パスタ作ったお前
スパゲッティーが空に浮かんでいたのである。
いや、正確には浮かんでいたような気がしたのである。
しかし「気がした」という言葉は便利なようでいて実に曖昧で、例えば昨日食べた夕飯がカレーだったのかハヤシライスだったのか、あるいはカレーのふりをしたハヤシライスだったのかさえ曖昧にしてしまう危険性を孕んでいる。だから私は慎重に観察した。
観察した結果、やはりスパゲッティーだった。
うどんではない。
ラーメンでもない。
きしめんですらない。
あの独特の、茹で加減について家族会議が開かれがちな細長い炭水化物が、ふわりふわりと初夏とも晩秋ともつかぬ空気の中を漂っていたのである。
するとその瞬間、隣町の蚊取り線香の火が消えた。
もちろん誰も見ていない。
なぜなら隣町は少し遠いからである。
しかし見ていないにもかかわらず、なぜか全員知っていた。
八百屋のおじさんも知っていた。
散歩中の犬も知っていた。
犬が本当に知っていたかは不明だが、少なくとも知っている顔はしていた。
犬という生き物は時々、人類が知らない会議に出席しているような顔をすることがある。
ともあれ、蚊取り線香の火は消えた。
そのことによって何か大事件が起こるわけでもなかった。
ただ、隣町の公園のブランコがいつもより二センチほど哲学的な揺れ方を始めたらしい。
哲学的な揺れ方とは何か。
それは誰にも分からない。
私にも分からない。
おそらくブランコ本人にも分からない。
だが分からないという事実こそが哲学の入口であると聞いたことがあるので、ブランコは案外大学院くらいまで進学していたのかもしれない。
その頃、町役場の裏にある植木鉢ではタンポポと輪ゴムが静かな口論を続けていた。
「伸びることに意味はあるのか」
と輪ゴムが言えば、
「飛ぶことに意味はあるのか」
とタンポポが返す。
どちらも答えは持っていなかったが、答えを持っていない者同士の会話ほど長引くものはない。
世界の歴史の半分くらいはそうやってできている。
たぶん。
いや、三割かもしれない。
あるいは冷やし中華くらいかもしれない。
数字の根拠は特にない。
そもそも根拠というものは、だいたい後から追いかけてくる。
先に来るのは大抵、勢いである。
そしてスパゲッティーには勢いがあった。
空を漂いながらもどこか確固たる意志を感じさせた。
まるで「私は浮かぶために茹でられたのだ」とでも言いたげだった。
そんなことを考えているうちに、遠くの積乱雲が少し照れた。
雲が照れるとどうなるか。
輪郭が曖昧になる。
つまり世界は少しだけぼやける。
すると駅前の銅像が急に肩こりを訴え始めた。
百年以上同じポーズを続けているのだから無理もない。
近くを通りかかった自転車のベルが「それは大変ですね」と鳴ったような気がした。
その会話を聞いていたカラスは、なぜかフランス語で相槌を打ったらしい。
誰もフランス語を知らないので確認はできなかった。
確認できないことばかりが増えていく。
人生とはそういう倉庫のようなものだ。
開けてみたら中に説明書のない扇風機と、用途不明のネジと、昭和三十七年頃の夕焼けと、半分だけ覚えている校歌が入っている。
そしてその隅で、スパゲッティーが静かに浮いているのである。
やがて夕方になった。
夕方というのは不思議な時間で、昼の理屈と夜の理屈が雑に引き継ぎを行う時間である。
そのため時々、世界の設定に小さなほころびが生じる。
その日もそうだった。
西の空から一本のスパゲッティーがゆっくりと降下してきた。
それは風に流されることもなく、重力に急かされることもなく、まるで退職した校長先生が最後の挨拶を終えて体育館を横切るような速度で降りてきた。
そして私の肩に着地した。
何かを伝えたそうだった。
重要なことかもしれない。
宇宙の真理かもしれない。
明日の天気かもしれない。
あるいは冷蔵庫にプリンが残っているという連絡事項かもしれない。
しかしスパゲッティーは口を開きかけたところで眠ってしまった。
実に惜しい。
人類は何度こうして真理を聞き逃してきたのだろう。
眠そうな麺と、うっかり者の文明によって。
結局、隣町の蚊取り線香の火がなぜ消えたのかは分からないままだった。
スパゲッティーとの因果関係も不明である。
統計学的に有意なのかも分からない。
サンプル数が一回だからである。
だが世の中には、一回しか起きていないのに妙に信じたくなる出来事がある。
例えば初恋とか。
例えば流れ星とか。
例えば冷蔵庫の奥から突然出てくる賞味期限の読めない調味料とか。
そういうものは説明できないまま人の記憶に住み着く。
だから今でも私は空を見上げる。
またスパゲッティーが浮かんでいたらどうしよう、と少し期待しながら。
その時はきっと隣町の蚊取り線香が消えるだろう。
あるいは消えないだろう。
代わりに洗濯ばさみが進化するかもしれない。
信号機が俳句を詠むかもしれない。
公民館の観葉植物がジャズに目覚めるかもしれない。
そのどれでもなかったとしても構わない。
なぜなら世界というものは案外、理由の分からない出来事が互いの袖を引っ張り合いながら、ふにゃふにゃと前へ転がっているだけなのだから。
そしてその中心にはいつだって、空を漂う一束のスパゲッティーのような、つかみどころのない何かがいるのである。
たぶん。
いや、知らないけれど。
