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普通の大人は「フィクションはフィクション、現実は現実」と知っている

 男女どちら向けを問わず、フィクションの異性像はありえない願望の結晶だとフェミニストの頭では分からないものなのかな?

 そんな疑問を感じさせる、フェミニストが書いた啓蒙記事に出会った。

 大衆向けの娯楽作品は、男性向け女性向けを問わず、様々な設定がご都合主義的である。そして大抵の女性向け娯楽作品に登場する男性は現実の男性とかけ離れた女性の願望が詰まっているものであるし、男性向けの娯楽作品はそれの逆だ。そんな女性向け娯楽作品に登場する男性に対して、世の中の多くの男性が感じることは「んな男いまっかいな」というものだ(※太字の表現は批判対象記事における表現に倣ったもの)。もちろん、男性向けの娯楽作品に登場する女性に対して、世の中の女性が感じることも同様だろう。

 とはいえ、普通の思考力を持った人間であれば、男性向けの娯楽作品には理想化された女性が登場し、女性向けの娯楽作品には理想化された男性が登場することに関して、娯楽作品の性質から了解している。そして「娯楽作品とはそんなもんだ」と当たり前に認識している。

 それがフェミニズムに被れると「娯楽作品はすべて家父長制のイデオロギーに毒された理想化された女性しか出てこない!」と異議申し立てるべき事として認識されるようだ。

 百歩譲って「女性向け娯楽作品の男性の理想化はやめるべきだし、男性向け娯楽作品の女性の理想化もやめるべきだ」と主張するなら、まだ理解できなくもない。しかし、女性向けの娯楽作品の男性の理想化に関しては何も問題ないと無視して、男性向け娯楽作品の女性の理想化だけを許すべからざる問題として槍玉に挙げるのだ。

 なぜ男性を非難する前に女性自身が同様のことやっていないかどうかを確認しないのか。そして、その確認から掴んだ事実を元に、自分の主張におかしな点が無いかどうかをチェックするという反省的視点をフェミニストはなぜ持てないのか。まったく不思議でならない。

 

■大方の娯楽作品は主人公中心主義

 頭をカラッポにして楽しむ娯楽作品の多くは有り得ないご都合主義が罷り通る願望の世界の話である。ままならぬ現実世界の自分を一時忘れて、フィクションの主人公に自分を重ね合わせて空想の中で自分が世界の中心となる夢を見る。大抵の娯楽的なフィクションは、現実では叶わない欲求を空想の世界で叶えて代替的満足を得るためのお手軽な手段に過ぎない。

 つまり、大方の娯楽作品は主人公中心主義を取っている。この主人公中心主義が、男性向け女性向けを問わないことは、代替的満足を与える手段としての娯楽作品の性質から当然ながら出てくる。なぜなら、現実では叶わない欲求を空想の世界で叶えたいという代替的満足を希求することに男女の別はないからである。それゆえ、それぞれの性別の人間に向けて、それぞれの性別の嗜好の傾向に適合する形の主人公中心主義をとる娯楽作品が制作され、供給されている。

 そんな男女双方の願望に合わせた主人公中心主義の娯楽作品がそれぞれ提供されている現状にあるにも拘らず、男性向け娯楽作品の主人公中心主義だけを非難するフェミニストの啓蒙記事が出た。そんなフェミニズムの男性悪玉論に乗っかって戯言を吐いている、Yahoo!ニュースに転載された記事を提示しよう。

映画の中に登場する女性は、男性が好む美しさ可愛さを持ち、男性が夢見る形でそれを発露し、いざとなれば男性のために自分を犠牲にすることも厭わないーーつまり果てしなく男性の目線で都合よく作られた、だからこそ男性が「いい女!」と称える、でも私に言わせれば「んな女いまっかいな」という人物です。パッと見は「女性に対する嫌悪」とは思わない、むしろ女性の中にも「こういう愛され女性になりたい」と思ってしまう人もいるかもしれません。でも女性を「美しい女神」「愛されてなんぼ」「男性に守られる存在」と定義することは、そこからはみ出した女性を「女性じゃない」と蔑む思想の裏返しで、ほとんど同じです。「女性」を「母親」に置き換えればーー「聖母(清らかでない母親は本当の母親じゃない)」「子ども中心に生きるのが母親(働く母親は母親とは言えない)」「母性愛は母親なら誰もが持つ(子育てが辛い自分はおかしい)」などの母親神話ーーよりわかりやすくなるかもしれません。

男性だけではなく、女性にも巧妙に刷り込まれているかもしれない「男性優位的な価値観」とは?
渥美 志保 2025.4.17 mi-mollet (強調引用者)

 当たり前の話なのだが、概ね女性は女性主人公に自分を重ね、男性は男性主人公に自分を重ねる。然したる抵抗なしに自分を重ねることが出来るのは、自分と同じ属性であると強烈に認識する登場人物である。そして、読者や視聴者が属性が同じと認識し易い属性の一つが性別という訳だ。

 また、娯楽作品を制作するにあたってのマジョリティ向けの一般的枠組みである異性愛フレームのもと、主人公の性別とは逆側の性別の登場人物は、ターゲットとなる読者や視聴者の性別に合わせた願望の結晶となる。もちろん、登場する全ての異性が願望の結晶となるわけではなく、願望の対象となり得る数人の異性が結晶になる。

 娯楽作品における男女関係というのは、作品の世界観と独立した要素として、主人公にとってまことに都合の良い、主人公中心主義に適合する形での男女関係となる。これは女性向け娯楽作品、男性向け娯楽作品を問わない

 繰り返しになるが、そもそも頭をカラッポにして楽しむ娯楽作品は、現実では叶わない欲求を空想の世界で叶えて代替的満足を得るためのお手軽な手段に過ぎない。女性向けと男性向けという娯楽作品のターゲットの違いは、代替的満足の獲得手段としての娯楽作品の性質に影響を与えない。

 大方の娯楽作品が主人公中心主義を取るのは、代替的満足の獲得手段としての娯楽作品の性質から来ている。家父長制イデオロギーが男性中心主義だから娯楽作品もまた主人公中心主義になるといった、フェミニストの主張は、男女の別の無い現実では叶わない欲求を空想の世界で叶えて代替的満足を得るという娯楽作品が求めれれる理由を無視している。


■君らは我が身を振り返るということをしないのかね

 渥美氏は先に引用したようにフェミニズムからの男性悪玉論に乗っかり、娯楽作品のそんな性質も理解せずに、男性向け娯楽作品についてだけ主人公中心主義を非難する。しかし、娯楽作品の主人公中心主義が問題であるとして非難するのであれば、それは男性向け娯楽作品だけでなく女性向け娯楽作品も同様に非難すべきであり、女性もまたフィクションと現実を区別できずに自分中心主義となると批判すべきだろう。

 フェミニズムという人間の思考力を破滅的に低下させる思想に毒されていない人間であれば当たり前に理解できることなのだが、自分側の性別の人間向けに作られた、頭をカラッポにして楽しむ娯楽作品に登場する異性は、現実世界では有り得ない、自分側の性別の人間の願望の結晶となっている。こんなことは、実際にいくつかの女性向け娯楽作品を思い浮かべるだけで、正常な思考能力を持つ人間であれば、その人間が女性であっても気づけると私は思う。

 書店に並ぶ少女漫画や女性向け娯楽小説を見れば、高身長で資産家のイケメン男性、自分には暴力的ではなくまた不正義を許さず筋も通すイケメンヤクザ、一途に(他の人間と大して魅力に違いのない)主人公だけを見つめ続けるモテモテのイケメン、気配りが出来て色々リードしてくれるけど主人公が意を通したいときは直ぐに主人公を優先してくれるイケメンの恋人、・・・等々が頻繁に登場する。女性の理想を煮詰めて形にした「んな男いまっかいな」という男性ばかりである。

 残念ながら、現実世界の男性はそんな女性の願望の結晶のような人間ではないことなど当たり前の話である。結局のところ、娯楽作品において登場する異性が読者層・視聴者層となる人間の願望の結晶である事態に、ターゲットとなる読者層・視聴者層の性別は関係しないのだ。


■フィクションはフィクション、現実は現実

 渥美氏自身が娯楽作品の空想世界と現実世界の区別がつかないのだろうか。空想世界の登場人物のあり方と現実世界の人間のあり方を混同してはいけないことを理解していないのだろうか。それとも、「空想世界の登場人物のあり方と現実世界の人間のあり方を混同してはいけない」ということを通常一般の人間が理解していないと思っているのだろうか。

 大抵の人間は小学生の高学年にでもなれば「現実の人間は漫画とは違う。だから『ドラゴンボール』の悟空みたいにかめはめ波を自分は出せない。残念だなぁ」といったような形で、空想世界の登場人物のあり方と現実世界の人間のあり方が違う事を学ぶ。フィクションが描き出している世界と現実世界が同じであるとは考えない。「フィクションはフィクション、現実は現実」と、通常一般的な人間は遅くともティーンにもなれば理解するのだ。

 フェミニストには理解できないのかもしれないが、そんなことは当たり前の話なのである。


■私以外は私じゃないの

 他人が何かをしていたからといって、基本的にそれを自分の為にやっているとは考えない。自分が自分の為に生きているように、他人もまた他人自身の為に生きている。個々人が個々人自身に帰属する目的を持っていることなど大抵の人間は理解している。

 とはいえ誰であっても、他者は「アナタ自身にとってのアナタではなく、私にとってのアナタ」という形で認識される。

 ただし、この問題は哲学的な観点から語られる問題である。哲学的文脈の話として「自己はどこまでいっても自己に閉じている」のだ。他者とは自己にとって超越であり、本質的に自己に回収されない存在である。そのため、他者は常に一部しか認識できない存在なのだ。このため、自己の他者認識は常に「私にとってのアナタ」という形になる。

 上記の哲学的な議論は、「私にとってのアナタという認識」と「その私のアナタについての認識とアナタ自身にとってのアナタが一致するとの思考」は異なるという話をしている。

 日常的次元の話で具体例を用いて説明しよう。

 「K奈さんは甘党ではなく辛党だと思う」とK奈さんを認識しているA氏が居るとしよう。このときにA氏が「K奈さんは辛党だ」と認識していることは、「K奈さんは辛党だと私が認識しているから、必然的にK奈さん自身も自分は辛党だと認識しているはずだ」とA氏が思考していることを意味しない。A氏はそんな奇妙な考え方をしているのではなく、「私はK奈さんを辛党と思っている。しかし、それはあくまでも自分の印象で、K奈さん自身の嗜好として本当に辛党かどうかは分からない」と常識的な形で認識しているだろう。

 要するに「他者を認識するときは、同時にメタ的認識もしている」という話である。

 だが、渥美氏は「男性は常に『女性が男性の気を引こうしている』と認知する」といった趣旨の主張する。言い換えると、女性を認識するとき、男性はメタ的認識をしないと主張するのだ。該当箇所を引用しよう。

女性が美しくするのは自分がそうしたいからで、「男の気を引こうとしている」とか「俺に気がある」という判断は、男が勝手に自分に都合よくとらえているに過ぎません。つまるところ女性を「女神化」するのも「魔女化」するのも、男性側の妄想を正当化するため、心理学でいうところの「認知の歪み」です。

同上

 もちろん、渥美氏が批判する奇妙な認知――メタ的認識を欠く男性がいないとは言わない。しかし、同じような認知でいるのは、むしろ(日本の)フェミニスト界隈に多いように私は感じる。

 また、全くモテと関係の無い所で「お前は非モテだ」「そんなんじゃモテない」と言い出すのは男性よりも女性である。また、男性のあらゆる言動や行動を「モテ」の問題に還元することは、男性のあらゆる言動や行動を見て「女性の気を引こうとしている」「女性である自分に気がある」と認知し判断していると言える。結局のところ、渥美氏はしばしば観察される、全てをモテの問題に還元する女性の認知の歪みを男性に投影しているだけではないのだろうか。

ミーム「青筋ピンク」:ビジネスの事業性の議論において登場した発言のシーン

 最後に、渥美氏の言葉を適宜置き換えた皮肉でこの件を締めたいと思う。

 男性が何かしらについて発言したり行動するのは自分がそうしたいからで、「女の気を引こうとしている」とか「女である私に気がある」という判断は、女が勝手に自分に都合よくとらえているに過ぎない。つまるところ男性を「白馬の王子様化」するのも「卑劣な悪魔化」するのも、女性側の妄想を正当化するため、心理学でいうところの「認知の歪み」である。




■余談:WOKEと娯楽作品の広がり

 娯楽作品は、たとえ読者や視聴者が主人公と目される登場人物に自分を重ねなかったとしても、読者が感情移入する候補となりうる登場人物の性別は男女のいずれか一方に偏らせる工夫をしている。

 何故そんなことをしているのかと言えば、空想の中で叶える願望が男女で違うからだ。「読者が感情移入する主人公-主人公を中心に回る作品世界」という構造を持つ娯楽作品において、男女の願望の相違が「主人公を中心に回る作品世界の設定」を女性向けと男性向けで違うものにさせている。例えば、主人公を華やかなパーティで注目を浴びさせる世界や主人公を麗しく変貌させていく世界は、概ね男性向けではなく女性向けの娯楽作品世界であり、主人公がバイオレンスによって成功する世界や勝負事によって成り上がる世界は、その逆である。

 もちろん、これらの男女の願望の相違は文化の産物であり、いわゆる社会的に構築されたジェンダーであると言える。したがって、「主人公を華やかなパーティで注目を浴びさせる世界や主人公を麗しく変貌させていく世界を舞台とする娯楽作品で、なぜ男性が感情移入しやすい男性主人公の作品が少ないんだろうか」といった違和感を抱く男性も居るであろうし、逆に、「主人公がバイオレンスによって成功する世界や勝負事によって成り上がる世界を舞台とする娯楽作品で、なぜ女性が感情移入しやすい女性主人公の作品が少ないんだろうか」と違和感を抱く女性も居るであろう。

 もっとも昨今のWOKEの風潮のなか、『マッドマックス:フュリオサ』を典型とするバイオレンス世界で活躍する女性主人公の娯楽作品も登場してきてはいる。バイオレンス世界だけでなく、これまで男性向け娯楽作品の世界とされた空想世界で活躍する、女性が感情移入しやすい女性主人公の娯楽作品も増えてきていると言ってよい。

 従来型ジェンダーで言えば男性向け空想世界を好む感性の女性は、昨今の男性向け空想世界で活躍する女性主人公の娯楽作品の登場によって、「ようやく自分の趣味に合致する娯楽作品が出てきた」と感じているだろう。とはいえ、マッドマックス的世界を典型とする、従来は男性向けとされた空想世界で自分が活躍することを、純粋に望む感性の女性は中々にニッチな存在のように思われる。WOKE旋風が収まったあとも興行的にあの手の映画が製作され続けるのかどうかは私個人の印象としてはかなり微妙な気もしている。

 ただし、娯楽の感受性に関する従来型ジェンダーが解体すれば、バイオレンス世界で活躍する娯楽作品の主人公の性別は男女で50:50になるのかもしれない(※Xジェンダーを入れて考えるなら対応した割合になるだろう)。


※渥美氏の同記事への批判記事に関して以下のnote記事も私は書いている。


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