今でも日本に帰国した時に(今はアメリカにいる!)わざわざお店に顔を出してくれる。
その男の子はもうイケイケの多言語を操る少年で、もう照れて私の膝に座って絵本を読んだりはしてくれない。
ショーケースからすらっとした背が伸びている。
それは成長だと分かっていても、結局は寂しさを覚えてしまうのだ。
1週間に何回も来て、同じメニューを頼み続けてくれるお客さんがいる。
他のメニューには目もくれない。
ちょっと食べ過ぎだよ、と注意したくなるくらい。
でもある日ピタッと来なくなる。
すると心配になる。あの時食べたものが美味しくなかったかな。何かやらかしてしまったかな。と。
でもしばらく来ない日が続くと、うちのサンドイッチが原因なんてそんなことはなく、ただ引っ越したとか、彼女と別れたとか、急に親御さんが介護が必要になった、とか、私たちとは関係のない理由があったに違いないと思えてくる。
ずっと1本の太い糸で繋がっていると思っていても、その人の周りには蜘蛛の巣のように他の糸も張り巡らされていて、そっちに引っ張られれば、私たちとの糸はちぎれてふわっと飛んでいってしまう。
でも私たちは他の人や場所とたくさんの糸で繋がりあっているし、一旦離れてもまた繋がれる時もある。
変わり続けるということはそういうことだ。
ただ、変わることは悪いことだけではない。新しく常連になってくれたお客さんだってその変化の中で巡ってきたのだから。
これは、私たちが動かずにこの場所にずっと居続けたからこそ、気づけたことだと思う。
たった9年間でも。
今度は私たちが動く番になった。
お店をなくすことに、常連のお客さんや友達に罪悪感を覚えるが、
今度は私たちが他の線に引っ張られて動く番だ、
と思うと少しだけ、その罪悪感は薄れる。
もう一つ、ここで定点観察してきた景色。
それは夏だ。
これまでこの場所で9回の夏を経験してきたが、暑さがどんどん異常になっていることを痛いほど感じる。
お店を始めた2017年にはすでに、
子供の頃にあった”夏は外で元気に遊べる開放的な季節”
なんてイメージはもう持てないことに気づいた。
そしてここ数年の夏は、さらに異常が増している。
コンクリートに蓄積された熱が朝晩に冷えないまま、また昼が来てしまう。
東京では、天気予報で伝えられる温度よりも、体感はもっと暑い。
徒歩3分のコンビニに行くのも真昼は命懸け。
子供なんて絶対に歩かせられない。
公園で遊ぶなんてもちろん危険すぎてできない。
緑の多い公園が周りにはたくさんあって、そこがこの街の好きなところでもあった。
その緑の中にいると、涼しい風が吹いて、それだけで満たされる。
しかし、酷暑の中は、その公園への移動が、できない。
そんな中、10:00-17:00でオープンしている私たちは、「(外出して)来てください」とは言えなくなっていた。
酷暑の中、汗だくでクラクラしながらお店に来てくれる人に、「暑い中ありがとう」と同時に「申し訳ない」「危ないからやめた方がいい」という気持ちもセットで出てきてしまう。
ここ数年で、この変化なのに、この先数年後はどうなってしまうのだろう。
ドバイのように、昼間は誰も外に出ず、社会活動は夜にシフトしていくのだろうか。
では私たちもその流れにのまれ、夜営業のサンドイッチ屋になるのか?
それとも外食はデリバリー中心になっていくのだろうか。
酷暑の中は配達員さんも厳しくなり数が減る。
ということはドローンが配達してくれる未来を待つしかない?
あれ、それって私たちのやりたいお店だったっけ。
わが息子は5歳になったところ。
動物や恐竜、鳥が好きで、他の子供と同様、外や公園に連れて行けば、内なるエネルギーが発散されて、生き生きとする。
この子のこれからの子供時代はどういう風になってしまうのか。
すでに5歳のうち3年は真夏は外で遊べていない。
それならば、避暑地に移り住もう。
言ってみれば動物的勘で、移住を考え始めたのだ。
とはいえ、どこに?
それで思い出したのが、おじいちゃんが昔買ったという土地。
子供の頃何度か見に行ったことがあるが、何も目印のない森の中で、その土地がどこにあるのかもわからなかった。
しかもその土地は、親戚のおじさんに騙されて買った、という親戚の間での笑い話のネタだった。
「新幹線が通る」とか「オリンピックの会場になるかも」とか言われて、何もない土地をまぁまぁの値段で買わせる「原野商法」というらしい。
でも確かそこって、嬬恋っていう高原の避暑地じゃなかったっけ。
ありがとう、おじいちゃん。
そしてこのままだと本当に騙されたままだけど、私たちが使えば、騙された感も薄れ、喜んでくれそうじゃない?
これが、移住を考え始めたきっかけ。
そしてそれが嬬恋村だった理由。
でもあまりに大きな変化に、すぐには決断できずにいた。
というより、私はすぐに決断して暴走しがちだから、こればっかりはお店のこと、家族のこと、私一人で暴走できない。
だからしばらく私の頭の中だけで、寝かせる期間を取ったりもした。
それでも想いは強くなるばかりだった。
そして決断したのはあの日だった。
お店で流しているラジオから、
アメリカの大統領選の結果が流れてきた。
誰かがなんとかしてくれるんじゃないか。
日本も世界も良い方向に向かうかもしれない。
そんな風に待っていたらダメなんだ。
あの日、そう思って、移住を決断した。
今は周りに何もない森の中に、新しい家を建設中だ。
国産の木と土で作る家にした。
「日本の山を守りたい。未来の子供のために。」そう本気で考えている工務店にお願いした。
もちろん、決断してからこれまで想像通りにはいかないことばかりで、紆余曲折あったが、
新しい家は、私たちができる範囲の行動を起こした証しになってくれるだろう。
この選択も、新しい家も、そこでこれから営む暮らしも、
息子に胸を張れるようなものにしたい。
嬬恋の家の建設現場に行くと、
鳥のさえずりが歌になって響いている。
木々の間を透き通った風が吹いてくる。
これが私たちの選択。
これでいいんだ、と思った。
