哀愁の燻製|毎週ショートショートnote
保育園の帰り道、娘が言った。「ママ、くんせいってなに?」
手をつなぎながら歩く夕暮れの道。さっきスーパーで、スモークチーズのパックを指さしていたのを、ちゃんと覚えていたのだろう。
「煙でね、チーズとかをいぶすの。ちょっとだけ、大人の味になるんだよ」
娘は目を輝かせ、「うちでもやってみたい」と言った。
その夜、キッチンは煙でいっぱいになった。古い鍋とアルミホイルでつくった即席スモーカー。見よう見まねでチーズとゆで卵を並べて、娘と顔を見合わせながら、煙の向こうをのぞき込んだ。出来上がったチーズは、少し焦げていて、決して上手とはいえなかった。
でも娘は、ひと口かじって、笑った。
「しあわせの味がするね」
それから、十年。娘はもうこの家にいない。
久しぶりにベランダで、あのときと同じようにチーズをいぶした。少しだけ、煙が目にしみる。
一口かじると、あの夜のキッチンがよみがえる。
これはただのチーズじゃない。
時間ごと、記憶ごと、いぶされたもの。
そう思ったとき、胸の奥に漂ったのは、懐かしさと少しの寂しさ。
もう戻らない時間のかけらみたいな、それは、「哀愁の燻製」だった。
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