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「プペル」続編が爆死した理由

■■「作品」ではなく「西野亮廣」を押し出すという「作戦ミス」


映画 えんとつ町のプペルは、少なくとも“作品単体”として見れば、決して出来の悪い作品ではない。


映像は美しく、音楽も強く、テーマも分かりやすい。 家族向けエンタメとして成立しているし、日本アニメ映画として見ても平均以上の完成度はある。


だから実際、ヒットした。


問題はその後だ。


続かなかったのである。


そしてその理由は、作品そのものの質よりも、「誰を前面に出したか」にあった。


■■日本では「クリエイター本人」が前に出ると嫌われやすい


ここを誤解している人が多い。


日本では昔から、「作品」は好きでも、「作者が前に出る」のは嫌われやすい。


特にネット時代以降、その傾向はさらに強まった。


いわゆる“嫌儲”的感覚である。


「金儲けを前面に出すな」 「自己演出するな」 「クリエイターは裏方でいろ」 「作品で勝負しろ」


こういう空気が、日本にはかなり強く存在している。


もちろんこれは建前でもある。 実際には人々はアイドルや配信者が好きだし、ブランド化された人格にも惹かれる。


しかし、“クリエイター”という肩書きでそれをやると、一気に反発が発生する。


特に日本では、 「自分を凄い人間として売り始めた瞬間」に拒絶反応が起きやすい。


■■西野亮廣は「作品」より「自分」を押し出した


西野亮廣は、ここを完全に読み違えた。


本来なら、 「プペルという作品がヒットした」 という状態を維持するべきだった。


しかし実際には、 「西野亮廣という人物が凄い」 という方向へ舵を切り続けた。


オンラインサロン。 ビジネス論。 自己啓発的発信。 成功者ブランディング。 革命家ポジション。


つまり、“作品の作者”ではなく、“西野亮廣という思想そのもの”を売り始めたのである。


ここで一気に拒否反応が増えた。


なぜなら多くの人は、作品を見たかったのであって、「作者を崇拝したい」わけではないからだ。


■■本来なら「作者性」は後から出すべきだった


これは順番の問題でもある。


たとえば、 宮崎駿や新海誠ですら、「作家ブランド」が完全に定着するまでには長い時間がかかっている。


まず作品が積み上がる。


その後に、 「この人だから見る」 という状態が形成される。


しかし西野は逆だった。


まだ作家ブランドが安定していない段階で、 「西野亮廣という存在そのもの」 を前に出し過ぎた。


結果、 作品評価ではなく、 人格評価の戦場に自分から降りてしまったのである。


そして人格評価の戦場は、作品評価より遥かに厳しい。


「嫌われた」のではない


“反発される構造”を自分で作った


ここを感情論にしてはいけない。


別に、 「日本人は挑戦者を叩く」 みたいな雑な話ではない。


もっと単純である。


市場理解の問題だ。


日本市場では、 クリエイターが自己演出を強めるほど、作品へのノイズが増える。


特に、 「自分を成功者として見せる」 方向へ行くと、一気に作品より人格が見られるようになる。


つまり、 作品の評価軸を、自分で壊してしまうのである。


これは被害ではない。


戦略ミスだ。


■■二作目の失敗は「作品の質」以前の問題だった


仮に二作目の内容が悪くなかったとしても、もう観客側の視線が変わってしまっていた。


観客は、 「面白い作品か?」 ではなく、


「また西野か」 「また自己演出か」 「また信者ビジネスか」


というフィルターを通して見るようになる。


この状態になると、作品単体で評価されなくなる。


つまり、 作品ではなく“作者への感情”が先に立つ。


これはクリエイターにとってかなり危険な状態である。


■■結論


結局のところ、 失敗の最大原因は、 西野本人の「前に出たい欲求」を制御できなかったことにある。


もっと言えば、


「作品を売るフェーズ」と、 「自分を売るフェーズ」を混同した。


これが致命的だった。


もし西野が、 徹底して“裏方”に回っていたなら。


もし「プペル」という作品だけを静かにブランド化していたなら。


今より遥かに大衆的な成功を維持できていた可能性は高い。


繰り返すが、作品自体は悪くない。むしろ制作陣や声優にしっかり力を入れた、高品質の作品である。


しかし実際には、 作品の成功を、 “西野亮廣という人物の神格化” へ接続してしまった。


その瞬間、 作品はエンタメではなく、 思想と人格の評価対象になった。


そして日本市場では、それは極めて不利なのである。

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