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【試し読み】久保明教『内在的多様性批判』「序論 このバラバラな世界をバラバラなままつなぐために」/全文公開中!

人類学者・久保明教さんの最新作『内在的多様性批判』がついに刊行となります。「みんなちがって、みんないい」とは、いかなることでありうるのか? この問いに応答する、渾身の一冊。
本記事では本の中から「序論 このバラバラな世界をバラバラなままつなぐために」の全文を公開!
★詳しい書誌情報・販売情報はこちら→https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784867930984

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序論 このバラバラな世界をバラバラなままつなぐために

 私たちは多様であることが広く肯定される時代を生きている。自分らしく生きること、自分とは異なる他者の個性を尊重すること、誰もが自由に自分のやりたいことを追求できること。いまや多様性の肯定とその促進は一般的に「望ましい」ことであり、簡単には否定できない規範的な価値をもちつつある。とはいえ、それは無制限の自由を意味するわけではない。

 みんなちがって、みんないい。大正末期の詩人・金子みすゞの「わたしと小鳥とすずと」の末尾に置かれたこの一節は、小学校の教科書に同作が掲載された一九九〇年代以降、穏やかに多様性を肯定するメッセージとして広く親しまれるようになってきた。

 だが、「みんな」とは誰のことだろうか。テロリストやレイシストや転売屋やヘビィスモーカーも「みんなちがって、みんないい」と言えるだろうか。金子の詩が「みんな」と呼んでいるのは、題名の通り、私(人間)と小鳥(他の生物)と鈴(人工物)だが、この一節が援用される時、その適用範囲はほとんど人間に限定されている。パンデミックを引き起こしたウィルス、事故によって放射能を拡散した原発が「みんな」に含まれることは想像しがたい。

 多様性はどこまで肯定されうるのか。こうした疑問は、同質性を自明視する規範的発想へのカウンターとして多様性が掲げられていた時にはさほど問題にならなかっただろう。それは「高学歴・高収入・円満な家庭生活が誰にとっても幸福なことだ」といった価値観、「みんな同じでみんな良い」という発想を批判し、相対化する役割を担っていたからだ。

 しかしながら、多様性の尊重が規範化した現在、「みんなちがって、みんないい」という発想は、どこまでの多様性をどのように認めるのかという厄介な問題を生みだしている。最も簡単な解決策は、多様性の追求をあらかじめ一般に肯定されうる範囲に絞りこむことだろう。多様な生き方のうち、誰もが「悪い」と思うだろう選択肢を排除すればいい。「誰にとっても悪いことは認められない」という単一の枠組によって多様性の暴発が抑えられる。こうなると、「みんなちがって、みんないい」という解放のメッセージは、「みんな良い限りにおいてみんな違って良い(=みんな良くなれ!)」という統制のメッセージにすり替わる。あなたの日常を織りなす友人や知人、商品や言説はどれほど互いに「違う」だろうか。その多様性は、一般に「良い」と言える範囲におさまるよう暗に調整されていないだろうか?

 ただし、この解決法は決して万能ではない。テロが誰にとっても悪いことであり誰も選択しない行為なのであれば、そもそもテロは生じない。あるいは、朝井リョウの小説『正欲』(二〇二一年、新潮社)で描かれているような、一般的な善悪の基準にうまくあてはまらず、他者が容易に理解できない各人の「やりたいこと」をどう扱うかについても、この解決法は明確な対応策を示せない。一律に良し悪しを判別できるという発想自体が価値判断をめぐる同質性を前提にしているからだ。多様性が規範化すると、個々人が自由にふるまいながら全体として秩序が保たれることが要請されるようになる。そもそも、より多様になるということは、各人が互いにより異質な存在になり、関係を築くための共通の土台が弱体化し、それぞれの生きる世界がバラバラになっていくということである。そこで秩序を維持するためには、単一の枠組や基準によって多様性を制御する必要が生じ、それは多様性の尊重という価値を否定するものとして現れる。このように、規範としての多様性には根本的な矛盾が孕まれている。

 本書が対象とする文化・社会人類学は、知の基礎的な水準において、こうした矛盾と深く関わってきた学問である。世界の周辺部に暮らす人々の営為を、西洋近代を頂点とする人類進化の初期段階にある「原始文化」や「未開社会」として捉えた一九世紀の進化主義人類学に対して、二〇世紀初頭に形成された文化・社会人類学は、進化主義的な発想を否定し、個々の文化/社会を独立した価値や基準をもった体系として捉える文化相対主義的な発想を基調としてきた。いうなれば人類学は「みんなちがって、みんないい」という発想を「人類」という単位において探求してきた学問であり、学問外に対しては主に同質性の規範化を批判し多様性を肯定する知として自らを提示する一方、学問内においては学問外に先駆けて多様性が規範化されてきた分野だと言えるだろう。

 もちろん、人類学における多様性の追求は、現代社会における多様性の称揚と全く同じものではない。多くの人類学者は規範化した「みんなちがって、みんないい」の語り口には強い違和感を抱くだろう。だが、現在の社会的状況と人類学の軌跡の間に論理的な同型性を見いだすことは可能である。実際、どこまで多様性を認めうるかという論点は、人類学史において主に二種類の困難として現れてきたと考えられる。第一に、明らかに非科学的に見える異文化の営為をいかに捉えうるか、といった認識論的相対主義(文化によって妥当な認識は異なる)をめぐる困難であり、第二に、明らかに人権侵害のように見える営為を異文化の慣習として認めるべきか、といった倫理的相対主義(文化によって妥当な倫理は異なる)をめぐる困難である。

 人類の多様性は尊重されるべきだとしても、身近に起きた災いが誰かにかけられた妖術のせいだとみなされることや、夫を亡くした妻が後追い自殺することが当然とされる慣習は、科学的客観性や人権といった普遍的な基準に照らして間違っている、と言いたくなるだろう。とはいえ、「科学」も「客観」も「人権」も、西洋という一地域が育んできた文化的伝統の産物である。特定の文化的な慣習がいかに否定すべきものに思えようとも、それもまた人類の多様なありかたの一つだとすれば、否定的な判断を押しつけてよいのだろうか。「科学」や「人権」などの近代的概念は人間だれしもに当てはまる普遍的な枠組として練りあげられてきたものだが、それらを異なる文化的伝統を持つ人々に無批判に強制することは、知と思考における構造的な暴力であり、植民地主義(文明の発展していない地域に進出して近代化を進めることが人類全体の発展に寄与するという論理)の知的な遂行であるとも言える。だが、妥当な認識や倫理は文化によってバラバラであり、「科学」も「人権」も西洋近代の内部でしか妥当でないと考えてしまえば、異文化の営為については何も言えないことになってしまわないだろうか。

 このように、単一の枠組によって多様性を把握しようとする試みは、恣意的な基準を他者に押しつけているのではないかという疑念と、単一の枠組がなければ一貫した理解ができなくなるのではないかという危惧のあいだを行き来することになる。「みんなちがって、みんないい」という発想を学問的に追求すると、基準の恣意性への疑いと首尾一貫した体系的な説明の必要性のあいだの矛盾が強まっていく。本書で中心的に検討されるのは、こうした矛盾が頂点に達し、人類学が近代西洋の視点から異文化を表象する学問であることへの自己批判が突き詰められた一九八〇年代の「ポストモダン人類学」から、その限界を乗り越えるものとして今世紀初頭に登場した「存在論的転回」にいたるまでの人類学的思考の軌跡である。

 ただし、多様性という言葉を、現在の社会的状況と人類学内部の議論を類比的に捉える媒体として用いることは、誤解を招きやすいものでもある。両者における「多様性」の関係を整理するために、一つ具体的な記述を参照しよう。

 映画研究者の三浦哲哉は、サバティカルで滞在した米国ロスアンゼルス(LA)における多様性のあり方を論じる際に、LAの料理評論家ジョナサン・ゴールドの次のような挿話を紹介している。

 生前、ゴールドはその評論で、しばしば「どうしても好きになれないもの」について語った。それは重要性において、「好きなもの」と同等であったようにも思える。たとえば、レビューを書くためになんと十七回通って、それでも好きになれなかったというレストランについて、ゴールドは次のように発言している。

(…)台湾料理屋だった。私はそこに行って、ある意味、まずいと思った。臭豆腐は経験済みだったが、あんな臭豆腐は初めてだった。それからあのポタージュ、とろみがつけられていたのだが、スプーンに液体が張り付いてぶるんと持ちこたえるほどだった。奇妙な燻製の臭いは、まるで誰かがタバコを突き刺したみたいだった。異様にパワフルな味の苦瓜が出てきて、その苦味と言ったら抗がん剤みたいだった。(…)でも、そこが悪いレストランではない、ということも私には分かったんだ。客たちはきちんとドレスアップしていたし、あきらかにこの店が好きだから来店しているようだった。だから私がこの味を好きではないのは、文化的相対性によるもので、だからまだ楽しめないだけではないか、と考えたんだ。

[三浦哲哉 二〇二一『LAフード・ダイアリー』講談社:二四七〜二四八]

 三浦はこうしたゴールドの評論家としての実践を、LAという都市を彩る「豊かさの多様性」の裏面にある「貧しさの多様性」に焦点をあてるものとして捉えている。前者が「たとえばセレクトショップの場合のように、異質なものを多種多様に選ぶことができると考えるときに想定されている多様性」だとされるのに対して、後者は次のように説明される。

 「貧しさの多様性」のほうは、むしろ、受動性と結びついている。いかんともしがたい習慣に囚われて選ぶことが困難になり、その内部に閉じこもる。そのような生が、複数ばらばらに隔絶して存在することが想定される。

 そのある生の状態から別の状態に飛び移るときは(たとえば移住したり、別の家庭に入ったり、兵役に取られたりして、それまで知らない食習慣の中に入らざるをえなくなるときは)、喜ばしい発見があるかもしれないが、しかし痛みをともない、けっして癒えぬ傷を負うかもしれない。適応の過程で、多かれ少なかれ身体の変化を余儀なくされるだろう。そもそも飛び移ることに失敗してしまう場合も多々あるだろう。ともあれ、可能な範囲で私たちは別の状況に適応し、いびつながらに経験を重ねてゆく。人生を歩むにしたがって、それらは記憶の中に蓄積され、その人にしかありえないしかたで配置される。配置されることで、ある味の記憶は、ほかの味との差異によって輝き出るだろう。

[前掲書:二四五〜二四六]

 「豊かさ/貧しさ」という表現は、三浦が描く米国内の状況においては妥当なのかもしれないが、人類学的にはやや強すぎる価値判断と結びつく対句であるため、ここでは三浦自身の記述にそって前者を「選択することの(できる)多様性」、後者を「飛び移ることの(できる)多様性」と呼ぶことにしよう。前者が、そこでの選択の可能性が価格やランキングのような単一の基準によって担保される点において規範的な多様性の捉え方に親和的であるのに対して、後者は人類学者が行うフィールドワークのあり方に親和的である。異郷の地において現地の人々と共に生活しながら理想的には二年以上の長期にわたって行うものとされる人類学的なフィールドワークは、「ある生の状態から別の状態に飛び移る」ことを学問的な調査方法として構成したものであり、しばしば「失敗」や「痛み」や「癒えぬ傷」を伴ってもいる。例えば、筆者の大学院生時の指導教員の一人は「フィールドに行くたびにトラウマになる」と述べていたことがある。ただし人類学者の場合、飛び移りの記憶は「その人にしかありえないしかたで配置される」だけでなく、それをもとに——その記憶を共有しない読者に向かって——人類一般に関わる何ごとかを論じることが要請される。

 「飛び移ることの多様性」を経験するだけであれば、移住者や長期旅行者と変わりはない。「民族誌」と呼ばれる、そうした経験についての記述と分析が学問的に評価されるためには、「複数ばらばらに隔絶して存在する」生のあり方を、何らかの仕方で説得的に結びつけることが必要になる。したがって、人類学的な著述は、まずもって「飛び移ることの多様性」の経験的な記述に基づいて「選択することの多様性」のような一般的な発想を批判的に相対化するものとして現れるが、バラバラな生のあり方を結びつけて人類一般について論じるために多様性を捉える何らかの枠組が必要になるという点においては、多様性をめぐる一般的な発想との論理的な同型性や実践的な連続性が認められる。

 そもそも「選択することの多様性」と「飛び移ることの多様性」は、相互に全く独立したものではない。前者が後者を取り込むことも、後者が前者を頓挫させることも、前者か後者か判然としないことも多々ある。「101ベストレストラン」と題するランキングをLAタイムズで毎年発表していたという評論家ゴールドは、「飛び移ることの多様性」を「選択することの多様性」へと接続する役割を担っていたとも言えるだろう。人類学の研究者がフィールドワーク先を決める過程もまた、しばしば、調査資金や研究関心に基づいた「選択」なのか、偶然の出会いに導かれた「飛び移り」なのか判然としないまま進行する。このように、人類学的な多様性の探求は、現代社会における多様性の規範化との換喩的かつ隠喩的な関係において、つまり規範的な多様性の捉え方を批判し相対化すると同時にそれが孕む困難や可能性を示唆するものとして位置づけられる。本書もまた、国家や企業による「ダイバーシティ」や「インクルージョン」の推進といった現代社会における多様性の規範化に関わる具体的な事象について論じるものではないが、これらの事象を規定している規範的な多様性の捉え方を超えて、多様性をめぐる私たちの思考の可動域を広げる試みとして提示される。

 再び学問の外に目をむければ、私たちの日常には規範としての多様性が孕む矛盾を緩和する仕掛けが広く配備されつつあることが見えてくる。例えばX(旧Twitter )では、一見すると誰もが好きなことを好きなように発信している。だが、多数の「いいね」やRPを得たポストは多くの人にとって「良い」ものとして現れ、評価を得やすいポストの内容や形式が繰り返し模倣され普及していく。一般に「良い」とは言えなさそうな発言や、誰かにとって「悪い」と思われる発言に対しては、コメントや引用RPで否定的反応が連鎖する「炎上」が生じ、タイムラインで観測される限りの「みんな」にとって「悪い」ものとして排除されることになる。このように、XをはじめとするSNSにおいて、規範的多様性の矛盾は、多様なユーザーたちのふるまいが流動的に「みんな」の基準を形成していく運動によって緩和される。多数の「いいね」をもらうために多くの人が「良い」とするだろう内容や形式が選ばれやすくなり、炎上を避けるために誰かが「悪い」とみなすかもしれない表現を自重する企業的配慮(「コンプライアンス」や「ポリティカル・コレクトネス」)が個々人にまで浸透していく。一人一人が自由にふるまいながら、そのふるまいを互いにモニタリングすることで全体としての秩序が保たれる。そこには、少なくとも、所与の規範によって多様性を抑圧しているという批判はあてはまらない。

 所与の規範を押しつけることなく多様性を促進しながら相互モニタリングを通じて集合的にそれを抑制する媒体は、オンラインのサービスだけではなく、「監査文化」(audit culture)と呼ばれる、標準化された説明様式の広まりにも見いだされる[cf. ストラザーン、マリリン編 二〇二二『監査文化の人類学—— アカウンタビリティ、倫理、学術界』丹羽充・谷憲一・上村淳志・坂田敦志訳、水声社]。そこでは、会社員や株主から地域住民や就活生まで、様々な行為者が自らの行為の詳細(目的、リスク、見通し、達成能力など)を、標準化された種々の様式(自己評価書、報告書、計画書など)に従って説明することが求められる。個々人は標準的な形式にそって常に自己をモニタリングし、他者へと開示することになる。自分はどんな人間であり、どんな能力や経験があり、どんなことがやりたいのか。これらの「自己分析」的な問いに答えるメッセージを日々制作することによって、人々は自らの生を形式化して他者が評価できるものへと変換すると同時に、形式化を通じて明示される自己の意図や姿形に基づいて自らの生を遂行する責任を負うようになる。

 このように、多様性を促進する標準的媒体を通じて規範的多様性の矛盾を緩和する手法は、特定の規範に基づいて多様性を抑制するものではない。むしろそれは、多様性の促進を通じて相互に異質な存在となっていく人々、断片化されたバラバラな世界を、形式化された単一の媒体によってつないでいく。そこにおいて、私たちの生に新たな自由がもたらされていることは否定できないだろう。同質性の強制を逃れて皆が個性を追求することが称揚され、恣意的な価値観に基づく多様性の抑制は糾弾され、集合的な評価を通じて「良い/悪い」が変化する余地も認められる。異文化理解に基づく人類学的な相対化も、以前のように規範的同質性へのカウンターというよりも、多様な考え方や生き方を可能にするアップデート・ツールとして歓迎されつつある[松村圭一郎・コクヨ野外学習センター編 二〇二一『働くことの人類学【活字版】仕事と自由をめぐる8つの対話』 、黒鳥社:二三二]。

 その一方、私たちの生は、多様性を促進する標準的媒体を通じて再構成されることで新たな不自由を獲得してもいる。思い思いの服装や乗り物で街を駆け抜けるUber Eats の配達員には、既存の出前サービスのような画一的な服装や接客態度は要求されないが、アプリを介した店舗とユーザーからの集合的な評価によって一定の品質維持が動機づけられる。より多くの「いいね」がもらえるように自分の行為や思考をデザインし、誰かにとって「悪い」とみなされるリスクを伴う選択肢を回避することで、個々の行為や思考は形式的に把握・制御されうるものとなり、結果的に多様性の暴発が抑えられる。標準から外れる人々を一括りに異常者や狂人とみなすことは忌避されるようになった代わりに、個々の多様な生は、「LGBTQ…」のような細分化された形式的カテゴリーによって識別される。私たちは、個々人の「本当にやりたいこと」や「自分らしさ」の多様なあり方を拠点にして全体の秩序が形成されていくプロセス、いわば「多様性による統治」の対象者であり遂行者なのである。

 規範的多様性の進展に対して、本書で主に検討するポストモダン以降の人類学的思考の軌跡は、少なからず異なる思考の可能性を示している。ポストモダニズムの導入によって提起されたのは、世界各地の文化/社会をその内側から記述・分析することで人類の多様なあり方を解明するとされてきた人類学者の著作(民族誌)は、事実の客観的な描写ではなく、近代西洋と現地社会との非対称的な関係のなかで異文化の表象を特定の仕方で構築するテクストなのではないか、という問いであった。ポストモダン人類学が、民族誌を通して歪んだ異文化表象が生みだされる状況を民族誌自体において批判し是正しようとする試みであったとすれば、ポストモダン以後に前面化したのは、異文化理解に伴う歪みを人類学的言明がうみだすポジティヴな効果の源泉として捉える発想であった。そこでは、研究対象となる異文化における実践や思考と、民族誌の筆者と読者が前提とする近代的な実践や思考とを、どちらの枠組にも還元することなく接続することが試みられる。こうした試みが、本書では、多様性による統治が活用する所与の基準や共通の媒体に依拠せずに内在的に多様性を捉えうる思考の道筋として提示されることになる。

 本書の目的は、二〇世紀後半から現在までの文化・社会人類学の軌跡、とりわけポストモダン人類学から存在論的転回にいたる主な人類学者の議論を、多様性についての内在的な批判として提示することである。ここで言う「批判」とは、多様性を否定して同質性に回帰することを意味するものではなく、カントが「理性」に対して、あるいはむしろニーチェが「道徳」に対して行ったように[cf. ドゥルーズ、ジル 二〇〇八『ニーチェと哲学』江川隆男訳、河出文庫:一七四〜一九〇]、私たちにとって「多様性」とはいかなるものであり、いかなるものでありうるかについて思考し記述することを意味する。

 「多様性」は人類学において頻繁に用いられる言葉ではない。だが、この学問が一九世紀に誕生して以来、人間の営みがいかに多様なものであるかを具体的に描きだし、人類の多様性とはいかなるものでありうるのかを論理的に思考してきたという点では、人類学はそもそも多様性批判の学だといえるだろう。ただし、そうした探求の大半は、何らかの普遍性を認められた、多様性に外在する(人々の多様な生の外側にある)基準に基づいて多様性を捉えるものであった。これに対して、普遍的な基準という前提が多方面から突き崩された二〇世紀末以降の学問的状況において、人類の多様なあり方を内側から捉えようとしてきた人類学者たちの営みは、内在的な多様性批判として位置づけられる。つまり、「内在的多様性批判」という書名が示しているのは「何らかの共通項によって多様性を統制すべきだとする規範的な発想をとらなければ私たちはいかに思考することができるのか?」という問いを探求する知として現代人類学の議論を一般に提示する試みであり、同時に、そのような現代的な問いへの対峙を通じて人類学的思考を練りなおす試みである。

 次章からは、まず二〇世紀末のポストモダン人類学にいたる人類学的思考の軌跡を辿りなおしたうえで(第1章・第2章)、ポストモダン後の人類学的思考における主要な論点に関わる人類学者の議論を二人一組で検討する。ポストモダニズムの乗り越えをめぐるブルーノ(ブリュノ)・ラトゥールとマリリン・ストラザーンの議論(第3章)、創作としての文化という発想をめぐるクリフォード・ギアツとロイ・ワグナーの議論(第4章)、関係としての社会という発想をめぐるアルフレッド・ジェルとストラザーンの議論(第5章)、文化と自然の二項対立をめぐるフィリップ・デスコラとエドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロの議論(第6章)である。第7章では、前章までの考察を踏まえて二一世紀初頭に提唱された「存在論的転回」とよばれる学問的潮流について再考する。

 存在論的転回とは、その提唱者たちが独力で提示した方法論ではなく、ストラザーンやワグナーやヴィヴェイロス・デ・カストロらが展開してきた議論を、後続世代の研究者たちが人類学史上の「静かな革命」として回顧的に評価し、新たな方法論にまとめあげたものである。本書では、この三者の議論を類似と差異を伴う他の論者の議論とセットにしながら捉えなおすことで、学説史的な先行研究読解としての存在論的転回をやりなおし、内在的多様性批判として再構成することが試みられる。人類学内部の観点にそって言えば、本書は、ポストモダン人類学から存在論的転回にいたる軌跡を、「転回」の提唱者たちが提示した視座[Henare, Amiria, Martin Holbraad and Sari Wastell 2007 “Introduction” In Thinking Through Things: Theorising artefacts ethnographically. edited by Amiria Henare, Martin Holbraad and Sari Wastell, pp. 1̶31. Routledge., Holbraad, Martin & Morten Axel Pedersen 2009 Planet M: The Intense Abstraction of Marilyn Strathern. Anthropological Theory. 9(4): 371̶394. 2017 The Ontological Turn: An Anthropological Exposition. Cambridge University Press]とは異なる仕方で、より豊かな可能性に満ちた流動的な学問的地層として捉えなおす試みである。

 この世界は多様であり、多様であるべきだ。このように言えば否定すべきことは何もないように思えるだろう。だが、それはこの世界がバラバラであり矛盾や対立に満ちているということに他ならない、と言いかえれば、とたんに雲行きがあやしくなる。バラバラな世界をまとめてくれる客観的な知識や倫理的な基準が欲しくなるし、そうした多様性に外在する共通項が存在する限りにおいて多様性を肯定できるように思えてくる。私はそのような発想を否定するつもりはない。だが、互いに嚙みあわない枠組に依拠する諸存在が互いにすれ違いながらも関わりあう営みを捉えうる手立てを練ることもまた必要ではないだろうか。本書で探求されるのは、私たちが生きるこのバラバラな世界をバラバラなままつなぐための基礎となりうる思考の道筋であり、その困難とその可能性である。

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書名:内在的多様性批判――ポストモダン人類学から存在論的転回へ
著者:久保明教
発行:作品社
造本:四六判上製 328ページ
定価: 2,700円+税
ISBN:978-4-86793-098-4
Cコード:C0010
取次搬入:2025年5月20日

「みんなちがって、みんないい」とは、いかなることでありうるのか?
最注目の俊英による人類学的考察。

■國分功一郎(哲学者)
「かつて、多くの者たちがその問いについて悩んでいた。だが、あきらめずに最後まで考えようとする者は少なかった。いま、あきらめずに考え続けた者たちからの贈りものがここに一冊の書物として現れる。現代の隘路から決して目をそらさなかった著者による渾身の一冊。」

■松村圭一郎(人類学者)
「文化相対主義は、なぜ人類学のテーゼではなくなったのか? 人類の多様性という視点に潜む矛盾はどう克服できるのか? 本書は、ポストモダン人類学から存在論的転回までの歩みを独自に転回しなおすことで、人類学者自身も言語化してこなかった難問に挑む。現代人類学がたどりついた理論的地平の最前線がここにある。」

 SNSを中心に多様性の尊重が規範化された現代社会で、私たちは「多様性による統治」という新たな不自由を獲得しつつある――バラバラな世界をバラバラなまま繋げるための思考はどのように可能なのだろうか?
 多様性批判の学として人類学を捉え直し、二〇世紀末からポストモダン人類学にいたる軌跡をたどり、二一世紀に提唱された存在論的転回までの学問的潮流を再考したうえで、「転回」のやりなおしとして「内在的多様性批判」を提示し、私たちにとって多様性というものがいかなるものであり、いかなるものでありうるかを思考する。

【目次】
序論 このバラバラな世界をバラバラなままつなぐために
第1章 「彼ら」の誕生
第2章 「私たち」の危機
第3章 ポストモダンを超えて――ラトゥール×ストラザーン
第4章 創作としての文化――ギアツ×ワグナー
第5章 関係としての社会――ジェル×ストラザーン
第6章 多なる自然――デスコラ×ヴィヴェイロス・デ・カストロ
第7章 「転回」をやりなおす
あとがき
注/参照文献/索引

【著者略歴】
久保 明教(くぼ・あきのり)
1978年生まれ。一橋大学社会学研究科教授。大阪大学大学院人間科学研究科単位取得退学、博士(人間科学)。主な著書に、『現実批判の人類学――新世代のエスノグラフィへ』(世界思想社、分担執筆、2011年)、『ロボットの人類学――二〇世紀日本の機械と人間』(世界思想社、2015年)、『機械カニバリズム――人間なきあとの人類学へ』(講談社、2018年)、『ブルーノ・ラトゥールの取説――アクターネットワーク論から存在様態探求へ』(月曜社、2019年)、『「家庭料理」という戦場―――暮らしはデザインできるか?』(コトニ社、2020年)など。