宣教師と路傍伝道
円安の中、宣教師が来てくれるのはとても良いことだが、中にはすぐに路傍伝道したがる人もいたりする。もちろん、路傍伝道そのものは悪いわけではないけど、時間の無い中、ちゃんと弁証して伝道することはとても難しいこと。あまり効率的では無いケースが大半ではないだろうか。なぜなら、アメリカ流の路傍伝道をそのまんま持ってきて例えば「あなたは罪人だ!悔い改めて福音を信じなさい!」とだけいわれても、聖書の世界観のほとんど無い日本においては大抵は「は?私は犯罪者ですか?」となってしまうだろう。
日本語聖書でよく用いられる語も、実際の日本社会のニュアンスにおいては、例えば次のように理解されやすい。
• 「神」= 八百万の神、自然霊的存在
• 「罪」= 社会的犯罪、社会的迷惑、和を乱すこと
• 「救い」= 苦難や困難からの現世的解放、借金を返し終わること
• 「恵み」= ご縁、運、人情

聖書の訳語の中で、聖書中のニュアンスと普段日本人の我々の使っているニュアンスのギャップを埋めるために、言葉を聖書の文脈に沿って定義し直して定時したり、世界観を再構築したりすることは丁寧に説明して、時間をかけなければならないし、路傍であれ、家族であれ、友人であれ、そのような伝道をするのには、それほど根気が必要。また、そのギャップを埋めることは、説教者の責任でもあるのだ。

宣教師も伝道するなら、一生涯責任を持つくらいの覚悟で丁寧に伝道して行かなければならないのである。
