プレデターとプリテンダーの違いについて考えていたら、なぜか冷蔵庫から哲学が出てきた話
グッバイ
世の中には似ているようで全然似ていない言葉がある。
たとえば「プレデター」と「プリテンダー」だ。
発音の勢いだけで生きている人からすると、どちらも海外ドラマのシーズン3くらいで出てきそうな名前に聞こえる。
しかし実際には大きく違う。
プレデターは捕食者である。
ライオンであり、ワシであり、サメであり、場合によっては締切前の編集者でもある。
相手を追いかけ、見つけ、仕留める側の存在だ。
一方、プリテンダーは「ふりをする者」である。
王様のふりをする人。
天才のふりをする人。
ダイエット中のふりをしながら深夜にカツ丼を食べる人。
そういう存在である。
つまり、
プレデターは獲物を追う。
プリテンダーは設定を追う。
この違いは大きい。
しかし私はある日、不思議なことに気づいた。
プレデターとプリテンダーの間には、実は細い通路があるのではないか。
そう思ったのである。
たとえば猫。
猫はプレデターだ。
小鳥を狙う。
虫を狙う。
レーザーポインターの光まで狙う。
だが同時に猫はプリテンダーでもある。
何も悪いことをしていないふりが異様に上手い。
花瓶を倒した直後に、
「私は今ここに初めて来ました」
みたいな顔をする。
あれは高度なプリテンダー技術である。
つまり猫は、
プレデター兼プリテンダーなのである。
ここまで考えたところで私は冷蔵庫を開けた。
すると中に昨日買ったプリンがあった。
しかしその瞬間、私はある疑問に襲われた。
プリンはなぜプリンなのだろう。
もしプリンが「プリテンダー」の略称だったらどうなるのか。
プリンは本当はゼリーになりたかったのに、卵を使うことでプリンのふりをしているのではないか。
あるいは逆に、ゼリーがプリンのふりをしている可能性もある。
そう考え始めると、もはや何が本物で何が偽物かわからなくなってくる。
人類史とは巨大なプリテンダーの歴史だったのではないか。
会社員は会社員のふりをしながら生きている。
学生は学生のふりをしながら生きている。
大人は大人のふりをしている。
実際にはみんな心のどこかで、
「これ本当に合ってるのかな」
と思いながら毎日を進んでいる。
つまり人類は巨大なプリテンダー社会である。
しかし時折、その社会の中からプレデターが現れる。
締切を食べる作家。
売上を食べる営業。
唐揚げを見つけた瞬間の高校生。
彼らは本能に従って突き進む。
そう考えると、世界は意外と単純かもしれない。
人は二種類に分けられる。
プレデターになる者。
プリテンダーになる者。
そして第三の存在。
プレデターのふりをしているプリテンダー。
あるいはプリテンダーのふりをしているプレデター。
この辺りまで来るともう量子力学である。
観測するまで正体がわからない。
シュレーディンガーの猫もきっと箱の中で、
「私は猫のふりをしたプリンです」
くらいのことを言っていたはずだ。
結論として、
プレデターは獲物を追う者。
プリテンダーは何かになろうとする者。
そして我々はそのどちらでもあり、そのどちらでもない。
人生という巨大なジャングルの中で、ときには獲物を追い、ときには平然と何者かのふりをしながら歩いている。
そう考えると、プレデターとプリテンダーの違いは案外単純である。
ただし油断してはいけない。
プレデターについて考えていたはずなのに、気づいたらプリンについて考えていることがある。
文明とはそういうものである。
そして最終的には大体いい暮らしである。
