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なぜ少女は悲鳴を上げなかったのか。【月曜日の朝、スカートを切られた 歌詞考察】

欅坂46の楽曲の中でも、この曲は特異だ。
なぜなら、この歌の主人公は「反抗する若者」ではないからだ。
反抗する気力すら失いかけている。
冒頭から主人公は学校や大人に疑問を投げかける。

真実を教えないなら
ネットで知るからいい

ここには現代の若者特有の諦めがある。
昔の反抗は熱かった。大人に怒り、社会を憎み、革命を夢見た。しかしこの曲の主人公には、その熱がない。

反抗したいほど
熱いものもなく

欅坂46の他の楽曲で言えば、『不協和音』のような爆発的な怒りではない。
もっと冷たい。もっと静かだ。
そしてその静かさこそが恐ろしい。
この曲のタイトルである「スカートを切られた」は、もちろん実際の被害としても読める。だが私はそれ以上に象徴だと思う。
スカートとは何か。
制服である。
つまり社会から与えられた役割だ。
学生。女子高生。未来ある若者。
そうしたアイデンティティが、見知らぬ誰かによって切り裂かれる。
そして犯人はわからない。
ここが重要だ。
犯人は「誰か」なのである。
顔も名前もない。

通学電車の誰かにやられたんだろう

つまり敵は個人ではない。
社会そのものだ。
満員電車。学校。大人。同調圧力。将来への不安。
そういう無数のストレスが集まった結果として、主人公のスカートは切られる。
誰か一人が悪いわけではない。
だからこそ救いもない。

二番になると、この曲はさらに絶望的になる。

夢も希望もないのに各駅停車かい?

これは人生そのものだ。
生まれる。学校へ行く。大学へ行く。会社へ入る。結婚する。老いる。死ぬ。
そのレールが見えている。
なのに目的地に希望が見えない。
それでも電車は止まらない。
だから主人公は言う。

死んでしまいたいほど愚かにもなれず
生き永らえたいほど楽しみでもない

これは自殺願望ではない。
むしろ逆だ。
「死ぬほど苦しくもないし、生きるほど楽しくもない」という現代人のリアルだ。
欅坂46はしばしば若者の怒りを歌ったと言われる。
だが私は違うと思う。
欅坂46が歌ったのは怒りではなく、
怒ることすらできなくなった世代の絶望だった。
そしてこの曲で最も重要な一節がある。

誰もが何かを切られながら生きている

ここで物語は個人の話ではなくなる。
スカートを切られた少女だけではない。
夢を切られた人。自信を切られた人。
恋を切られた人。誇りを切られた人。
誰もが何かを失いながら生きている。
だからこの曲は被害者の歌ではない。
全ての人間が当事者の歌である。
しかし主人公は最後まで泣かない。
悲鳴を上げない。復讐もしない。世界を変えようともしない。
ただ存在だけを主張する。

自分はここにいる
それだけ伝えたい

私はこの一節こそ欅坂46の核心だと思う。
『サイレントマジョリティー』が「声を上げろ」という歌なら、『月曜日の朝、スカートを切られた』は「声を上げられなくても、そこにいていい」という歌だ。MVも『サイレントマジョリティー』の前夜を描いた作品とされている。
この曲は希望の歌ではない。かといって絶望の歌でもない。それは、「傷つきながらも月曜日を生きる人間の歌」である。
スカートを切られても学校へ行く。
満員電車に乗る。
未来が見えなくても朝は来る。
その姿は決して格好良くない。
だが、美しい。
欅坂46というグループが持っていた魅力は、世界を変える英雄ではなく、世界に馴染めないまま生き続ける人間の尊厳を歌ったことにある。
『月曜日の朝、スカートを切られた』は、その思想が最も鋭く表れた楽曲だと私は思う。

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