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図書館のきみに 《第七話》

【あらすじ】
本の中にあった距離が、
現実にも少しずつ滲み出していた。

近づいたはずなのに、
なぜか埋まらないものがある。

触れられそうで、触れられない。

凪の言葉も、
蓮の優しさも、
どちらも本物で。

だからこそ、苦しい。

選ばなければいけないのに、
まだ選べない。

「届きそうで、届かない」

その距離の中で、
それぞれの想いが、静かに動き始める。

もう、戻れないところまで来ていた。



【第七話】熱と、距離と

 七月に入った。

 梅雨が明けて、空が急に高くなった。図書館の窓から見える木々の緑が濃くなって、夕方になると蝉の声が遠くから聞こえてくる。

 凪との間に積み重なってきたものが、少しずつ形を持ち始めていた。

 たまに目が合う。凪がこちらを見ていたのか、茜がそちらを見ていたのか、もうわからない。どちらからともなく目が合って、どちらからともなく視線を外す。その一瞬が、毎回少しだけ胸に残った――小石を投げ込まれた池の、揺れがいつまでも消えないように。

 たまに、凪が笑う。声を出すほどではない。口元が緩む程度の、ほんの小さな笑み。茜が何か言ったとき、本棚で面白い本を見つけたとき、そういう瞬間に現れる。それを見るたびに、茜は雨の夜を思い出した。あの軒下で初めて見た笑顔。あれから、凪の笑顔の数が少しずつ増えている気がした。花が、ゆっくりと、誰にも気づかれないうちに開いていくように。

 でも、決定的な一歩は踏み出せないままだった。

その人のために書いてる。

 あの言葉が、頭から離れない。凪の心の中に誰かがいる。その誰かが自分であってほしいと思う。でも確かめたら、何かが終わる気がしていた。

訊いたら、この時間が終わる気がしたから。

 凪のノートの一節が、そのまま茜自身の言葉になっていた。

 三冊目を、茜はゆっくりと読み進めていた。

 切ない物語だった。互いへの気持ちを抱えながら、言葉にできないまま並んでいるふたりの話。セリフは少ない。でも行間に、伝わらなかった感情がびっしりと詰まっている。凪がこういう物語を好きなのだと、初めて知った。

 読み進めたい気持ちと、ラストが茜と凪にとって何かの意味をもたらすことへの怖さが、交互に押し寄せてくる。まるで大きな波に飲み込まれそうになりながら、必死に砂浜に踏みとどまっているようだった。読み終えてしまったら、何かに向き合わなければいけなくなる気がして、茜はわざとゆっくりとページをめくっていた。この物語が永遠に続けばいい。覚悟の決まらない茜は、心のどこかでそんなことを願っていた。

 凪のことに悩みつつも、茜は蓮のことも気になっていた。

 蓮の姿を、最近あまり見かけない。

 チャンスが欲しい、もう少し時間が欲しいと言った蓮は、あのカフェテリア以来、特に行動を起こすことなく時間だけが過ぎていく。避けられているのかもしれない、と茜は感じていた。それはそれで、胸がちくりとした。蓮が何を考えているのかわからない。訊きたくても訊けない。ひなたの蓮への気持ちを知った今、誰にも相談できなかった。蓮のことも、凪のことも、混乱した気持ちを抱えたまま、茜はひとりで自分の内側と向き合うしかなかった。


 数日後の午後、図書館で珍しいことが起きた。

 凪が知り合いに呼び止められた。茜の知らない男子で、同じ学部らしかった。ふたりは少し離れた棚の前で話していた。茜には内容は聞こえない。でもその男子が言った一言だけが、静かな図書館の中で不意に耳に届いた。

「おまえ、あの時のこと、まだ引きずってるの?」

 その言葉を耳にした瞬間、茜は息を止めた。思わず凪を見る。目が合った。茜は咄嗟に視線を逸らしたが、心臓はすでに早鐘を打ち始めていた。

「……関係ないだろ」

 男子がそれ以上何かを言う前に、凪が話を切り上げて席に戻ってきた。いつもどおりの無表情。いつもどおりに、ノートを開く。凪はこのことについて茜に何かを言うつもりはないようだった。

 あの時のこと。凪が引きずっている、何か。

 その日の帰り道、茜はひとりで考えた。

 凪はなぜあんなに人に心を開かないのか。最初からずっと疑問だった。壁があって、遮断していて、でもふとした瞬間だけ隙間ができる。茜にだけ、少しずつ近づいてくる。

 過去に、誰かに深く傷つけられたのかもしれない。

 そう思ったとき、これまでの凪の言動が別の色を帯びた。来ない可能性があると思って、と言いながらメッセージをくれた夜。もっと仲良くなりたいと言いながら、翌日はいつもどおりに戻っていた朝。感情的になったと言いに戻ってきた夕暮れ。

 不器用だった。臆病だった。でも、それでも、少しずつ茜に歩み寄ってきた。

 その意味が、今夜は少し違って感じた。


 翌日の図書館で、茜は思い切って訊いてみた。

「小説の、その人って——」

 言いかけた瞬間、凪がページをめくった。

「それ、関係ない」

 短く、でもはっきりと言った。

 茜は息を呑んだ。遮られた。踏み込もうとして、壁を作られた。茜が言いたかったことを凪はすべて察知して遮った。

 それがわかった瞬間、胸がずきりと痛んだ。関係ない、という言葉が、思っていたより深いところに刺さった。

 本を開いたけれど、一文字も頭に入ってこなかった。

 しばらくして、凪が言った。

「さっきは、ごめん」

 茜は顔を上げた。凪はノートを見たまま言った。

「言い方が悪かった」

「……ううん」

「訊かれたくなかっただけ。茜が悪いわけじゃない」

 訊かれたくなかった。

 その言葉の意味を、茜はゆっくりと噛み締めた。凪の中に大きな何かがある。まだ整理ができていない何か。それは傷なのかもしれない。でも、もしかしたら忘れられない誰かへの愛なのかもしれない。どちらにしても、そこに自分は入っていくことができない気がした。

 今まで少し自惚れていたのかもしれない、と茜は思った。胸の痛みが、じわりと深くなる。


 その夜、スマホを見ていると通知が来た。

 蓮からだった。

元気?

 たった三文字。でもその三文字に、蓮らしさが全部詰まっていた。重くない。責めていない。ただ、まだそこにいることを伝えてくる。

 茜はしばらく画面を見つめた。元気、と打とうとして、止めた。元気じゃないわけじゃない。でも元気、と返すのが嘘な気もした。

 結局、うん、元気だよ。蓮くんは?、と送った。

 すぐに返信が来た。

俺も元気。またね

 それだけだった。

 茜はスマホを置いて、天井を見た。

 蓮はまだそこにいる。待っている。でもそれ以上のアクションはなかった。近づくことも離れることもなく、ただ存在だけを示してくる。それがかえって、後ろ髪をひかれるようで苦しかった。こんな気持ちを引きずっている自分が嫌になる。

 その反面、凪への気持ちははっきりしていることは自覚していた。でも凪の気持ちはまだわからない。その人のために書いてる、という言葉が自分に向けられたものなのか、それとも凪の中にいる見えない他の誰かなのか。踏み込もうとすると壁を作られる。それでも近づいてくる。

訊いたら、何かが終わる気がして。

 また、あの一節が頭をよぎった。

 凪も蓮も心の中を見せてくれない。迷路の真ん中に放り込まれたように、茜はただ立ち尽くすしかなかった。


 翌日の図書館、閉館のアナウンスが流れた。

 ふたりで荷物をまとめながら、凪がいつもより少しだけ迷った様子でこちらを見た。何か言いかけて、止めて、また言いかける。そのわずかな迷いを、茜は見逃さなかった。

「その本、読み終わった?」

 凪が言った。

「ううん、まだ。あと少し」

 ラストまでのペースを落としていることは凪には言えなかった。

「そっか」

 茜は動きを止めた。

 凪はあの本のラストを読み終えるのを待っている。本のラストにいったい何が書かれているのだろう。凪は茜に何を示そうとしているのか。読み終えたら何かが動き出す。その予感が、胸を静かに締め付けた。

 凪はそれ以上何も言わずに出口に向かって歩き出した。

 茜は一拍遅れてついていった。

 夜道に出ると、夏の熱気がまだ残っていた。空には星がいくつか見えていた。

 ふたりは並んで歩いた。無言だった。でもその沈黙は、これまでのどの沈黙とも違った。言葉がないのではなく、言葉にならないものが溢れすぎて、どちらも口を開けないような、そんな沈黙だった。

 凪の気持ちはどこにあるのだろう。茜への確かな意思を感じるのに、拒絶されたと感じる瞬間もある。凪へ踏み込む勇気が持てずにいた。

 凪の横顔を、茜はちらりと見た。

 凪は前を向いたまま歩いている。その横顔が、とても愛おしく見えた。

 届きそうで届かない、その横顔。

 駅が近づいてきた。

 今日も終わってしまう。凪との時間を惜しみながら、茜は駅までの道のりをただ歩いた。


 ある日の午後、図書館に来ていつものように凪と並んで座った。

 席に着いてしばらくすると、凪が咳き込んだ。

「凪くん、大丈夫?」

 茜が心配して凪の顔を覗き込むと、いつもより少し顔色が悪い。

「ん、大丈夫」

 でもその日の閉館前にも、また咳が続いた。

「……今日は帰る」

 そう言って荷物をまとめると、凪は図書館を出ていった。茜はその背中を見送りながら、何か言えばよかった、と思った。せめて一言。でも言葉は間に合わなかった。

 翌日、凪は図書館に現れなかった。

 茜は閉館間際になってからメッセージを送った。

大丈夫?

 しばらくして返信が来た。

熱が出たけどすぐ治す

 それだけだった。

 凪のいない図書館は、広さが余っているみたいに感じた。角の席に座って本を開いても、隣の気配がない。ペンの音もない。たまに目が合うこともない。

 それがこんなに落ち着かないものだとは、思っていなかった。誰かの存在が、いつの間にこんなにも自分の日常に溶け込んでいたのだろう。

 凪のいない図書館は数日続いた。


 ある日の午後、図書館に望が現れた。

 大きなエコバッグを両手に提げて、よいしょ、とテーブルの上に置く。

「凪の熱が下がらなくて」

 エコバッグの中身をごそごそと探りながら望は話を続けた。

「何か消化のいいものを作ってあげたくて」

「買ってきた」と言いながら、望は満面の笑顔でリンゴを取り出した。

「お米もあるよ」

 袋の中を覗き込んだ茜は思わず言った。

「すごーい」

 初めて望と笑った気がした。

「それでね」望は少し困った顔をした。「重いから、茜さん一緒に運んでくれない? お願い!」

 突然のお願いに茜は驚いたが、快く承諾した。

 電車を乗り継いで、凪の家の最寄り駅に着いた。改札を出たとき、茜は驚いた。知っている景色だった。自分の家とそんなに遠くない。乗る路線は違うけれど、自転車でも行けるかもしれない距離だった。

 凪がこんなに近くに住んでいたのかと思うと、胸がじわりとした。知らなかった。こんなに近くにいたのに、知らなかった。

 マンションの前まで来て、茜はふと緊張を覚えた。オートロックのある、きちんと整備された建物だった。突然に行ったら迷惑じゃないだろうか、という不安が押し寄せてくる。

「じゃあわたしはここで」と荷物を望に渡して立ち去ろうとすると、望が「ひとりじゃ持てないの」の一点張りで玄関まで一緒に来てほしいと言って離さない。

 望がオートロックのパネルを操作して部屋番号を押した。迷いのない指の動きだった。以前にも来たことがあるのだろう、と茜は思った。その確信が、ほんの少しだけ胸をざわつかせた。勘繰ってしまう自分が嫌だった。

 ガラガラの凪の声がした。

「早く開けて。手がちぎれる」

 望は凪に何かを言わせる隙を与えなかった。凪は何も言わずにロックを開けた。

 エレベーターに乗り込んで、廊下を進む。

 ドアの前でチャイムを鳴らす望。茜は荷物を置いて帰ろうとしたが、望が茜の腕を掴んで離さない。

 ドアが開いた。

 そこに凪が立っていた。いつもの無愛想な顔ではなく、熱で赤みがかった頬をして、少しだけぼんやりとした目をしている。それでも、茜を見た瞬間、わずかに目が動いた。驚いているのか、困っているのか、両方なのか。その一瞬が、やけにゆっくりと見えた。

 望が茜の背中をそっと押した。

「早く入って」

 凪は何も言わずに部屋の奥へふらふらと歩いていった。

 ここまで来たらもう入るしかなかった。

 重いエコバッグを抱えて部屋の中へ入ると、そこは想像より整然としていた。余計なものがない。本棚だけが壁一面を埋めていて、デスクの上には原稿用紙とノートが重ねてある。これが凪の部屋か、と思った。凪の時間が、ここに積み上がっている。

 望が手際よく動き始めた。買ってきたものを冷蔵庫に入れて、鍋を出して、お米を研ぐ。凪に寝ているように指示を出して、凪は言われるがままベッドに横たわった。咳が続いていた。

 茜は初めての空間で何をしたらよいかわからずに立ち尽くしていた。

「ごめん、急用を思い出した」

 望が突然、茜に耳打ちをした。

 そんなことがあるだろうか。茜が目を丸くすると、望はにっこりと笑った。

「おかゆの作り方わかるよね? あとはお願い!」

 そう言って、颯爽と部屋を飛び出していった。

 望が出ていった後の静けさが、やけに大きく感じた。

 残された茜はしばらく動けなかった。凪は寝ているようだった。規則正しい寝息と、時折混じる咳の音。

 なるべく音を立てないように、茜はキッチンへ向かった。鍋も調味料も、使いやすい場所にすべてセットされていた。さすが望だ、と思った。茜が探さなくてもいいように、全部考えてある。望は知れば知るほど、素敵な人だった。

 望が用意してくれた材料でおかゆを作り、りんごを剥いた。

 凪の部屋の本棚を、茜はちらちらと見ていた。背表紙を眺めるだけでも、凪がどんな本を好きなのかがわかる気がした。茜が読みたいと思っていた本もいくつかあった。勝手に手に取るのは悪い気がして、全体を眺めるだけにした。まるで、まだ触れることを許されていない凪の心を、遠くから眺めているような気持ちだった。

「読んでいいよ」

 静かな声がした。

 振り返ると、目を覚ました凪がベッドに起き上がっていた。熱で赤い顔のまま、こちらを見ている。

「今日は勝手にごめんね。あの、望さんは予定があるって先に帰ってしまって、あの」

「望が強引だったんだろ。わかってるから」

 凪はそれだけ言って、テーブルに目を向けた。

「これ、食べていい?」

「美味しいかわからないけど、よかったら食べて」

「ありがとう。いただきます」

 凪は丁寧に手を合わせてからおかゆを食べ始めた。茜は少し離れた場所に立って、それを見ていた。

「美味しい」

 ぼそっと言った。

 茜の胸が温かくなった。それだけのことなのに。それだけのことで、こんなにも温かくなる。

「左の棚の三段目の端の本、茜の好みだと思う」

 凪が本棚に目をやりながら言った。茜がその本を探そうとして棚を見上げていると、後ろから凪が手を伸ばした。ふわっと凪の体温を感じた。一瞬、凪に抱きしめられるのかとどきっとした。でも凪はただ、手を伸ばして本を取り、茜に渡した。

「あ、ありがとう」

 ソファに腰掛けてページをめくった。でも凪とふたりきりの空間で、文字が頭に入ってくるはずもなかった。行を追うふりをしながら、凪の気配を感じていた。おかゆを食べ終えた凪がベッドに戻る音。静かな部屋に、ふたりの呼吸がある。

 いつもの図書館より、ずっと近い距離だった。

 茜はたまらず立ち上がった。

「そろそろ行くね。ゆっくり休んで」

 玄関に向かって歩き出した。靴を履いて、ドアノブに手をかけたとき、後ろから手を掴まれた。一瞬、何が起きたのかわからなかった。

 振り返ると、凪が立っていた。熱で赤い顔のまま、茜の手首を掴んでいた。

 心臓が、締め付けられた。

「……ご、ごめん」

 凪がゆっくりと手を離した。振り返ると凪は、行かないで欲しいとでも言いたそうな顔をしていた。初めて見る顔だった。いつもの無表情の奥に、こんな顔が隠れていたのか、と思った。

「ゆっくり休んでね」

 茜はそう言って、ドアの外に出た。

 エレベーターのボタンを押して、ドアが閉まるまでの間、心臓の音が体中に響き渡っていた。まるで自分の胸が、自分のものでなくなったみたいに。

 マンションを出て、しばらく歩いたところでスマホが鳴った。

 凪からだった。

今日はありがとう。茜に会えてうれしかった。

 茜は足を止めた。

 夏の夜風が、頬をそっと撫でた。

 うれしかった。

 凪がそう言った。熱で赤い顔で、ふらふらしながら、それでも手を伸ばしてきた凪が、うれしかったと言った。

 茜はスマホを胸に押し当てた。

 この人に愛されたい。

 気づいたときには、その言葉が心の中に生まれていた。願いとも呼べない、もっと静かで確かな気持ちだった。言葉にした途端に消えてしまいそうで、でも消えない。胸の奥で灯った小さな炎のように、ただそこにある。

 夜空を見上げると、夏の星が瞬いていた。


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🎧この物語にはイメージ曲があります。

あの図書館の時間、  
あの沈黙、あの距離。

あと一歩』という曲です。

読み終えたあとに、  
音楽とともに、もう一度だけ思い出していただけたら嬉しいです。

イメージ曲「あと一歩」はこちら
Music by IZU(Sunoにて制作)

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