呪われた肖像画~薔薇色の呪縛~
第一章 嵐の夜の邂逅
1891年11月の夕刻、ロンドン郊外ハムステッド・ヒースの森に不吉な雲が立ち込めていた。
産業革命の煤煙と霧が混じり合い、空はまるで鉛のように重く垂れ下がっている。
「畜生、完全に道を見失った」
ウィリアム・アシュフォード子爵の三男、エドワードは愛馬から降り、雨に打たれながら呟いた。
アシュフォード家の年に一度の狩猟会──社交界の名士たちが集まる華やかな催しで、雄鹿を追っているうちに一人はぐれてしまったのだ。
嵐は激しさを増していた。
雨粒は彼の上質なハリスツイードの狩猟服を容赦なく濡らし、風は骨まで凍えさせる。森の奥、蜘蛛の巣のように絡まった裸木の向こうに、一筋の温かな明かりが見えた時、エドワードは神に感謝した。
近づいてみると、それは朽ちかけた鉄の門を持つ古い館だった。
かつてジョージ王朝時代の典雅な建築だったであろう石造りの邸宅は、今や蔦に覆われ、いくつもの窓が板で塞がれている。門柱に刻まれた家紋は風雨に削られ、判読不能だった。
「どなたかいらっしゃいませんか!」
重い真鍮のノッカーを叩くと、しばらくして軋む音と共に扉が開いた。
現れたのは七十歳ほどの痩せた老人だった。白髪は丁寧に整えられているが、燕尾服は古く、袖口がほころんでいる。だが最も印象的だったのは、その瞳だった。深く窪んだ眼窩の奥で、異様に鋭い光を放っている。
「これはご苦労でした。嵐の夜にお一人とは」
老人の声は教養の香りがした。オックスフォード訛りの上品な英語だが、どこか空虚な響きがある。
「サー・オーガスタス・ブラックウッドと申します。没落した男爵家の当主でございます」
自嘲的な笑みを浮かべながら、老人は丁寧に頭を下げた。
館の中は外見以上に荒廃していた。
かつては豪華だったであろうシャンデリアには蜘蛛の巣が張り、大理石の床には埃が積もっている。
だが不思議なことに、暖炉には火が燃えており、燭台の蝋燭が温かな光を放っていた。
「娘のベアトリスです」
階段の途中から現れた少女に、エドワードは息を呑んだ。十九歳ほどだろうか。
亜麻色の髪はゆるやかに結い上げられ、青い瞳は深い湖のように澄んでいる。陶磁器のように白い肌、薔薇色の唇──まさに理想的な英国淑女の美貌だった。

だが、何かが決定的に違っていた。その美しい顔には一切の表情がなく、瞳には生気が宿っていない。まるで精巧な人形が歩いているかのようだった。
「ベアトリス、お客様をお食事室にご案内しなさい」
少女は無言で頷くと、エドワードを廊下の奥へと案内した。彼女の歩き方さえも、どこか機械的で不自然だった。
何が彼女からこれほどまでに生気を奪ったのだろう?
エドワードは胸の奥に、説明のつかない不安を感じていた。
第二章 『アニマ・ダムナータ』
食事室は薄暗く、数本の燭台の炎だけが室内をかろうじて照らしている。
壁紙は湿気で剥がれ、かつては金箔で装飾されていたであろう家具には緑青が浮いていた。
テーブルクロスは清潔だったが、継ぎはぎだらけで、この家の困窮ぶりを物語っている。
だが、エドワードの視線は一点に釘付けになった。
暖炉の上に飾られた一枚の肖像画。
それは言葉を失うほど美しい男性の肖像だった。
年齢は二十五歳前後だろうか。漆黒の髪は微かに波打ち、深いエメラルド色の瞳は見る者の魂を射抜くような強烈な輝きを放っている。彫刻のように完璧な顔立ち、艶やかな唇は微かに微笑んでいるが、その笑みには言い知れぬ危険な魅力があった。
画家の技術は超絶的だった。光と影の使い方、肌の質感の表現、瞳に宿る生命力──まさに芸術の極致と呼ぶべき作品だ。だが最も驚くべきは、絵の中の男性がまるで生きているかのように見えることだった。時折、その瞳がこちらを見つめているような錯覚を覚える。
そして右下の隅に刻まれたサイン。ラテン語の「Raphael」とヘブライ語の文字が複雑に絡み合った、独特の様式だった。
「ラファエル・ダ・モルテ……まさか」
エドワードの心臓が早鐘を打った。
これは間違いない。三年前に忽然と姿を消した天才画家、ラファエル・ダ・モルテの作品だ。そして絵の下に記された題名──『アニマ・ダムナータ(呪われし魂)』。
ダ・モルテの作品は王室や大富豪たちが法外な金額で買い求めるが、この『アニマ・ダムナータ』だけは行方不明とされていた。美術界では「幻の最高傑作」と呼ばれ、その存在すら疑問視する声もあった。
「素晴らしい絵ですな」
背後から声がして、エドワードは振り返った。ブラックウッド男爵が銀の食器を手に現れたが、その表情には皮肉めいた笑みが浮かんでいる。
「これは.……本物でしょうか?」
エドワードは探るように尋ねた。もし本物なら、この一枚だけでブラックウッド家の借金など一瞬で解決できるはずだ。なぜこんな没落した館に?
「本物です」
老人の答えは簡潔だった。
「では一体、どのようにして...」
「古い知人から譲り受けたものです」
ブラックウッド男爵の瞳が一瞬、暗く光った。
「ラファエル・ダ・モルテ……彼は三年前、この館を訪れました」
ラファエル・ダ・モルテの行方が分からなくなったのも三年前のはずだ。
エドワードの脳裏に不吉な予感が走った。
「お値段はいかほどで譲っていただけるでしょうか?」
アシュフォード家の三男とはいえ、それなりの財産は持っている。この絵を手に入れることができれば、社交界での地位も、父からの評価も一変するだろう。
「申し訳ございませんが……」
ブラックウッド男爵の表情が急に深刻になった。
「この絵は売り物ではありません。いえ、売ることができないのです」
「と、いいますと?」
「この絵には……呪いがかかっているのです」
老人の声が震えていた。燭台の炎が揺れ、肖像画の男性の影がゆらゆらと踊る。その瞬間、絵の中の男性がこちらを見て微笑んだような気がした。
第三章 ベアトリスの記憶
その夜、エドワードに与えられた客室は館の二階にあった。
四柱式のベッドは古いが清潔で、暖炉には薪がくべられている。だが窓の外では嵐が激しさを増し、雷鳴が館全体を震わせていた。
眠ろうとしても、あの肖像画が頭から離れない。
『アニマ・ダムナータ』──呪われし魂。
美しすぎる男性の顔が、まるで自分を誘惑しているような錯覚を覚える。
あの絵を手に入れることができれば……
エドワードは枕に顔を埋めた。
アシュフォード家の三男として、常に兄たちの影に隠れて生きてきた。長男は家督を継ぎ、次男は軍人として名を成した。そして自分は?特に才能もなく、目立った功績もない平凡な貴公子でしかない。
だが、あの絵があれば違う。美術収集家として、文化的教養人として、社交界で注目を浴びることができるだろう。
……華やかな未来の夢を見ていた時、廊下に足音が聞こえた。
軽やかで、どこか浮遊しているような不思議な響きだった。扉の隙間から覗いてみると、ベアトリスが白いナイトガウン姿で歩いている。
月光が彼女の亜麻色の髪を銀色に染めていたが、その歩き方は明らかに異常だった。まるで夢遊病者のように、ゆらゆらと揺れながら。
エドワードは好奇心に駆られて後を追った。
少女は階段を降り、食事室に向かった。そして肖像画の前に立ち止まると、じっと見つめ始めた。
「美しい……とても美しい……」
初めて聞くベアトリスの声だった。だが、それは昼間に見た無表情な少女の声ではなかった。もっと成熟した、どこか妖艶な響きがある。
「あなたも美しい……私と同じように……」
彼女は肖像画に向かって話しかけている。まるで絵の中の男性が生きているかのように。
「ベアトリス?」
エドワードが声をかけると、少女は振り返った。その瞬間、エドワードは息を呑んだ。
ベアトリスの瞳が、肖像画の男性と同じ深いエメラルド色に変わっていたのだ。
「あら……お客様」
少女の声が低く、どこか男性的になった。そして唇に浮かんだ微笑みは、まさに肖像画の男性のものだった。

「どちら様でしたかしら……いえ、失礼。どちら様でしたでしょうか」
言葉遣いも微妙に変わっている。まるで別人が彼女の身体を使って話しているかのようだった。
「私はエドワード・アシュフォードです。あなたは……ベアトリスさんですよね?」
「ベアトリス……」
少女は首をかしげた。
「ああ、そうでした。私はベアトリス・ブラックウッドです。でも時々忘れてしまうのです。自分が誰なのか」
彼女の瞳に深い悲しみが宿った。だが次の瞬間、再びエメラルド色に変わる。
「でも今夜は覚えています。私は……私は……」
言いかけて、ベアトリスは急に苦しそうな表情を浮かべた。額に脂汗が浮かび、身体が小刻みに震え始める。
「助けて……私は……私は一体誰なの?」
第四章 男爵の告白
翌朝、エドワードが食事室に現れると、ベアトリスは昨夜とは全く違う様子だった。
再び人形のような無表情に戻り、昨夜のことは全く覚えていないようだった。
「昨夜は失礼いたしました」
ブラックウッド男爵が疲れ切った顔で謝罪した。その瞳には深い絶望が宿っている。
「ベアトリスは……病気なのです。三年前から」
老人は重いため息をついた。
「もしかして、ラファエル・ダ・モルテが来てからですか?」
エドワードの質問に、男爵は驚いたような表情を見せた。
「よくお分かりですね。その通りです」
そして老人は、重い口を開いた。
三年前の秋、館に一人の画家が現れた。
ラファエル・ダ・モルテ──当時既に伝説的存在となっていた天才画家だった。彼は「完璧な美」を描きたいと言い、ベアトリスをモデルにすることを望んだ。
「当時の娘は……今とは全く違っていました」
男爵の声に懐かしさと悲しみが混じった。
「明るく、聡明で、生命力に満ちあふれていた。まさに薔薇が咲くような美しさでした」
ダ・モルテは一ヶ月間館に滞在し、ベアトリスの肖像画を描いた。
だが完成したのは、ベアトリスではなく見知らぬ男性の肖像画だった。
「私は当然、抗議しました。約束と違うではないかと」
男爵の手が震えていた。
「すると彼は言ったのです。『美とは性別を超越するものだ。この絵こそが、あなたの娘の真の美しさなのだ』と」
その日を境に、ベアトリスは変わった。
日中は魂の抜けた人形のようになり、夜になると別の人格が現れる。
時には男性のような口調で話し、時には全く知らない記憶を語る。
「医師を呼びましたが、誰も原因を突き止めることはできませんでした。そして……」
男爵は肖像画を見上げた。
「あの絵を処分しようとするたび、娘の容態が悪化するのです。まるで絵と娘が見えない糸で繋がっているかのように」
第五章 画家の真実
エドワードは図書室でラファエル・ダ・モルテについて調べていた。ブラックウッド家の古い蔵書の中に、美術史の資料を見つけたのだ。
ダ・モルテは1845年頃にイタリアで生まれたとされているが、その前半生は謎に包まれている。
1870年頃からロンドンに現れ、貴族や富豪の肖像画を描き始めた。彼の作品は超自然的なまでに美しく、モデルの「魂」まで描き出すと評された。
だが奇妙なことに、彼の描いた肖像画のモデルたちには、共通した運命が待っていた。
エリザベス・ハミルトン伯爵夫人(1872年)→ 絵の完成後、原因不明の精神錯乱
チャールズ・ウェストン子爵(1875年)→ 絵の完成後、人格が変貌し家族が誰だか分からなくなる
アデレード・モントローズ公爵令嬢(1878年)→ 絵の完成後、記憶喪失と多重人格症状を発症
すべて、絵の完成後に精神的な異常を来している。そして1888年、ダ・モルテは忽然と姿を消した。最後に目撃されたのは、とある古書店で「魂の移転」に関する古代の魔術書を購入している場面だった。
魂の移転……
エドワードは血の気が引いた。
まさか、ダ・モルテは絵を通じて何かを行っているのではないか?
「興味深い本をお読みですね」
背後から声がして、エドワードは振り返った。
ベアトリスが立っているが、その表情は昼間の無表情なものではなかった。知的で、どこか皮肉めいた笑みを浮かべている。
「あなたは……ベアトリスですか?」
「時と場合によります」
少女は優雅に微笑んだ。その仕草は明らかに男性的だった。

「私の名前はアドリアン・デ・ヴェネツィア。16世紀ヴェネツィアの貴公子でした」
エドワードは立ち上がった。これは明らかに、昨夜とは違う人格だ。
「では、ベアトリスは?」
「彼女は私の中で眠っています。とても深い眠りに」
アドリアンと名乗る存在は、ベアトリスの身体でエドワードに近づいた。
「あなたも気づいているでしょう?あの絵の秘密に」
「絵の……秘密?」
「ラファエル・ダ・モルテは単なる画家ではありません。彼は魂を操る術師です。そして私は……彼の最初の作品なのです」
アドリアンの告白は衝撃的だった。
彼は400年前、ヴェネツィアで病死した青年貴族だった。だが死の直前、ある錬金術師によって魂を絵の中に封じ込められた。
「その錬金術師こそが、後にラファエル・ダ・モルテと名乗る男です。彼は不老不死を求め、他者の魂を糧として生きているのです」
『アニマ・ダムナータ』は、ダ・モルテが400年かけて完成させた「魂の器」だった。
この絵を見つめる者の魂を少しずつ吸い取り、代わりに絵の中の魂──アドリアンの魂を送り込む。
「ベアトリスは犠牲者の一人です。そして...あなたも既に、その過程が始まっている」
第六章 魂の価値
魂を吸い取られている?
エドワードは自分の手を見つめた。見た目は何も変わっていないが、確かに昨日とは何かが違う気がする。疲労感?それとも……空虚感?
「どのくらい時間があるのですか?」
「あなたの意志の強さによります」
アドリアンは哀れみを込めた眼差しでエドワードを見つめた。
「強欲で意志の弱い者ほど早く飲み込まれます。逆に、純粋で強固な意志を持つ者は長く抵抗できる。ベアトリスが三年も持ちこたえているのは、彼女の魂が非常に純粋だからです」
エドワードは愕然とした。
自分は確実に前者の部類に入る。
名声への欲望、美への渇望、そして今も心の奥で絵を手に入れたいと思っている。
「なぜ教えてくれるのですか?」
「私も……疲れているのです。400年間、この絵の中で意識を保ち続けることに」
アドリアンの表情に深い疲労が浮かんだ。
「そして何より、無垢な少女を苦しめることに罪悪感を感じています。彼女は何も悪いことをしていないのに」
その時、ベアトリスの身体が急に震え始めた。顔が苦痛に歪み、両手で頭を抱える。
「また……また誰かが来る……」
彼女の声が幼い少女のものに戻った。本来のベアトリスが表面に現れようとしているのだ。
「お願い……助けて……私は……私は誰なの?」
エドワードは思わず彼女を抱きしめた。震える小さな身体から、深い絶望と恐怖が伝わってくる。
「大丈夫です。きっと方法があります」
だが内心では、自分の無力さを痛感していた。どうすればこの呪いを解くことができるのか?
第七章 男爵の過去
翌日、エドワードはブラックウッド男爵と二人で話す機会を得た。
老人は最初渋っていたが、やがて重い口を開いた。
「実は……私にも隠していることがあります」
男爵の告白は、エドワードの予想を遥かに超えるものだった。
ブラックウッド男爵は元々この館の住人ではなかった。
三十年前、彼は若い美術商だった。そして偶然、とある古い屋敷の売却に立ち会った際、『アニマ・ダムナータ』を発見したのだ。
「その時の私は……愚かでした」
男爵の声に深い後悔が滲んだ。
「絵の価値に目がくらみ、正当な手続きを踏まずに持ち出してしまったのです。いわば、盗んだのです」
だが絵を持ち帰った夜から、奇妙なことが起こり始めた。夢の中に美しい男性が現れ、「契約」について話すようになった。
「最初は単なる悪夢だと思っていました。しかし次第に、夢と現実の境界が曖昧になっていったのです」
契約の内容は明確だった。絵を所有する権利と引き換えに、魂の一部を差し出すこと。そして最終的には、完全に魂を明け渡すこと。
「私は……受け入れました。若さと欲望に目がくらんで」
その結果、男爵は不老不死に近い状態となった。
三十年間、ほとんど年を取らず、病気にもならない。
だが代償として、感情の大部分を失い、人間らしい喜びや悲しみを感じることができなくなった。
「そして二十年前、愛する妻が病で倒れた時、私は絵の力で彼女を救おうとしました」
男爵の瞳に、三十年ぶりの涙が浮かんだ。
「妻の魂を絵に移そうとしたのです。しかし……失敗しました。妻は死に、そして生まれたのがベアトリスです」

ベアトリスは……亡くなった夫人の生まれ変わり?
エドワードは混乱した。
「正確には……妻の魂の断片と、絵の中に潜んでいた他の魂たちが混じり合って生まれた存在です。だから彼女は時々、別の人格を見せるのです」
ベアトリスの中には、母親の魂の他に、過去に絵の犠牲となった多くの魂が宿っている。それが彼女を苦しめている原因だった。
「私は娘を……いえ、娘と呼ぶ資格もない。私が作り出した哀れな存在を、これ以上苦しめたくありません」
男爵はエドワードを見つめた。
「だから……あなたにお願いがあります」
第八章 選択の時
「お願い?」
「この絵を破壊してください」
男爵の言葉にエドワードは驚いた。
「しかし、それでは……」
「私は消えるでしょう。ベアトリスも、その中にいる魂たちも、すべて」
男爵の声は静かだったが、強い決意が込められていた。
「でも、それが唯一の解放なのです。この呪いの連鎖を断ち切る方法は、絵を破壊する以外にありません」
エドワードは躊躇した。確かに呪いは解けるかもしれない。しかし、それは同時にベアトリスの死を意味する。そして自分も、あの美しい絵を永遠に失うことになる。
「なぜ私に?あなた自身でできるはず……」
「できません」
男爵は首を振った。
「私は既に絵に魂を縛られています。絵を破壊しようとするたび、身体が動かなくなるのです。第三者でなければ不可能なのです」
その夜、エドワードは一人で考え込んだ。
選択肢は二つあった。
一つは、男爵の願いを聞き入れ、絵を破壊すること。それはベアトリスを苦痛から解放するが、同時に彼女の命を奪うことでもある。そして自分も、あの美しい絵を失う。
もう一つは、絵をそのまま持ち帰ること。
男爵はもう抵抗する力がない。力ずくで奪うことも可能だろう。
そうすれば社交界での地位も、父からの評価も得られる。
ベアトリスの苦痛?それは自分には関係のないことだ。
これが人間の本性なのか?
エドワードは自分の心の醜さに愕然とした。無垢な少女の苦痛よりも、自分の野心を優先しようとしている。
だが……あの絵は本当に美しい。そして価値も計り知れない。
深夜、エドワードは食事室に向かった。肖像画は相変わらず暖炉の上に飾られ、美しい男性が微笑みかけている。
「迷っているのですね」
背後でベアトリスの声がした。振り返ると、今度はまた違う人格が表に出ているようだった。その表情は慈愛に満ち、どこか母性的な温かさがある。
「あなたは……」
「私はマーガレット。この子の母親です」

ベアトリスの身体を借りた母親の魂が、エドワードに微笑みかけた。
「あなたの心の葛藤が手に取るように分かります。美しいものへの憧れと、正しいことをしたいという良心の間で揺れているのでしょう」
エドワードは言葉を失った。この女性の魂には、深い愛情と悲しみが宿っている。
「私たちを救うことは、あなたにとって何の得にもなりません。むしろ大きな損失です」
マーガレットは絵を見上げた。
「でも知ってください。真の美しさとは、所有することではなく、愛することなのです。そして愛とは、時には手放すことでもあるのです」
「しかし、ベアトリスは死んでしまう」
「この子は既に死んでいるのです。三年前から」
母親の魂は悲しそうに微笑んだ。
「今この身体を動かしているのは、私たち亡霊の断片に過ぎません。真のベアトリスは、とうの昔に絵の中に囚われているのです」
その時、ベアトリスの身体が再び震え始めた。別の人格が現れようとしている。
「時間がありません」
マーガレットの声が遠ざかっていく。
「選択の時です、エドワード・アシュフォード。あなたは人間として、何を選びますか?」
第九章 人間の醜さ
朝が来た。
エドワードは一睡もできなかった。
食事室に現れたベアトリスは、また人形のような無表情に戻っていた。しかしその青い瞳の奥に、かすかに何かが蠢いているのが見える。複数の魂が混在し、苦しんでいるのだ。
「決心はつきましたか?」
ブラックウッド男爵が現れた。その顔には諦めと希望が入り混じった複雑な表情が浮かんでいる。
エドワードは長い沈黙の後、口を開いた。
「申し訳ありませんがお断りします」
男爵の顔が絶望に歪んだ。
「この絵は……私がいただいて帰ります」
エドワードの心は既に決まっていた。美しいものを手に入れたいという欲望が、良心を上回ったのだ。
「ベアトリスさんには気の毒ですが、それは私の責任ではありません。元々あなた方が絵に手を出したことが原因でしょう」
冷酷な言葉が口をついて出た。自分でも驚くほど冷静だった。
「お金なら支払います。正当な取引として」
エドワードは財布から札束を取り出した。没落した男爵家にとっては大金のはずだ。
「エドワード様……お願いです……」
男爵が膝をついて懇願した。
「娘を。いえ、この哀れな魂を救ってください...」
「残念ですが、私にも私の人生があります」
エドワードは肖像画を壁から外し始めた。その瞬間、絵の中の男性の瞳が光り、唇の微笑みが深くなったような気がした。
やはり美しい……この美しさを独占できるのだ
その時、ベアトリスが突然立ち上がった。その瞳にはこれまで見たことのない強い光が宿っている。
「やめて……お願い……やめて……」
か細い声だったが、確かに本物のベアトリスの声だった。魂の奥底から絞り出すような、必死の叫び。
「私を……みんなを……助けて……」
だがエドワードは振り返らなかった。絵を抱えて館を出ようとする。
「エドワード!」
男爵の絶叫が背後で響いた。
「あなたも必ず同じ運命を辿る!絵はあなたの魂も喰らうのです!」
だがエドワードは聞こえないふりをした。馬に絵を括り付け、ロンドンに向けて駆け出した。
振り返ると、館の窓にベアトリスの白い顔が見えた。その頬を涙が流れているのが、遠目にも分かった。

第十章 新たな犠牲者
それから三ヶ月後、ロンドンのエドワードの邸宅。
『アニマ・ダムナータ』は書斎の最も目立つ場所に飾られていた。
社交界での反響は期待通りで、多くの貴族や文化人がエドワードの邸宅を訪れた。
父親からの評価も一変し、「芸術的センスのある息子」として認められるようになった。
だが、エドワード自身には異変が起こっていた。
日に日に疲労感が増し、集中力が続かない。
そして何より恐ろしいのは、時々記憶が曖昧になることだった。
昨日何をしていたか思い出せない時間が増えている。
さらに悪いことに、時折鏡に映る自分の顔が変わって見えることがあった。自分ではない誰かの顔が、一瞬だけ映る。美しい男性の顔が。
「エドワード様、お客様です」
執事が現れた。
「どちら様ですか?」
「ベアトリス・ブラックウッド嬢という方です」
エドワードの血の気が引いた。なぜ彼女がここに?
応接室に現れたベアトリスは、三ヶ月前と変わらず美しかった。だが、その瞳には以前にも増して空虚さが宿っている。
「なぜここに?」
「あなたに……お礼を言いに来ました」
ベアトリスの声は平坦だった。
「父は先月、亡くなりました。あの後、急速に衰弱して」
エドワードは言葉を失った。
「でも安らかでした。最期は『ようやく解放される』と言って微笑んでいました」
ベアトリスはエドワードを見つめた。その瞳に、一瞬だけ深いエメラルド色の光が宿る。
「そして私も、もうすぐ消えます。父がいなくなって、この世界に繋ぎ止めるものがなくなりましたから」
「ベアトリス」
「でも消える前に、あなたに警告したくて」
少女の表情が急に変わった。アドリアンの人格が表に出てきたのだ。
「あの絵は、既にあなたの魂の半分を取り込んでいます。あと数ヶ月で、あなたは私と同じ運命を辿るでしょう」
エドワードは震え上がった。
「どういう意味ですか?」
「あなたの魂は絵の中に移り、代わりに絵の中の魂があなたの身体を乗っ取ります。そしてあなたは永遠に、絵の中で苦しみ続けるのです」
アドリアンの言葉に、恐怖が込められていた。
「400年間、私が味わい続けてきた苦痛を」

第十一章 絶望の選択
その夜、エドワードは『アニマ・ダムナータ』の前に座り込んでいた。
アドリアンの警告は本当だった。
既に自分の中に、別の人格が宿り始めているのを感じる。
美しい男性の記憶が、断片的に頭に浮かぶ。16世紀ヴェネツィアの風景、貴族の館での舞踏会、そして……死の瞬間の恐怖。
これが私の選択の結果なのか
エドワードは自分の醜さを呪った。ベアトリスを救うことができたのに、自分の欲望を優先した。そして今、同じ運命を辿ろうとしている。
「後悔していますか?」
振り返ると、ベアトリスが立っていた。だがその姿はもう半透明で、まるで霧のように揺らいでいる。
「あなたは……本物のベアトリスですか?」
「魂の最後の欠片です」
少女の声は風のように頼りなかった。
「父の死と共に、私を繋ぎ止めていた最後の鎖も切れました。もう……もう消えてしまいます」
ベアトリスは涙を流した。それは血のように赤い涙だった。
「私は結局、誰にも救われず、誰も救えず……ただ苦しんだだけでした」
「ベアトリス……」
「でも最後に一つだけ教えてください」
少女の瞳に、深い絶望が宿った。
「あの絵は……私の苦しみは……美しかったですか?あなたの欲望を満たすのに値しましたか?」
エドワードは言葉を失った。その問いの残酷さに、胸が張り裂けそうになる。
「私は、私は……ただ美しいものが欲しかっただけで……」
「そう。それが人間なのですね」
ベアトリスは哀しく微笑んだ。
「私たちの苦痛も、絶望も、すべてあなた方の『美しいもの』への欲望の糧に過ぎない」
そして彼女の姿が薄れ始めた。
「さようなら、エドワード。あなたもすぐに、私たちと同じ苦しみを味わうでしょう」
ベアトリスは完全に消えた。エドワードは一人、絵の前に取り残された。

第十二章 呪いの継承
夜明けが近づいていた。エドワードは暖炉の前に立ち、火かき棒を手に持っていた。
『アニマ・ダムナータ』は目の前にある。破壊すれば、この呪いの連鎖を断ち切ることができるかもしれない。
だが……
本当に呪いは断ち切れるのか?
エドワードの脳裏に、恐ろしい疑念が浮かんだ。もし絵を破壊しても、呪いそのものは残り続けるとしたら?別の形で現れるとしたら?
そして何より、今更ベアトリスも男爵も死んでしまっている。絵を破壊したところで、彼らが救われるわけではない。
結局、私は何も変えることができない
エドワードの手から火かき棒が落ちた。
その音に反応するように、絵の中の男性の瞳が光った。アドリアンの声が響く。
「賢明な判断ですね、エドワード」
声は既にエドワードの口から発せられていた。意識が混濁し、自分が自分でなくなっていく感覚。
「あなたの魂は美味でした。特に後悔と絶望の味わいが」
エドワードは鏡を見た。そこに映っているのは自分の顔だったが、瞳だけが深いエメラルド色に変わっている。
「これで私も新しい身体を得ました。400年ぶりの自由です」
アドリアンがエドワードの身体で笑った。
「そしてあなたは、私が400年間味わった苦痛を、これから永遠に味わい続けるのです」
エドワードの意識は絵の中に引きずり込まれた。暗闇の中で、無数の悲鳴が聞こえる。ベアトリス、男爵、そして過去の犠牲者たち……皆が苦しみ続けている。
助けて……誰か助けて……
だが誰も来ない。誰も救ってはくれない。
エピローグ 永遠の呪い
それから十年が経った。
エドワード・アシュフォード──その身体を使うアドリアンは、ロンドン社交界の寵児となっていた。美貌と教養、そして優雅な立ち居振る舞いで多くの人々を魅了している。
『アニマ・ダムナータ』は依然として書斎に飾られ、訪れる客人たちを魅了し続けていた。
「素晴らしい絵ですね」
今夜も一人の若い芸術家が、絵に見入っている。
「どこで手に入れられたのですか?」
「古い知人から譲り受けたものです」
アドリアンは微笑んだ。400年間変わらない、美しく残酷な微笑みを。
「もしお気に入りでしたら...特別にお譲りしてもよろしいですが」
若い芸術家の瞳が欲望に輝いた。その瞬間、絵の中のエドワードが必死に叫んだ。
やめろ!その絵に近づくな!
だが声は届かない。絵の中に囚われた魂の声は、誰にも聞こえない。
「ぜひお願いします!」
また新しい犠牲者が生まれようとしていた。
絵の中で、ベアトリスが泣いている。男爵が絶望している。そして数え切れない魂たちが苦しんでいる。
これが人間の本性なのか?
エドワードは理解した。
呪いとは絵にあるのではない。人間の心の中にあるのだ。美しいものへの飽くなき欲望、他者の苦痛への無関心、そして己の利益のためなら何でもする醜い本性。
『アニマ・ダムナータ』は、ただそれを利用しているに過ぎない。
そしてロンドンの霧深い夜に、また新しい悲劇が始まろうとしていた。
館の窓辺で、白い薔薇が一輪だけ咲いていた。だがその花弁は既に黒く染まり始めている。純白だった美しさも、やがては闇に飲み込まれる運命なのだ。
美しいものを求める人間がいる限り、この呪いは永遠に続く。
そして絵の中で苦しむ魂たちの悲鳴だけが、誰にも聞かれることなく響き続けている。

後日談
その後も『アニマ・ダムナータ』は持ち主を変えながら存在し続けた。
美術商、収集家、貴族。
皆が同じ運命を辿った。
現在その絵がどこにあるのかは分からない。しかし確実に言えることは、今でも誰かがその美しさに魅入られ、新たな犠牲者となっているということだ。そしてその度に、絵の中の苦しみは増していく。
永遠に。
