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図書館のきみに 《第八話》

【あらすじ】
図書館での日々の中で、
凪との距離は少しずつ近づいていく。

たわいもない会話、ふとした笑顔。
そのひとつひとつが、茜の心を揺らしていた。

でも凪の中には、まだ触れられない過去がある。
「その人のために書いてる」
その言葉の意味を、確かめることができないまま。

一方で蓮との関係も、曖昧なまま続いていく。
近づくことも、離れることもできない距離。

そんな中、凪が熱を出し、
茜は望に連れられて凪の部屋を訪れることになる。

初めて見る、凪の“生活”の気配。
本棚に積み重なる思考。
そして、ふたりだけの静かな時間。

凪が伸ばした手の熱と、
「うれしかった」という凪の言葉。

その夜、茜の中でひとつの気持ちが形になる。

——この人に、愛されたい。



【第八話】ごめん、の意味

 梅雨明けの空が、遠くまで続いていた。

 久しぶりに図書館で凪と会ったのは、凪の熱が下がってから三日後のことだった。

 夏休みが近づいて、キャンパスには浮き足立った空気が漂い始めていた。講義の終わりにグループが集まって、旅行の話をしている声があちこちから聞こえてくる。茜はそのざわめきを後ろに聞きながら、いつもの道を歩いて図書館へ向かった。

 扉を開けると、すぐにわかった。凪がいる。

 窓際の、いつもの席に。ノートを開いて、ペンを持って、まるで何日も経っていないように、そこにいた。でも茜には、その姿がいつもより少しだけ輝いて見えた。空白があったから、見えるものがある。そういうことだと思った。

 茜は歩いて角の席に荷物を置いた。椅子を引こうとしたとき、凪が顔を上げた。

 目が合った。

 一瞬だった。でも、その一瞬がやけに長く感じた。いつもならどちらかが視線を外すまでの時間がもう少し短い。今日はなぜか、お互いが少しだけためらってから、ゆっくりと視線を外した。

「……凪くん…熱、下がったんだね」

 茜は荷物を置きながら言った。声が少しだけ上ずった。

「うん」

 凪はそれだけ言って、ノートに視線を戻した。

「安心した」

 茜がそういうと、凪は「ありがとう」と小さく言った。

 茜は椅子に座って鞄から本を取り出した。凪の三作目は、まだ読み終えていない。でも今日はその本を持ってきていなかった。凪に返すタイミングを、自分でも気づかないうちに先延ばしにしていた。

 本を開いて、文字を追う。でも頭に入らない。

 隣の気配が、どうにも落ち着かなかった。凪も同じだった、と気づいたのはしばらく経ってからだった。いつもなら凪はペンを動かし続けているのに、今日はときおり手が止まる。止まったかと思うと再び動き出す。そのリズムが、いつもと違った。

 目を合わせない凪がそこにいた。

 意図的なのか、たまたまなのか、判断がつかない。でも茜が顔を上げるタイミングで、凪は必ず少し先に視線を逸らしていた。追いかけても追いつかない、そういう距離の置き方だった。

 でも椅子の間隔が、いつもより近い気がした。気のせいかもしれない。でも気のせいにしては確かすぎる距離感で、茜は自分のほうが近づいたのか、凪のほうが近づいたのか、どちらとも判断できないまま、ただその近さを感じていた。

 意識してる。

 それは茜も同じだった。

 凪の家で腕を掴まれたあの日を、なかったことにはできなかった。熱で赤い顔で、ふらふらしながら、それでも手を伸ばしてきた凪の手。今日もその手が隣にある。ノートの上を走るその手と、茜の本のあいだには、わずかな距離しかない。

 茜はページをめくった。一文字も読めていなかった。

 閉館のアナウンスが流れた。

 荷物をまとめながら、茜はちらりと凪の横顔を見た。凪は少しだけ動作がゆっくりだった。こちらを意識しているのか、それとも体調がまだ完全ではないのか。どちらとも取れた。

 ふたりで出口へ向かって、外に出た。夏の夜の空気が、温かく体を包む。

 帰り道を、並んで歩く。

 沈黙だった。でも不快な沈黙じゃない。言葉のない空間に、言葉にならないものが満ちている、そういう沈黙だった。蝉の声が遠くから届く。街灯が等間隔に続く道。茜の隣に凪がいた。

 何を話せばいいのかわからなかった。でも、話さなくてもいいとも思っていた。

 気づいたのは、交差点の手前だった。

 手が、触れた。

 ほんの少し、指の先が。歩くたびに自然に揺れる手が、互いの歩幅のせいでわずかに重なった。気のせいだと思った。歩きながらぶつかることはある。誰とでも。そう思った次の瞬間、凪の手が茜の手をしっかりと握った。

 茜は反射的に凪の顔を見上げた。心臓が一気に跳ね上がる。耳のあたりが熱くなる。

 凪はまっすぐ前を向いたまま歩いていた。表情は変わらない。無愛想な横顔が、ただそこにある。凪は握った手を、もう一度、強く握りしめた。

 何も言わない。でも言っていた。

 茜にはそれが告白のように感じた。言葉のない、でも確かな告白。

 ふたりはそのまま、駅まで手を繋いだまま歩いた。黙ったまま。何も言わないまま。言葉が要らなかった。言葉にしたら何かが変わってしまいそうで、ふたりともそれを望んでいなかった。

 改札の前で、足を止めた。

 凪は手を離さなかった。向き合った。茜は凪を見上げた。

「茜」

 凪が呼んだ。いつもと同じ声なのに、今夜だけは違う重さで聞こえた。

 茜は息を飲んだ。

「……うん」

「いや、ごめん、また明日」

 手が、静かに離れた。

 茜はしばらく、凪の目を見ていた。何かを言いかけて、止めた顔だった。その表情が、茜にはとても痛かった。

「……うん、また明日」

 凪は頷いて、背を向けた。

 茜は改札を通りながら、その言葉を反芻した。

 ごめん。

 なんで謝ったのだろう。手を繋いだことへのごめんなのか。言いかけた言葉を飲み込んだことへのごめんなのか。それとも、まだ自分の中で整理がついていないことへのごめんなのか。

 どれとも取れた。どれとも決められなかった。

 電車の中で、茜はずっと手のひらを見ていた。まだ凪の温もりが残っているような気がして、握ったり開いたりを繰り返した。心はひどく動揺していた。嬉しくて、苦しくて、怖くて、その全部がいっぺんに押し寄せてきていた。

 ごめん。何がごめんなの。

 答えのない問いが、夜の車窓の向こうに流れていった。


 翌日の午前、茜がキャンパスを歩いていると、後ろから声がした。

「茜さん!」

 振り返ると、望が手を振りながら小走りでやってきた。ふわっと、あのピーチメルバの香りが漂う。今日はワンピース姿で、太陽の下でよく映えた。

 凪のお見舞いに連れられて行ったあの日以来だった。今日も望はいつもと変わらず明るかった。

「この間はごめんね! 急に呼び出して」望は悪びれた様子もなく、でもちゃんと謝った。

「で、どうだった?」

 ニヤニヤと茜を見つめる。その目が、全部わかっている目だった。

「どうって、その……あ、おかゆの準備ありがとう。全部用意されてて、望さんすごいなってびっくりした」

「ふーん、それだけ?」

「それだけって?」

 茜の顔が赤くなる。望は悪い人じゃない。むしろ親切すぎるくらい親切な人だとわかっている。でもこの人はすべてを見通したうえで動いている。あの日の急用とやらが嘘だったことも、最初からわかっていた。

「ううん、わたしお節介でせっかちだからなぁ……なんでもない!」

 望は笑って首を振った。それからまっすぐ茜を見た。

「わたしは凪が好き。本当に心から大切な人なの。凪の不器用さも知ってる。だからわたしは凪の幸せをサポートするって決めたの。これも立派な愛じゃない?」

 クスッと笑うと、「またね!」と足早に去っていった。

 ふわっとピーチメルバの香りを残して。

 茜はその後ろ姿を見送りながら、動けなかった。

 自分にはない強さと輝きを持った人。振られても、傷ついても、それでも前を向いて、好きな人の幸せのために動ける人。美しすぎて、今の茜には眩しいくらいに映った。

 凪の幸せをサポートする。

 その言葉が、茜の中でゆっくりと沈んでいった。望が言った意味を、茜はちゃんと理解していなかった。このときはーー


 その日の午後、茜はひなたに連絡をした。
 少し話そう、と送ると、すぐに返信が来た。カフェテリアで待ってる、と。

 久しぶりに顔を合わせると、ひなたは少しだけ痩せた気がした。でも表情は穏やかで、茜を見る目はいつものひなたのままだった。横に並んで座ると、なんとなく言葉が詰まった。

「ひなた、あのね」

「わたしがごめん」

 ふたりの声が、重なった。

 茜はひなたを見た。ひなたも茜を見た。少しだけ間があって、同時に笑い出した。

「先に言う」ひなたが言った。「わたし、ぐずぐず蓮くんのことを引きずって、自分のことばっかりで、茜に全然寄り添えてなかった。ごめん」

「そんなことないよ」

「あるよ。茜が一番ぐちゃぐちゃのとき、わたし自分の気持ちを抱えてて、ちゃんと聞いてあげられなかった」

 茜は首を振ろうとして、止めた。ひなたが正直に言ってくれているのだから、茜も正直に向き合わなければいけないと思った。

「わたしこそ、ひなたの気持ちに気づけなくてごめん。蓮くんのことも、凪くんのことも、ひなたに全部話してたのに。ひなたがどれだけ苦しかったか、考えてなかった」

「茜は悪くないよ」

「でも、もっと早く気づきたかった」

 ひなたは少し目を伏せてから、顔を上げた。

「最近は蓮くんと会ってない。あの人って、傷ついたときに人から距離を置くタイプだから」

「そうかもしれない」

「茜が振ったとしても、わたしがアプローチするつもりはなかったよ」ひなたはゆっくりと言った。「でも、思いが強くなる一方で。それだけは、正直に言っておきたかった」

 茜は黙って聞いていた。ひなたの言葉の一つひとつが、丁寧に胸に落ちてきた。

「傷つきたくない、ってわたし、思ってるんだよ」ひなたが続けた。「好きになれば好きになるほど、傷つく可能性が増えていくし」

「わたしも」

 言葉が自然に出た。

「わたしも傷つきたくない。凪くんのことが好きって、ちゃんとわかってる。でも、凪くんの気持ちがまだわからなくて。手を繋いでくれたのに、ごめん、って言って、その意味もわからなくて」

 ひなたが茜を見た。

「傷つくの怖いよね」

「怖い」

 ふたりで顔を見合わせた。そして、笑った。涙が出そうなのに笑えた。笑えるのに、どこか切なかった。

「恋愛ってなんでこんなに苦しいんだろう」

 茜がしみじみ言うと、ひなたが突然立ち上がった。

「恋愛撲滅!」

 カフェテリアに声が響いた。

 あまりに唐突すぎて、茜は一拍遅れて爆笑した。周りの学生が何事かと振り返る。ひなたは全力で声に出したことを少し後悔した顔をしていたが、茜が笑い出すと一緒になって笑った。

「なにそれ、最高」

「つい出ちゃった」

「ひなた最高だわ」

 笑い声が収まらないでいると、後ろから低い声がした。

「楽しそうじゃん」

 茜とひなたが同時に振り返ると、蓮が立っていた。

 ひなたの笑顔が、一瞬で固まった。頬が赤くなる。蓮はそこには気づいていない様子で、穏やかな笑顔をふたりに向けていた。

「久しぶりだね」茜が言うと、「そうかなぁ」と蓮はすこしはぐらかすように言った。

 いつもの余裕のある蓮に見えたけれど、茜には少しだけ疲れた顔に見えた。気のせいかもしれない。でも、目の奥にある何かが、以前とは違う。

「また三人でランチしような」

 蓮はそう言って、手を上げて去っていった。

 三人で。茜はその言葉の意味を考えた。ひなたがいたからそう言ったのか、それとも友達として繋がっていく宣言だったのか、蓮の真意がわからなかった。

 ひなたは目で蓮を追っていた。その横顔が、静かで、少し寂しそうだった。

 本当に好きなんだな、と茜は思った。ひなたが蓮のことをこんなにも好きだったのに、自分はずっと気づけなかった。気づけなかったことを、心から申し訳なく思った。

「ひなた」

「なに」

「蓮くんのこと、ちゃんと向き合ってみてよ」

 ひなたが茜を見た。驚いた顔をしていた。

「茜が言う?」

 茜は苦笑いをして続けた。

「わたしには蓮くんは選べない。それははっきりしてる。だからひなたに言える」

 ひなたはしばらく何も言わなかった。それから、ゆっくりと下を向いた。

「……怖いよ」

「わかってる」

「傷つくのがわかってても、好きなんだよ」

「それが恋愛の苦しいところだよ」

 ふたりはしばらく黙っていた。カフェテリアのざわめきが、遠くで続いていた。


 ある日の夕方、図書館に行くと凪はいた。

 茜が荷物を置いて椅子に座ると、図書館の入口に人影が見えた。顔を上げると、蓮が立っていた。

 目が合うと笑った。いつもの笑顔だ。自然で、柔らかくて、誰に向けても同じ温度の笑顔。

 蓮がゆっくりとこちらへ歩いてきた。茜は心臓が小さく跳ねるのを感じた。隣に凪がいる。蓮は凪を認識している。茜の気持ちがどこに向かっているのか知っているとはっきり言っていた。何をしに来たのだろうか。茜のなかに緊張が走る。

 蓮は茜の席の横までくると、しゃがんで目線を合わせた。

「ちょっとだけ話せる? 外で」

 茜はためらった。凪の視線が感じられた。凪がこちらを見ているのか、ただ本を読んでいるのか、確かめられなかった。

「今日は……」

「すぐ終わるから」

 蓮の声に、焦りのようなものが混じっていた。いつもの余裕のある蓮とは少し違う。茜はそれが気になって、立ち上がった。

「……うん」

 凪に一瞬目が行く。凪は顔を上げずに、ノートを見ていた。

 外に出ると、廊下の窓から夏の光が差し込んでいた。蓮は壁にもたれかかって、腕を組んだ。

「ごめん、急に」

「ううん。どうしたの」

 蓮はしばらく黙っていた。いつもすらすらと言葉の出てくる蓮が、言葉を探している。それだけで、茜は少し緊張した。

「ひなたのこと……」

 茜は動きを止めた。

「ひなたに好きだって言われた。でも、俺が好きになってくれるとは思わないって。俺、ごめんしか言えなかった」

「……そっか」

「ひなたは泣いてたけど、大丈夫だと思う。あいつ強いから」

 蓮の声は落ち着いていた。でも目の奥に、何かが残っていた。傷つけてしまったことへの、静かな痛み。

「それだけじゃなくて」蓮は茜を見た。真っ直ぐに。「俺はまだ茜をあきらめていないことを、ひなたには伝えた。だから茜にも言わないと、ずるいと思って」

 茜の胸が、きゅっとした。

「茜のことが好きだよ。ずっと。それは変わってない」

 廊下に、夏の光がさらに伸びてきた。

 茜は蓮の顔を見た。蓮は逸らさなかった。その目は正直で、裏がなくて、だからこそ、胸が痛かった。

「蓮くん……」

「答えはいい。今日はそれを伝えたかっただけだから」

 蓮は少し笑った。さっきよりずっと自然な笑顔だった。

「じゃあ」

「……うん」

 そう言って蓮は廊下を歩き出した。振り返らなかった。その背中が、まっすぐで、少しだけ寂しそうだった。

 茜はしばらくそこに立っていた。

 蓮の気持ちがまだ自分にあることを知った。蓮のことが嫌いなわけじゃない。それは本当だった。でも好きかどうかと問われると、答えが出ない。凪への気持ちがはっきりしすぎていて、それ以外のものがうまく見えなかった。

 図書館に戻ると、凪はまだ同じ姿勢で座っていた。茜が席に着くと、凪はちらりとこちらを見た。何も言わなかった。茜も何も言わなかった。ただ本を開いた。

 でも凪の視線が、いつもより少しだけ多く、こちらに向いている気がした。気のせいかもしれない。でも、そうじゃない気もした。



 その夜、ひなたから連絡が来た。

ちょっと話せる?

 茜はすぐに電話をかけた。コールが二回鳴って、ひなたが出た。

「茜」

 声が少しかすれていた。

「ひなた、大丈夫?」

「うん。泣いたけど、もう大丈夫」

 茜はひなたの言葉を待った。

「蓮くんにちゃんと振られてきたよ」

「ひなた……」

 しばらく沈黙が続いた。ひなたの静かな息遣いが聞こえた。

「わたし、ちゃんとあきらめる。時間かかるかもしれないけど」ひなたの声は、震えながらも、芯があった。「だから茜は深瀬くんのこと、ちゃんとしてよ」

 茜は目が熱くなった。

「ひなた、ありがとう」

「素直にならないと後悔するよ」

「……うん、そうだね」

 電話を切って、茜は天井を見た。

 ひなたが強くてよかった。ひなたが正直でいてくれてよかった。自分の気持ちを言葉にしてくれたから、茜も少しだけ、自分の輪郭がはっきりした気がしていた。

 深瀬くんのこと、ちゃんとしてよ。

 ひなたの言葉が、胸の中で繰り返された。



 翌日、凪が突然言った。

「今日、家に来ない?」

 図書館の静けさの中で、その言葉だけが大きく響いた。

「え、家? 家はあの、その、なんていうか」

 また顔が真っ赤になってしまう。

「何もしないよ」

「え、やだ、そういうことじゃなくて」

 一瞬、茜をからかった望とのことを思い出した。凪はわざとそのセリフを言ったのだとわかった。

 火がついたように赤くなっていくのがわかる。凪が声を出して笑った。こんなの初めてだ。

「やだー、ひどい!」

 図書館で大きな声を出してしまった。周りの注目が集まる。ふたり同時に身をかがめた。そのまま目を合わせると肩を震わせてふたりで笑った。

 こんな風に無邪気に笑い合うふたりになっていることに、茜は驚く。一呼吸を置くと、改めて凪が言った。

「いや、本当に今日、来てほしい」

 真剣な目だった。

「……うん、わかった」

 茜は覚悟を決めた。今日、わかってしまうかもしれない。

 あの「ごめん」の意味が。

 もしそれが、自分を拒む言葉だったら——

 あの一言が、思っていたよりもずっと深いところに残っている。手を繋いだことを、後悔しているとしたら。あれが一瞬の気の迷いだったら——

 あのとき強く握り返してくれた手が、
今はもう違う意味だったのかもしれないと思ってしまう。

 茜は胸の奥が、じわっと冷たくなるのを感じた。

 凪のマンションへ、ふたりで向かった。電車に乗り、駅から歩いてすぐのマンション。静かに並んで歩く。胸の奥に心臓が鼓動しているのがわかる。

 あの日も来た入口。扉が開き、凪が通してくれる。エレベーターに乗って、凪の部屋まで進んだ。

「座って」と凪がソファを勧めてくれた。

「ありがとう」と腰掛けると、グラスに氷を入れてお茶を注いでくれた。

「茜が気にしてると思って。今日は話したかった」

 凪が切り出した。

 なんの話だろうと思っていると、凪が一つの小さな箱を取り出した。蓋を開けると写真が何枚か入っていた。そのうちの一枚をテーブルに置いた。

 夏の海で笑う三人の写真だった。少し若い凪と、綺麗で背の高い女の子、そしてもうひとり端正な顔立ちの男の子。凪が見たことのないおおらかな笑顔で映っている。

 凪はこんな風に笑うことを、茜は知らなかった。

「真ん中の女の子は俺の彼女だった」

 見た瞬間からそんな気はしていたが、改めて言葉で聞くと胸がチクリと痛んだ。

「いつも三人で遊んでた。俺、彼女もその横のそいつも大好きで……」

 凪の言葉が止まった。なんとなく察した。

「俺が彼女を好きになって、告白して付き合うことになって、そいつも喜んでくれていたんだけど……まぁ、そういうこと」

 茜はなんて言ったらいいかわからなかった。

「けっこう長い間知らなくてさ……彼女の家に行ったときに遭遇しちゃったってわけ」

 バツが悪そうな言い方だった。

「俺は彼女と別れたけど、結局、彼女とそいつは付き合いを続けて学校中が知るところになった」

 少し声を震わせながら続けた。

「彼女と親友を失うだけじゃなくて、すべてを失ったような気分だった。それからかな、いろんなことが嫌になって、心が開けなくなっていった」

 やっとの思いで話し切ったという感じだった。

「茜には話しておきたいと思った」

「……話してくれて、ありがとう」

 茜は凪を抱きしめたいと思った。でも体が動かなかった。これまでの凪のひとつひとつが、すべて繋がった気がした。なぜ蓮に対して敏感だったのかも。茜が蓮と並んでいるところを見るたびに、凪の顔から何かが消えていたのも。

 もし、凪が自分を好きでいてくれているのなら、二度と同じ傷を背負わせることはできない。

 茜は勇気を出して訊いた。

「写真を持ってるのは、まだ好きなの? 彼女のこと」

 答えを拒絶されるのではないかと不安になった。言わなければよかった、とも思った。少し間が空いたあと、凪は口を開いた。

「今は違う」

 その一言だけが返ってきた。

 それはわたしを好きになったから?

 心の中だけで言葉が響いた。その言葉を声に出す勇気は、まだなかった。

 でも、凪の心が変化していることを、茜は知った。

 テーブルの上の写真を、ふたりで黙って見ていた。夏の海のあの笑顔。凪がかつて笑っていた場所。そこから遠く離れてきた時間の重さが、静かにそこにあった。

 茜は凪を見た。凪は写真を見ていた。その横顔が、あの夏の写真の笑顔と重なって見えて、茜の胸が締め付けられた。

 傷ついた人が、また誰かを好きになろうとしている。その誰かが、自分かもしれない。

 怖かった。でも逃げたくなかった。

 部屋に静かな時間が流れた。窓の外で、夏の風が木々を揺らしていた。テーブルの上の写真は、まだそこにあった。でも今夜のこの空気が、あの写真の時間とは違う何かを作り始めている気がした。

 茜はグラスを両手で包んで、氷が溶けていく音を聞いていた。

 ごめん、の意味を、今夜はもう問わなかった。

 問わなくてもわかる気がした。わかっているつもりになっているだけかもしれない。でも、茜は確かに感じていた。あの改札前の、言いかけて飲み込んだ言葉の意味が、今夜の凪の言葉と繋がって、静かに形になっていた。

 帰り際、玄関で靴を履きながら凪は言った。

「暗くなったから駅まで送るよ」

 マンションを出て、夜風の中を歩いた。街灯が足元を照らして、遠くで蝉が鳴いていた。凪と歩く夏の夜。

 このときの私は、まだ知らなかった——このあとすぐ、すべてが動き出すことを。


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🎧この物語にはイメージ曲があります。

あの図書館の時間、  
あの沈黙、あの距離。

あと一歩』という曲です。

読み終えたあとに、  
音楽とともに、もう一度だけ思い出していただけたら嬉しいです。

イメージ曲「あと一歩」はこちら
Music by IZU(Sunoにて制作)

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