私が月1実家を始めた理由
私が月1実家を始めた物語
そこまで深い理由は無いのですが、なるべく私の投稿を楽しんで頂きたいので、他のSNSでは月1実家の話は定期的に投稿したりしているのですが、noteでは書いていませんでした。
でも、そろそろ投稿も溜まってきましたし、私の色んな経験を知って、同じような体験をした方の何かの励みになったらとも思い、こちらにも投稿を始めました。
そもそもの母からは虐待され、姉はASDで子供の頃は今のように知識が広まっていませんから、妹の私は姉が私のを欲しいと一日中ついて回り「ジャイアン状態w」。
そんな私がなぜ「月1実家を始めたのかー」を書いてはきませんでした。
毎回の投稿でそこに触れるのもしんどいですし(おかげで気づけば約9カ月投稿が滞っていました。すみません…)
とはいえ、詳しく書くと長くなりすぎるし、重たくなるので、月1実家の話は改めて「マガジン」にまとめることとし、そこに「詳細な経緯」は書きたいと思いますと言っていたのに、それも書いていませんでした。
ということで、この記事は毎月できるかは分かりませんが、月1実家シリーズを初めてご覧になる方のために、投稿の最初に貼るための説明記事となります。
父が他界するまで
何度か他の投稿で触れていますが…。私と姉は、少なくとも私が1歳になる前から、母に強烈な虐待をされていました。
姉は発達障害がありましたが、時代もあり「変な子」として育ちました。父も恐らく発達障害(自閉傾向)だったろうと思います。母は、「家族で自分だけが素晴らしい!まともだ!」と信じて疑わない人ですが、私が約7年前に「うつ」と診断されてから、何度か「母とのエピソード」を主治医に話すだけでも、「お母さんは確実に重度の精神疾患をお持ちです」と言われるほどです。
とはいえ、後期高齢者で、おまけに眼もほとんど見えず、実家でしか過ごせない老いた母に今さら「精神科へ行こう」と言っても、絶対拒否するだけでしょうし、そのための言い争いを含めたやり取りに注ぐ精神力も体力も私にはないため、受診してはいません。
また、一昨年の12月に父は他界しましたが、国家公務員だった父は約3年に1度転勤があり、すべて内示をそのまま引き受けたので、私が産まれた後から考えても、幼稚園・小・中は転校で2校ずつ通い、周囲の大人に助けを求めることはできませんでした。
幼い私は、夫婦喧嘩をすると自室に閉じこもる父。発狂して家中の食器を玄関に叩きつけて割ったり、アルコール・ギャンブルなど各種依存症をやりつくしたり、「死ぬ」といって風呂場に包丁を持ち込んで閉じこもったり、何も言わずに家出をしたりする母。母の「癇に障る」姉と暮らす、小さな「家族」という社会の中で、必死に母の気配と顔色をうかがいながら、「今日も一日平和でありますように」と祈り、AC(アダルトチャイルド)で言うところの「優等生」と、時には「ピエロ」を演じて、家族の「鎹(かすがい)」であろうと努力をしました。
もちろん、幼い私にそんな力は無くて、いつも「決壊」していましたけどね…(笑)
父の難病と他界前後
父の母(つまり私からしたら祖母)は、ALS(筋萎縮性側索硬化症)という全身の筋肉が弱っていく難病で、60代で亡くなりました。
まさかの父が他界する2年ほど前に、70代でALSを発症。父はそのことが許せなかった(祖母から病気をもらったと思い込んだ、まぁ遺伝の関係もあるのでそれはあるのでしょうけれど、個人的には10代後半~20代に発症し60代まで生きられないという病気のため父は恵まれていたと私は思っていますが)ため、大人しい人で、私の記憶する限り仕事の愚痴は一度も家で聴いたことが無い人でしたが、診断が確定するまで高濃度のステロイド治療を受けたせいもプラスしてか、かなり暴れました。
具体的に言うと、私は当時はとっくに家を出て一人暮らしをしていたので、詐欺にあって多額の借金を負って実家に帰らせていた姉と父と母で暮らしていた時に発症したのですが、食べることが大好きだったのに好きなものも食べられない。煙草も欠かせない人でしたが、もちろん吸えない。
帰宅したら何人ものヘルパーさんが入って、お風呂から色んなお世話をしてくれますが、好きなものを作ってくれない、髪を洗うのが下手だ、若い女性ヘルパーが気に入って「その子を来るようにしろ!」といった言動をするようになり、おまけにケチだったので、姉と母が介護をすれば「タダなのに」という苛立ちで、母に言葉と身体的暴力を振るうようになりました。
その頃の母は、大きめだったのに、急激に心労もあって20kgほど痩せてしまい(今では40㎏台)、当然に大柄な父の世話なんてできません。姉も高齢者のそういうことは発達障害もあり、理解できないけど、目の前で老いて弱くなった母を父が殴る蹴るしようとするのは耐え難かったようで、自分が身代わりになりました。
しかし、母は母で「自分だけが家族を想い」「自分だけが家族に尽くし」「自分だけがまともな人間」と思っているので、姉の気がきかない部分や、父の通院に付き添った時にきちんとした対応ができないことなどを、「バカだ」とか「障害」だとか、「その血はお父さんのものだ」などとなじるようになり、板挟みにあった姉は、ある時家を出てホテルへ行き、自殺を図りました。
姉なりにかなり調べたようで、本気で生死をさまよい、救急センターの医師から「これが最後の治療法になります。この薬が効かなければ、肝臓移植が必要で、それができなければ半年も持たないと思ってください」と言われましたが、何とかその後数日で退院できる値にまでなりました。
※詳しい話は割愛します。ご理解ください。
ということで、この頃には私は私でうつが酷く、フリーランスとして働いていましたが、私の「うつ」にとって母との連絡などは悪影響だったため、LINEなどで姉の愚痴などは聞いていましたが、具体的な助けはしていませんでした。というか、できませんでした。
一昨年の12月父が他界。私はうつを発症したとき、電車に飛び込みそうになったため、頓服の抗不安薬を飲み、さらに胆嚢を全摘しているため、公共の交通機関を利用するのはかなり大変なので、ギリギリまで父の葬儀に出るのかすら迷いました。
ところが、また母が姉をなじりまくり、「葬式にも出ない!」と姉が前日にまた家出したと母から電話があり。
姉にLINEを送って、仕方なく私は前日の夜中に電車に乗り、実家へ行き、近くのレストランで姉と待ち合わせて、好きなものをご馳走したり、「父から最後に言われた言葉(ALSの中なんとかタッチペンでスマホを押し私に電話をしてきて家出した姉をよろしくと言われたこと)」などを姉に話して、二人でファミレスで泣きながらご飯を食べて家に帰り、翌日、葬儀に参列しました。
人間が亡くなると、葬儀も大変なのですが、そのあとが本当に大変で…。エンディングノートや終活などをするように勧める人がいるのは、これらのことが原因だと思います。
本当に「悲しむ暇がない」んです(笑)私としてはありがたい部分もありましたが…。
また、お薬でイカレたのと、ごうつくな叔母が晩年、父が入っていた施設を何度も訪れ、勝手にPCを操作して買い物をしたり、部屋の金庫の番号を知っているので通帳もいくつか持ち去っていたことが判明しました。
さらに、父が入所していた施設の部屋の片づけ、実家中の遺品整理、家中の掃除、母の介護、姉と母のための作り置きおかずなどのお世話をすることになって、そのままもうすぐ3年になります。
私の想いは母と姉で何とかやって行けるように…
他のSNSで継続して投稿していたことは先に触れたのですが、そこでは私を心配してくださる方から
「Sakuyaちゃんの人生だからやる必要ないよ」
「自治体や社会資源で代わってもらえるところはないの?」
といったコメントも頂戴しました。
私もこのまま何十年も行くつもりはなく、というか私の心身のほうが先にダメになりそうなので。
でもこうやって続けているうちに、最初は口を開けば言い争いになるため、それぞれ自室で食事をしていた二人が、リビングで食事をするようになり。
ゲラだったのに一切笑わなくなっていた姉が、半年後くらいから私の些細なことにお腹を抱えて笑うようになり。
料理に全く興味が無かった姉が何とか作るようになったり、裏の成分表示を見て自分に必要なものを少しずつ知り始めたり。
変化は確実にしてきています。
また、私自身これらをやりつつ、別途姉の行く末のことも考えて色々な機関に相談はしてきました。悉く難しいのですが…。本当にASDって大変ですね。一見普通に見えるように育てられたのも一因だと思います。
とはいえ、私だけ大学に行かせてもらった(父・母・姉は高卒)ので、何とか頭で姉が自分らしく生きていく環境を残していけたらと思っています。
母には、最期までに家族全員へ感謝してもらえたらと思っていますが、そう思うかどうか、思えるかどうかは母次第ですので何とも言えません。ともあれ、人生の晩年であることは確かなので、できないことが増えている母にも穏やかに過ごしてもらえたらとは思っています。
結局長くなってしまいましたね。すみません。
今後はこれが最初にくっついた記事になり、第二項以降にその月に作ったものなどをまとめていきたいと思います。
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