頭がいいってなんだろう?
みなさん、こんにちは、さきです。
この記事には、僕のこれまでの人生経験についてまとめました。
この記事の内容が多くの人に共感してもらえるものかどうかは、よくわかりません。
僕がこれまでの人生で何かとてつもない発見をしたとか、悟りを開いたとか、そんな大層なことはありません。
なので、何を伝えられるのか、正直言ってわかりません。
ですが、この記事を読んだ人に何か伝わってほしい、きっと何かが伝わるに違いないと思い、この記事を書きました。
この記事は、全体のおよそ70%が「無料記事」です。
残りの30%を「有料記事」としています。
「無料記事」の部分を書くのに手を抜くようなことはしていません。
最初から最後まで全力で、すべて自分の本音を書いたつもりです。
もし「無料記事」の部分を読んで「続きが読みたい」と感じた方がいたら、「有料記事」の部分を読んでもらえれば幸いです。
僕は子どものころ、周りから頭がいいと褒められて育った。
でも、頭がいいってなんだろう?
勉強がよくできて、試験で良い点数を取れれば、頭がいいのだろうか?
頭が良ければ、いい高校、いい大学に進学できて、いい会社に就職できる?
いい会社で仕事をしていれば、お給料をたくさんもらえて、幸せになれる?
本当にそうだろうか?
保育園
しっかり記憶が残っているのは、保育園に入園した日のことだ。
部屋に入って名前を名乗った途端、だれかが僕の名前をもじってあだ名を付けた。
古くからの友人は、今でも僕をそのあだ名で呼ぶことが多い。
別に僕のことを馬鹿にしたような、嫌なあだ名ではない。
僕に対する親しみを込めて、あだ名で呼んでくれているのだと思っている。
僕は、気が弱く、運動が苦手、そんな子どもだった。
保育士さんに怒られると泣く。
他の子どもにいたずらされると泣く。
何かあると、すぐに泣く。
足が遅く、徒競走ではいつもビリだった。
体を動かすこと自体が苦手で、何をやっても下手くそだった。
自分に自信が持てなかった。
その一方で、自分の思ったことはすぐ口に出して言う。
周りにどう思われるかなんて気にすることなく、自己主張する癖はこのころからあったと思う。
ひとつ、はっきり覚えている出来事がある。
年長のとき曾祖母に算数を教わったことだ。
2桁の数字同士の足し算と引き算をひっ算で計算するやり方だった。
2桁の数字の計算は、本来小学生になってから教わる内容で、保育園児にはまだ難しいもののはずだったが、曾祖母に教わった僕はすぐに正しく計算できるようになった。
これは少しだけ自信になった。
後に算数や数学が得意になったのは、このとき曾祖母にきっかけを与えてもらったおかげだと、今でも信じている。
小学校
やがて、保育園を卒園して小学校に入学した。
保育園児のころから薄々感じていたが、小学生になってはっきり分かったことがあった。
小学生男子の世界は、気が強くて運動が得意なやつの天下である。
逆に、気が弱くて運動が苦手な僕は、最底辺だった。
常にいじめを受けていたというわけではないが、少しいたずらされるだけですぐに泣く僕のことを、馬鹿にしてくるやつは何人もいた。
僕にはいくつかトラウマがある。
僕はドッジボールという競技が嫌いだ。
突然2つのチームに分けられて、ボールという凶器を与えられ、相手チームを全員殺害したほうが勝ちだと言われる。
意味不明である。
死にたくなければ、飛んできたボールをキャッチすればいいという。
しかし、もし上手くキャッチできたとしても、ボールが直撃することには違いがない。
怖い。
痛い。
気の弱い僕にとって、意味もなく戦えと命じられることが受け入れられなかった。
あんな野蛮な競技を、教育の現場でやらせること自体がおかしい。
僕は今でもそう思っている。
僕はフルーツバスケットという遊びが嫌いだ。
ルールなどどうでもいいが、敗者が罰ゲームとして、ひとりで歌わされるという仕組みがだめだ。
気の弱い僕にとって、人前でひとりで歌うなんて恥ずかしくて仕方のないことだった。
負けて歌わされている敗者を見て、笑っているやつがいた。
笑って見ている神経が、僕にはわからない。
次に負けるのは自分かもしれないのに、なぜ笑っていられるのか。
そもそも罰ゲームなんて、敗者が一方的に損をして、勝者は何も得をしないではないか。
もしも、敗者を馬鹿にして嘲笑することが勝者に与えられる権利なのだとしたら、そんな差別を助長するような遊びを、教育の現場でやらせること自体がおかしい。
僕は今でもそう思っている。
トラウマの話はこのくらいにして、元の話に戻ろう。
保育園と小学校の一番の違いは、授業を受けて何かを習うことだ。
運動の苦手な僕が、体育の授業で散々な目に遭ったことは説明するまでもないだろう。
だが、座学の授業、つまり国語、算数、理科、社会の4教科は苦手ではないことに気付いた。
そして、上の学年に進むにつれて、座学の授業はどんどん得意になっていった。
「あいつ、もしかして頭がいいんじゃないか」と周りから思われるようになった。
僕は少し自信が持てるようになった。
また、いたずらされて泣いてばかりという状況にも、変化があった。
馬鹿にされたら、怒ってやり返すようになった。
怒ってやり返そうとすると必ず涙が出てきたので、泣いていたことに変わりはなかったが。
「馬鹿にされたからって、手を出すのは良くない」などと教師に言われたことがあったが、精神的に傷付けてくるやつには、物理的に反撃しても許される。
それは正当防衛だと、僕は思っていた。
あるとき、気が強くて運動が得意なやつのひとりが、僕のことを馬鹿にしてきて、つかみ合いのけんかになったことがあった。
僕はいつも通り泣きながら戦っていたが、けんかが終わった後、なんと相手のほうも泣き始めた。
正直、驚いた。
「馬鹿にするな」という僕の気迫に恐れおののいたのだろう。
僕としては、してやったりだった。
人のことを馬鹿にするからこういう目に遭うんだ。
小学校を卒業するころには、僕は気が弱くてすぐに泣くだけの子どもではなくなっていた。
中学校
中学校に進学すると、世界が変わった。
そこは、座学が得意で、試験で良い点数を取れる生徒が高く評価される世界だった。
中学校の座学、つまり国語、数学、理科、社会、英語の5教科の授業は、小学校の授業よりもぐんと難しくなった。
難しくなったことによって、はっきりと差があらわれた。
入学して初めての定期試験、中学1年1学期の中間試験の結果、僕は成績上位10%を意味する「1段階」に入った。
周りの友人たち、そして家族にも驚かれた。
「もしかして頭がいいんじゃないか」という評価が、「あいつは間違いなく頭がいい」という評価に変わった。
小学校低学年のころ最底辺にいると思っていた僕は、気が付いたらすごく上のほうまで昇ってきていた。
あるとき、同じクラスのひとりの女子との仲を噂されることがあった。
小学校高学年のとき、女子にモテるのは主に運動が得意な男子だったのだが、中学校ではその評価基準も変わるらしい。
まさか僕が女子との仲を噂されるとは思ってもいなかった。
ただ、残念なことに、僕の初恋の相手は噂になったその女子ではなく、その女子と同じグループの別の女子だった。
そして、その初恋の相手には、中学1年の3学期に告白したが、やんわり断られたのだった。
時系列が若干前後するが、部活はソフトテニス部に入った。
もともと運動が苦手なので、残念ながら、他校との試合や大会などで良い結果は出せなかった。
ただ、部活で日々運動して体を鍛えていた成果は、中学2年の冬に行われたマラソン大会で発揮された。
同学年の男子が100人以上いる中で、なんと33位に入ったのだ。
全体の上位3分の1に入れるとは、夢にも思っていなかった。
僕の人生の中で、肉体的に最も充実していたのは、間違いなくこのときだったと思う。
また、こちらも時系列が前後するのだが、中学1年の後半に、僕はクラスの副室長に選ばれてしまった。
立候補はしていない。
室長には女子がひとり立候補して順当に当選が決まり、室長が女子なら副室長は男子だという話になった。
そして、成績が優秀な生徒こそ副室長に適任だと、クラス中から推薦されてしまった。
「僕には向いていないのでなりません」と断固辞退したが、結局は教師に「みんなが推薦してくれてるから、すまないが受けてくれ」と押し切られた。
「成績が優秀な生徒がリーダーに向いている」という説は間違っている。
ある日、何の教科だったか忘れたが、担当の教師の都合が悪くなり、授業ができないため、1時間自習になった。
僕は黙々と自習に勤しみ、1時間を過ごした。
だが、その時間、クラスの中で大声を出して騒いでいた生徒が何人かいた、らしい。
それに対して、隣の教室で授業をしていた教師が怒り、僕と室長が職員室の担任教師のところに呼び出されることになった。
「騒いでいる生徒がいたのに、どうして君たちが注意しなかったんだ」と怒られた。
室長は反省して謝罪していたが、僕は内心こう思っていた。
「僕は自習に集中してたから、騒いでいる生徒がいたなんて知らないしな」
僕はこういう人間である。
周りのことなど知らない。
また、中学2年のとき、理科の授業でこんなことがあった。
担当の教師が二択問題を出題した。
「面積が大きくて、深さが2mのプールAと、面積が小さくて、深さが2mのプールBがある。プールの底にある栓を抜いたとき、吹き出す水の勢いが強いのはどちらのプールか」
「プールAだと思う人は挙手」と教師が言うと、僕以外の全員が手を挙げた。
次に「プールBだと思う人は挙手」と教師が言うと、だれも手を挙げなかった。
最後に「どちらも同じだと思う人は挙手」と教師が言ったので、僕だけが手を挙げた。
この二択問題は簡単だった。
直前の授業の中で「水圧は水の深さに比例して高くなる」と習っていたのだ。
だから、面積は関係なく、深さがどちらも2mならば、吹き出す水の勢いは同じなのである。
僕の口からその説明を聞いて、全員が納得した。
ひとりだけ正解してすごいという話ではない。
自分以外の全員がAだと答えているのに、まったく気にせず自分だけ違う答えを選択する。
僕には協調性がないという話である。
僕の武勇伝?はこのくらいにして、定期試験の話に戻ろう。
中学1年1学期の中間試験の後も、僕は定期試験でずっと「1段階」に入り続けた。
僕の通っていた中学校では、個人の順位までは発表していなかったが、いつも上位に入る僕に、やがて教師のほうから教えてくれるようになった。
「今回はトップ10に入った」
「惜しくも2位だった」
「今回は学年1位だったぞ」
父や祖父は特に喜んでくれて、試験でいい結果を出すたびに、ご褒美として外食に行っておいしいものを食べさせてくれた。
僕は自分のことが誇らしく思えるようになった。
だが、困ったこともあった。
性格が神経質すぎた。
小さな事が気になっていらいらするなんて日常茶飯事である。
夜、布団に入ってもなかなか眠れないことがよくあった。
翌朝まで一睡もできないなんてことはなかったが、睡眠不足で昼間学校で気分が悪くなることが何度もあった。
このような傾向はこれから先も続き、徐々に酷くなっていく。
やがて中学3年になり、高校受験が近づいてきた。
進路に悩むことはなかった。
地域で一番の公立の進学校に進学すればいい。
受験勉強というほど特別なことはしなかったが、とにかく勉強を順調にこなしていった。
年が明けて、まずは滑り止め、私立の男子高の特進クラスの入試を受けた。
問題なく合格した。
合格しただけでなく、試験の結果がとても良かったらしく、「特別に入学費を免除するので、ぜひ我が校に入学してください」という連絡が来た。
僕の本命は公立の進学校だと決めていたので、もちろん断った。
だが、このとき祖父がとても喜んで、周りの人に孫自慢をしていたと、あとで聞いた。
そんなにも祖父が喜んでくれたことが、とてもうれしかった。
次も滑り止め、私立高校の上級クラスの入試を受けた。
こちらも合格した。
本当は中高一貫の6年制クラスへ途中から編入するという、さらに上の選択肢もあったのだが、合格できたとしても入学してからが大変そうだと思ってそちらは受験しなかった。
滑り止めの準備は整った。
さあ、本命の公立高校の入試よ、かかってこい。
すでに準備は万端だったが、肝心の入試当日まで1か月近く時間があった。
これが問題だった。
ここまで、趣味の話を一切してこなかったが、当時の僕の趣味はテレビゲームをプレイすることだった。
特にRPGが好きだったのだが、とある大作RPGがちょうどその年の1月末に発売されていた。
ゲームソフトは買ったが、そのソフトを動かすためのゲーム機本体をまだ持っていなかった。
受験生の身でゲームに熱中するなど言語道断である。
高校入試が終わったらゲーム機本体を買っていいというのが、両親の取り決めだった。
入試まで残り1か月、すでに受験勉強はやり尽くしていた。
早く大作RPGをプレイしたいという本心と、それを阻む入試の壁。
揺れ動いた僕の精神は不調をきたし、夜眠ろうとしても眠れない。
僕は、不調が不調を呼ぶ負の螺旋に陥った。
1か月耐え抜いた。
不眠の日々を耐え抜いて迎えた入試当日は、緊張感のおかげか眠気は感じず、十分な集中力があった。
試験を受けてみて、手応えは十分だった。
全力を尽くしたのだから、あとは勝手に結果がついてくる。
帰りにゲームショップへ行った。
試験中ずっと、制服の内ポケットに忍ばせていた財布をからお金を取り出して、待望のゲーム機本体を購入した。
これで明日から、大作RPGを遊び放題だ。
ずっと楽しみにしていた大作RPGは期待を上回る面白さで、春休みの間存分に堪能した。
このときのことは、とても楽しかった思い出として、今でも僕の記憶に刻まれている。
試験を受けてから10日ほどが経って、結果発表を見に行った。
僕の受験番号はもちろん掲示板に記されていた。
僕は、地域で一番の公立の進学校、その特別進学コースに合格した。
高校
春休みが明け、高校に入学した。
当然のことだが、そこは中学校とはまったく違う世界だった。
僕と同じように、各中学校で成績上位だった精鋭の生徒たちが集まっているのだ。
僕は座学は得意だが、運動は苦手だ。
しかし、周りには座学が得意な上に運動もできるという生徒がごろごろいた。
なんだこいつらは?
欠点のない超人なのか?
これからは、そんなやつらを相手に戦わなければならない。
授業の内容は、中学校より格段に難しくなった。
僕は今まで以上に努力するようになった。
特に数学の勉強に力を入れた。
数学の授業では、1冊の問題集が与えられた。
その問題集の中で試験範囲に含まれるすべての問題を解いて、書いたノートを定期試験当日に提出しなければいけないという決まりだった。
試験直前になってから試験範囲に含まれる問題を解き始めたのでは、きっと時間が足りない。
僕は、その日の数学の授業で習って解けるようになった問題は、その日のうちに解いてしまうことにした。
月曜日から土曜日までは、帰宅したら夜まで勉強をする。
日曜日だけは、休養日としてテレビゲームで遊んでもいい。
そういう制約を自らに課して、メリハリを付けることによって、意欲を高めた。
PCを使ってプログラミングをするという名目の部活に入ったが、活動にはほとんど参加しなかった。
授業が終わると、まっすぐ帰宅して勉強をする。
僕は帰宅部のエースだ、などと冗談半分で思っていた。
実際、帰宅のリアルタイムアタックをやっていた。
たった一度だけ、理論上最短の記録を達成することができた。
6限目が担任教師の授業で、15時10分にチャイムが鳴ってすぐ帰りのホームルームが始まった。
連絡事項は特になく、すぐに解散となった。
僕は荷物をまとめて走り出した。
高校から最寄りの駅までは歩いて数分の距離しかない。
15時19分発の急行電車に飛び乗った。
5分後の15時24分に、乗り換えの駅に到着する。
2分以内に乗り換えて、15時26分発の電車に間に合った。
そこから電車で20分、降りて自転車で15分ちょっとかかって、家に到着したのが16時過ぎだった。
これが最短記録である。
中学校のときのように、定期試験で学年1位を争うなんてことはもはや不可能だった。
周りに優秀なやつらが多すぎる。
特別進学コースの2クラスの中で、成績の上位30%には入れていただろうか?
悪くても上位50%には入っていただろう。
その程度だった。
だが、あるとき、衝撃の事実を知ってしまった。
僕は、与えられた自由時間10のうち、8から9を勉強に費やし、残りの1から2でテレビゲームを楽しんでいた。
しかし、周りの生徒の中には、与えられた自由時間のうち勉強に費やすのは半分以下で、残りの半分以上を遊んで過ごしているようなやつがいたのだ。
昨日はテレビゲームに熱中して徹夜してしまった、とか。
週末は友人たちと集まってカラオケに行って楽しかった、とか。
そんなことを言いながら、いざ試験になると僕と同じか、あるいは僕よりもいい点数を取っているのだ。
こいつらはいったいなんなんだ?
やっていることの効率が違いすぎる。
こんなやつらと同じ土俵では戦えない。
こいつらのようなやり方は真似できない。
僕はあくまで自分のやり方を貫いて結果を出していこう。
そう固く決意した。
定期試験の前になると、毎日夜遅くまで勉強していて、昼間学校で眠そうにしている生徒がたくさんいた。
一方、僕は試験直前になって焦らなくてもいいように、普段から毎日こつこつ勉強していたので、試験勉強のために夜更かしなんてしなかった。
試験当日、「昨日も遅くまで勉強していたから眠い」という友人に、「僕は23時には寝たけどな」と言ったら驚かれた。
規則正しい生活をすることによって、最大の力を発揮する。
これが僕のやり方だ。
しかし、性格が神経質すぎる問題は、高校に入ってさらに悪化していた。
いつもいらいらして焦っていた。
夜、数学の難しい問題を解き終えて「よし、寝よう」と布団に入っても、さっきまで解いていた問題の内容が頭の中でぐるぐる回って眠れない、なんてこともあった。
上手く切り換えられない。
集中力は自分の最大の武器だと思うようになっていたが、集中のスイッチを一度オンにすると、自分の意志でオフにできない。
神経質な上に不器用。
優秀だが、実に扱いづらい。
自分はそういう人間なのだと認識するようになった。
趣味のテレビゲームは、ほとんどRPGばかりやっていた。
RPGの世界観、登場人物、物語が大好きだった。
そんな僕に、あるとき悪友が新しいジャンルのゲームを勧めてきた。
魅力的な女の子のキャラクターを前面に押し出したゲーム、いわゆるギャルゲーだ。
ゲームの内容としては、キャラクターを育てて楽しむ育成ゲームや、物語を楽しむノベルゲームがあったが、いずれもかわいい女の子と仲良くなるというものだ。
自分にはそういう素養があるのではないかと薄々感じてはいたが、実際に触れてみたら見事にハマった。
このとき僕は、RPG好きのゲーマーからオタクにジョブチェンジしたのだ。
これが僕のその後の進路に大きく影響してくる。
突然暗い話になってしまうのだが、高校2年の12月初めに祖父が亡くなった。
夏休みごろまでは元気にしていたのだが、2学期に入ってすぐ病院で受けた検査でがんが見つかったらしい。
しかも、すでにかなり進行していて、体のあちこちに転移しているとのことだった。
入院した祖父のところへ何度かお見舞いに行った。
しかし、入院した祖父が、生きて家に帰ってくることはなかった。
身近な人間が亡くなるというのは、初めての経験だった。
正直、実感がわかなかった。
出かけていった祖父がそのまま戻ってこなかった、そんなふうに感じた。
大好きで尊敬していた祖父が死んでしまったのに、僕は涙を流すこともなかった。
ただ、葬儀のとき、最後にお棺のふたを閉じる直前になって、祖母が大きな声を上げて泣いたことは今でもはっきり覚えている。
大切な人が死んでしまうのは、とても悲しいことなのだと知った。
ここで、祖父のことについて、少し詳しく語りたい。
実は、祖父は広島の原爆投下を体験している。
僕の家があるのは広島ではないし、祖父が広島出身だというわけでもない。
祖父は、兵隊として広島に配属されていたのだ。
少年だった祖父は、こう考えたそうだ。
戦争が始まって、自分が徴兵されるのは時間の問題だ。
でも、徴兵されてただの兵士としてこき使われるのは御免だ。
そこで、祖父は東京にあった「通信兵」を育成する学校を受験した。
通信の技術を扱える優秀な兵士を育成する学校、その狭き門を見事突破して合格したのだ。
僕の頭がいいのは、祖父から父へ、父から僕へと、その優秀な頭脳が遺伝したからに違いないと思っている。
祖父に兵士としての階級を聞いたことはないが、部下を持つ上官だったらしい。
原爆投下の当日朝、祖父は部下を引き連れて、防空壕の中で奥を掘り進める作業をしていた。
そこへ外から凄まじい爆音が響いた。
慌てて防空壕の外へ飛び出してみると、広島の街が壊滅していた。
その後、祖父は状況を確認するため、広島の街中を歩き回ったそうだ。
地獄のような光景だったに違いない。
おびただしい数の人が死んでいるのを見たと言っていた。
だが、原爆投下直後に広島の街中を歩き回ったにもかかわらず、放射線の影響で健康を害するということは、幸いにもなかったようだ。
最後はがんになって亡くなったが、それが原爆の放射線の影響だったとは考えにくい。
戦争が終わって、祖父は祖母と結婚し、父が生まれ、後に僕が生まれることになった。
もしも広島で祖父の身に何かあったら、僕が生まれてくることはなかったのである。
僕の高校生活の話に戻ろう。
やがて高校3年になり、僕は受験生になった。
高校受験のときとは違い、僕は進路に悩んだ。
数学が得意で好きだったので、高校2年に上がるとき理系を選択していた。
また、プログラミングでソフトウェアを開発する仕事に興味を持っていたので、工学部の情報工学を学べる学科に進みたいと思っていた。
すでに方向性は決まっていたのだ。
だが、大きな問題点が3つあった。
1つ目は、一定レベル以上の大学は、高校で習った知識だけでは解けない問題を入試で出題する、ということだ。
このことは、入試の過去問を見て知っていた。
そして、当時の僕の学力は、その一定レベル以上の大学をぎりぎり狙える程度であった。
狙えるなら狙うべきであり、それより下のレベルの大学を受験するのは弱気である、という圧力を両親から感じていた。
だが、高校で習った知識だけでは解けない問題が解けるようなるほど勉強する意欲は、僕にはなかった。
2つ目は、小論文を書くのがものすごく苦手だということだ。
小論文とは、与えられたテーマに対して自分の意見や主張を論理的に述べる文章のことである。
だが、当時の僕は、自分の興味があるものにしか興味を示さず、「自分の考えを述べよと言われても、そのテーマに興味がないから何も思い浮かばない」という状態だった。
同様の理由で、面接試験も苦手だと思っていた。
そして、国立大学の後期日程では、主に小論文や面接の試験が行われるのだ。
したがって、前期日程で一定レベル以上の大学を受験すると、高校で習った知識だけでは解けない問題が解けなくて不合格になり、続いて後期日程で小論文や面接の試験を受けるとこちらも不合格になる、という結果が目に見えていた。
そうなると、自動的に私立大学へ進学することになってしまう。
それに、3つ目の、どこの地域にある大学に進学するかの選択肢が広いという問題点もあった。
生前に祖父は「関東や関西の大学に行く必要はない」と言っていた。
つまり、それは隣りの県の国立大学に進学すればいいという意味だった。
隣りの県の国立大学は一定レベル以上の大学ではなかったので、そこを受験すれば前期日程で合格できそうだ、という自信はあった。
だが、一定レベル以上の大学を狙えるなら狙うべきだという圧力のせいで、その選択は取りにくい。
結局、志望する大学を決めきれないまま、受験生としての1年を過ごすことになった。
高校の授業で習う内容についてはしっかり勉強し、努力を怠ることはなかった。
ただ、受験勉強として特別に努力をすることはなかった。
やはり高校で習った知識だけでは解けない問題を解けるようになりたいとは思わなかったのだ。
それにしても、僕の高校生活3年間は、単に大学受験の準備をするための期間だったと思う。
青春時代真っ只中の華々しい高校生活など、僕には縁がなかった。
がむしゃらに勉強をして、残りの時間でテレビゲームをする。
本当にそれだけだった。
1学期の中間試験が終わったころ、僕をオタクの道に引きずり込んだ悪友が、僕の家に泊まりで遊びに来た。
悪友は1本のノベルゲームを持ってきていた。
僕はそのゲームのことを知っていた。
毎号買っていたゲーム雑誌で紹介されていて、キャラクターの絵柄がかわいく、気になっていたゲームだった。
悪友曰く、このゲームはめちゃくちゃ面白いからおすすめだ、とのことだった。
後日、僕もそのゲームを買った。
プレイしてみたが、悪友の言う通りめちゃくちゃ面白かった。
面白い上に、すごく感動する物語だった。
ユーザーを感動させて大泣きさせるノベルゲームが大流行した時期があったが、その先駆けとなったゲームのひとつだった。
このゲームとの出会いが、僕の進路を決定付けた。
漫画やアニメ、ゲームなどの二次創作の本、同人誌というものがある。
悪友に勧められたギャルゲーや今回のノベルゲームの同人誌も、世間ではもちろんたくさん描かれている。
そして、東京では、描いた本人が同人誌を販売する同人誌即売会というイベントが開催されている。
関東に進学すれば、東京へ行って、同人誌即売会で好きなゲームの同人誌がたくさん買える。
これで僕は関東への進学を決断した。
情報収集を進めた結果、関東のとある国立大学が後期日程で学科試験を行っていることが分かった。
しかも、その大学は一定レベル以上の大学ではなかった。
僕の中で、本命の志望大学がそこに決まった。
僕の立てた計画はこうだ。
まず、前期日程で関東にある一定レベル以上の大学をダメ元で受験することによって、狙えるなら狙うべきだという両親からの圧力を相殺する。
そして、後期日程で志望大学の学科試験に合格すれば、晴れて関東への進学が達成できる。
もちろん、滑り止めとして、関東にある私立大学を受験することも決めた。
年が明けて、まずは1月中旬に、大学入試センター試験を受験した。
今後個別の大学を受験していくには十分な結果だった。
得意の数学では、2科目合計200点満点だった。
次に、2月上旬、関東の理系専門の私立大学の入試を受けた。
少しだけ不安もあったが、見事合格することができた。
これで少なくとも関東に進学できることが確定した。
その次は、2月中旬、関東の名門私立大学の入試を受けた。
こちらは試験問題が難しかった。
たぶんだめだろうなと思っていたが、やはり不合格だった。
そして、2月下旬の前期日程では、関東の理系専門の国立大学の入試を受けた。
ここは一定レベル以上の大学である。
予想通り、高校で習った知識だけでは解けない問題ばかりが出題され、手も足も出なかった。
当然、不合格だった。
最後に、3月中旬の後期日程では、本命の志望大学の入試を受けた。
試験の手応えはばっちりで、見事合格することができた。
ただ、後期日程の合格発表は3月下旬である。
4月までに入学の手続きをして、引っ越しもしなければならない。
ばたばたと忙しく過ごしたことを覚えている。
これで4月からは初めての一人暮らし。
家族に干渉されず、自由な生活を送れるんだと、期待に胸を膨らませていた。
しかし、これが大きな間違いだったと後に気付くのである。
大学
大学に入学して、アパートの部屋で一人暮らしする生活が始まった。
まずは、大学で講義を受ける仕組みに戸惑った。
高校までの授業は受けるものがあらかじめ決まっていたが、大学の講義はそうではない。
履修する講義を自分で選択して登録する必要があった。
履修した講義に出席してその内容を理解し、期末に受ける試験またはレポートの提出によって、単位が取得できるかどうかが決まる。
細かい仕組みを説明しようとするとややこしくなるが、最終的に大学3年の後期が終わった時点で、卒業するのに必要な単位のほとんどを取得していないと、4年に上がることができないということだった。
大学では、まず所属するサークルを探すことにした。
もともとの目的は、自分と同じような趣味を持つ仲間を探すことだった。
ここになら仲間がいそうだと目を付けたのがコンピュータサークルだった。
残念ながら、想像していたような仲間は見つけられなかった。
だが、代わりに、そのサークルには僕と同じ情報学科の新入生が何人もいて、一緒に講義を受けたり、一緒にお昼ごはんを食べたりする仲間を見つけることができた。
先述した講義の選択や単位の取得についての仕組みは、仲間たちと話して初めてきちんと理解できたのだった。
一方で、アパートでの一人暮らしは本当に大変だった。
家族に干渉されず自由に生活できるということは、言い換えれば家族に頼ることができないということだ。
食事は自分で料理して作り、食べ終えたら後片付けをする。
衣類を洗濯して干して乾いたら、自分でたたんで片付ける。
定期的に部屋のそうじをする必要もある。
だれにも干渉されない代わりに、自分で家事をすべてやらなければならない。
一人暮らしをして、自由を手に入れて初めて、家族のありがたみを感じた。
その代わりに、高校生のときと比べて、自由な時間は圧倒的に増えた。
平日はずっと勉強をして、週末だけテレビゲームで遊んでもいいなどという制約を課す必要はない。
昼間は大学へ行って講義を受け、終わったらアパートの部屋に帰ってきて、出された宿題をやったり、提出すべきレポートを書いたりする。
それさえやっていれば、残りの時間は自由であり、毎日のようにテレビゲームで遊ぶことができた。
また、一人暮らしを始めてすぐに、自分専用のPCを買った。
高校生のときも家にPCはあったのだが、あくまで家族共用のものだったので、自分で好きに使えるPCを持つのはこれが初めてだった。
このころのインターネットはダイヤルアップ接続だったので、ネット接続するのは基本的にテレホーダイが適用される23時以降だった。
23時から24時ごろまでネットサーフィンを楽しんでから布団に入る。
それが生活のリズムになっていた。
毎月、実家からは十分な額の仕送りがあった。
そこから部屋の家賃や光熱費を払う。
外食はほとんどせず、近くのスーパーで食材を買って自分で料理することによって、食費を極力切り詰めた。
欲しいものがあって買うことはもちろんあったが、あまり大きな金額の買い物はしなかった。
アルバイトをしたことは一度もなかった。
それでも、貯金が毎月徐々に増えていった。
大学生活を送る上で、仲間の存在はとても心強かった。
履修する講義を相談して決めたり、一緒に講義を受けたり、試験前になると協力して試験対策の勉強をしたりした。
僕はかなりの変わり者だったと思うが、その個性的なところが気に入られたのか、仲間たちには随分とかわいがってもらった。
コンピュータサークルに所属したことも大きかった。
サークルの部室には、同じ学科を卒業していった先輩たちが残した過去レポ(提出するレポートを事前にコピーしたもの)がたくさんあったからだ。
この過去レポがなければ、実験の講義を乗り切ることは不可能だったと思う。
ここで、少し補足説明させてほしい。
僕が所属している学科を「情報学科」と先述したが、正確には情報工学の他に、電気、電子回路、通信など幅広い分野を学ぶ学科だった。
実験の講義では、それらの幅広い分野に関する様々な実験を行って、結果を計測する。
そして、理論的には結果がこうなるはずだという理論値と、計測した結果の間にどうして差が生じたのかを考察して、それをレポートに書くのだ。
レポートを提出すると、その場で担当の教授が中身を読んで、考察の内容が不十分ならレポートは返却され、書き直して再提出することを求められる。
考察の内容が十分であると判定されて初めて、レポートを受理してもらえる。
そして、複数ある実験のレポートをすべて受理してもらえると、それで単位取得となる。
なお、実験の講義はすべて必修であり、単位が取得できなければ、即留年が決定するという厳しいものだった。
一人暮らしを始めて、最初のころは自由な生活を満喫していた。
しかし、神経質な僕は、徐々に神経をすり減らしていった。
特に気になったのは、アパートの他の部屋から聞こえてくる他人の生活音だった。
僕は1階の部屋に住んでいたが、真上の部屋にどかどかと足音を立てて歩くような住人が引っ越してくると最悪だった。
夜眠ろうとしても、頭上から足音が聞こえてくると、気になって眠れない。
アパートの近くに小さな診療所があり、そこに通院して安定剤を処方してもらって飲むようになった。
そもそも僕には、アパートの部屋が自分のホームであると思えなかった。
あくまでも大学に通うための前線基地であり、実家こそがホームであると感じるようになった。
部屋の中だけが自分の陣地で、その外はすべて敵の陣地であり、外にいるのはみんな敵だと思っていた。
大学に行けば仲間がいるが、部屋に帰ってくれば、あとはひとりで自分の陣地を守らなければならない。
孤独感に苛まれた僕は、ホームである実家へ頻繁に帰省するようになった。
5月の大型連休に数日だけ帰省する。
8月から9月の夏休みは、帰省してずっと実家にいる。
年末から年明けまでの冬休みも、当然帰省する。
2月下旬から3月までの春休みも、帰省してずっと実家にいる。
実家にいるときだけ心が安らいだ。
休みに入って帰省するときは、すべての苦痛から解放される気分だった。
一方で休みの終わりが近づき、アパートに戻るときは、すさまじい絶望感に襲われた。
次に帰省するときまで、アパートの部屋でひとり孤独に戦わなければならない。
この経験は、その後何年も忘れられないトラウマとして、僕の心に深く刻まれた。
暗い話ばかりになってきたので、ここで話題を変えよう。
大学3年の8月、夏休みに入って少し経ったころ、初めてMMO-RPGというものをプレイした。
MMO-RPGとは、大勢のプレイヤーがネット上の仮想世界にアクセスし、自分の分身であるキャラクターを操作して遊ぶオンラインゲームのことである。
その年の初めごろから実施されていたβテストが一旦終了し、8月から新たにβ2テストが実施されるとのことだった。
βテストからプレイしていた友人たちに誘われて、僕もそのMMO-RPGをやってみることにした。
ちなみに、このとき最初に作ったキャラクターの名前の読みが「さき」だったことがきっかけで、僕は今でも「さき」と名乗っているのである。
誘ってくれた友人たちはみんな男性キャラクターを育てていた。
だが、ずっと操作して育てていくキャラクターは、かわいい女の子のほうがいいに決まっている。
そう思い、僕は女性キャラクターを育てることにした。
この考え方は、何か変だろうか?
これ以降、テレビゲームで遊ぶことはほとんどなくなり、PCでこのMMO-RPGをプレイするのが日常の一部になった。
また、これまでダイヤルアップ接続だったインターネット環境を、常時接続できるADSLに切り替えるきっかけにもなった。
やがてβ2テストは11月に終了し、12月からは正式サービスに移行した。
ゲームの中でたくさんの仲間たちと知り合い、一緒に世界中を冒険して絆を深めた。
このときのことは、今でも楽しい思い出としてよく覚えている。
そうこうしている間に、大学3年後期の終わりが近づいてきた。
最難関だった実験の講義では、同学年の学生の中で一番初めにすべてのレポートを受理してもらうことができた。
このことはちょっとした自慢である。
これで、大学4年に上がるために必要な単位はすべて取得できた。
大学4年になると研究室に配属され、そこで卒業研究を行うことになる。
希望する研究室を用紙に書いて提出することになっていたが、必ずしも希望した研究室に配属されるとは限らない。
大きな問題があった。
そもそも僕は情報工学を学びたくてこの学科に入った。
しかし、もし情報工学以外の、電気、電子回路、通信を専門とする研究室に配属されると、卒業研究として情報工学の研究ができなくなってしまうのだ。
情報工学を専門とする研究室をいくつか見学に行き、希望する研究室を決めて、用紙に書いて提出した。
あとは運を天に任せるしかなかった。
4月になり、配属される研究室が発表された。
結果は、第1希望に選んだ研究室ではなかったものの、情報工学を専門とする研究室に配属されることが決まった。
僕は胸を撫で下ろした。
このときもそうだったが、自分の力ではどうにもならず、運によって結果が左右される場面において、望んだ結果を得るということが何度もあった。
どうやら僕は、なかなかの強運の持ち主のようである。
配属された研究室の話に移る前に、触れておくべき話題がある。
就職活動のことである。
大学を卒業して新卒で就職するならば、大学4年のこの時期に就職活動をしなければならない。
いや、本来なら大学3年の終わりあたりから始めるべきだろう。
だが、僕は就職活動を一切していなかった。
大学院へ進学するつもりでいたのだ。
これは、大学院へ進学したいからではなかった。
本当の理由は、就職して仕事に就く心の準備ができていなかったからである。
今の自分は、MMO-RPGに夢中になっている、ただの学生だ。
会社に就職して働く自分の姿など、まったく想像できなかった。
大学院に進学して、修士課程の2年間で、仕事に就く心の準備をしよう。
そう思っていたのである。
さて、僕が配属されたのは、情報セキュリティを研究している研究室だった。
情報セキュリティとは、企業や組織が保有する情報資産を、サイバー攻撃や内部不正などから守ることである。
というのは、現代における情報セキュリティの説明である。
この説明ではかなり狭い分野に限定されてしまうが、当時は多種多様な研究テーマが存在した。
僕はこの研究室で卒業研究を行い、卒業論文を書くことになった。
また、8月下旬に行われる大学院の入学試験(院試)に備える必要もあった。
研究室には、僕と同じ大学4年の学生の他に、大学院修士課程の1年、2年、博士課程の1年、2年、3年の先輩たちがいて、全員合わせるとかなりの大所帯だった。
先輩たちは様々なテーマで研究を行っていたが、どれも専門的でとても難しいものだった。
だが、そんな専門的で難しいものの中から、卒業研究のテーマを選ばなければならない。
もともとソフトウェアの開発に興味を持っていた僕は、最終的に耐タンパーソフトウェアというテーマを選んだ。
これは「悪意ある攻撃者がソフトウェアを解析したとき、ソフトウェアの中の秘密の情報が奪われないようにする」ための研究である。
秘密の情報とは、例えば暗号の鍵データのことである。
近いテーマを研究している先輩に教えてもらいながら、卒業研究に着手した。
大学4年になると、大学を卒業するのに必要な単位は、卒業研究を除いてすでに取得し終えていたので、もはや講義を受ける必要がなかった。
また、週に一度、研究室の全員が集まって研究の進捗を発表する集まりがあったが、それ以外はすべて自由だった。
研究室にはいつ来てもいいし、いつ帰ってもいい。
なんなら全然顔を出さなくてもいい。
ただし、研究の進捗を発表する番が回ってくるまでに、その内容をまとめたプレゼン資料を作っておかなければならなかった。
卒業研究を徐々に進めながら、並行して院試の準備を進めていった。
院試には、筆記試験と面接試験があった。
筆記試験の過去問を入手したところ、大学の講義で習った様々な数学の問題が出題されることがわかった。
また、面接試験は、何人かの教授の前でプレゼンを行い、今行っている研究内容と、その研究を今後どのように発展させていくかについて発表するというものだった。
8月になり、研究室の活動が夏休みに入ったので、僕は帰省して実家で院試に向けた勉強をすることにした。
毎日のようにプレイしていたMMO-RPGは、院試が終わるまで休止して、勉強に集中した。
院試の数日前にアパートへ戻り、研究室へ行って、一緒に院試を受ける同期たちと面接試験の練習をした。
そして、8月下旬、ついに院試を受けた。
筆記試験は予想以上に難しかったし、面接試験は正直あまり上手くいかなかった。
それでも、翌日の結果発表で合格したことがわかり、緊張から解放された。
これで、僕は大学卒業後、大学院の修士課程へ進学できるようになった。
院試が終わり、9月中はのんびり過ごそうと考えていた。
しかし、博士課程3年の厳しい先輩から「卒業論文を完成させるのにあと半年しかないのだから、のんびりしている暇などない!」と一喝されてしまった。
これにはかなりショックを受けた。
前年までは8月と9月が丸々夏休みで、実家に帰省してのんびり過ごすことができた。
一転してこの年は、8月は院試に向けた勉強に丸々費やし、のんびりする暇はほとんどなかった。
そして、ようやく院試が終わったと思ったら、すぐ卒業研究に集中しなければならなくなった。
つまり、実質夏休みがなかったことになる。
心が休まらない。
もともとアパートでの一人暮らしにストレスを抱えていた僕の精神は、このころからさらに不安定になっていき、体調を崩すことが多くなっていった。
頭が痛くなることが多かった。
教授や先輩に事情を説明して、1週間くらい研究室の活動を休ませてもらうともあった。
やがて、今の環境から一刻も早く抜け出したいと思うようになり、一時は大学院への進学をやめて大学を卒業したら実家へ逃げ帰ろうと考えたこともあった。
そんなふうに悩んでいることを、教授に相談したこともあった。
しかし、大学院に進学しないなら就職先を探さなくてはならない。
企業の採用活動がすでにほぼ終了しているこの時期に、就職先を見つけることは事実上不可能である。
かといって、大学卒業と同時に新卒で就職する権利を放棄したら、その後は中途採用扱いで就職先を探さなくてはならなくなる。
さすがにそんな馬鹿な真似はできない。
悩み抜いた末に、僕は大学院へ進学することを決断した。
ならばまずは、大学を卒業するために、卒業研究を進めなくてはならない。
秋ごろから、修士2年の先輩がやっていた研究を手伝う形で、同じテーマを研究するようになった。
その先輩が、翌年の1月に仙台で開催される、情報セキュリティのシンポジウムで論文を発表することになった。
論文の作成には僕も協力し、論文の共著者として僕も仙台へ着いていくことになった。
年末年始は実家に帰省してのんびり過ごすことができた。
そして、1月下旬、シンポジウムに参加するため、教授や先輩たちと一緒に仙台へ向かった。
シンポジウムが開催される会場のすぐ近くのホテルに宿泊の予約を入れてもらってあり、仙台に滞在する4日間はその周辺で過ごすことになった。
仙台の名物と言えば、やはり牛タンである。
滞在中、何度も牛タンを食べて堪能した。
会場へって教授や先輩たちの論文発表を聴いたり、ホテル近くのインターネットカフェへ行ってMMO-RPGをプレイして息抜きをしたりして過ごした。
仙台から戻ると、僕は卒業論文の作成に取り掛かった。
教授には、先輩がシンポジウムで発表した論文の内容に、僕が独自に研究した内容を加えて書けば、卒業論文として十分成立すると言ってもらえた。
3月の頭に卒業論文発表会を行うため、それまでに卒業論文を完成させる必要があった。
だが、このとき僕の精神的な不調は最も酷くなっていた。
体調を大きく崩して、診療所で点滴を受けることもあった。
それをなんとか耐え抜いて、卒業論文を完成させ、発表会で使うプレゼン資料を作成した。
3月になり、卒業論文発表会が行われた。
発表を終えてほっとしたら少し頭痛がしたが、次第に気持ちが楽になっていった。
僕は無事に大学を卒業できることになった。
その後は、卒業論文を正式に提出したり、大学院の入学手続きを行ったりした。
それらを終えて実家に帰省し、3月中は実家で休養してのんびり過ごした。
大学院
4月になり、僕の大学院生としての生活が始まった。
大学院の修士課程は2年間である。
修士課程を卒業するためには、まず講義を受けて一定数の単位を取得しなければならない。
履修する講義を選択し、講義に出席してその内容を理解し、期末にレポートを提出すれば単位が取得できる。
この仕組みは大学のときとほとんど変わらない。
ただし、必要な単位の数は少なく、1年目のうちに必要な単位をすべて取得することができる。
そしてもうひとつ、修士課程を修了するために最も大事なのは、2年間研究を行い、最後に修士論文を作成することである。
研究の内容は、卒業論文に書いたテーマをさらに発展させていくと決めていた。
2年という時間があるので、じっくり腰を据えて研究を進めていこうと考えていた。
僕の精神的な不調は、徐々に回復してはいたが、まだ続いていた。
4月上旬には、また体調を崩して診療所で点滴を受けた。
精神というのは、一度弱らせるとなかなか回復しない厄介なものだということを知った。
その点、大学院生という気楽な立場には救われた。
大学3年までのように毎日の予定がびっしり講義で埋まっているわけではない。
研究室の活動は、週に一度、研究の進捗を発表する集まりがあるだけだ。
プレゼン資料を作るのは、すでにある程度慣れていた。
この他に、研究の進捗を短いレポートにまとめて毎週提出し、研究室の全員が閲覧できるようにするWeeklyReportという仕組みが導入された。
これも、普段から研究を進めていれば、レポートにまとめることはさほど難しくなかった。
しかし、この年は大変な一年になった。
なんとこの後、年末までに身近な人間が3人も亡くなったのだ。
まず、7月に入ってすぐ祖母が亡くなった。
祖母は、春ごろに検査で肺がんが見つかり、それ以降入院していた。
5月の大型連休に帰省したときお見舞いに行き、その後、5月の下旬にも一度帰省してお見舞いに行った。
祖母が亡くなったと連絡を受けた僕は急いで帰省し、通夜と葬儀に参列した。
8月に入ってすぐ、今度は曾祖母が亡くなった。
何年か前までは、実家で祖母が曾祖母の介護をしていた。
その後、祖母の手では介護をするのが難しくなり、晩年の曾祖母はずっと入院していた。
僕が前期の講義のレポートを書いているところに、曾祖母が亡くなったという連絡が入った。
急いで帰省し、通夜と葬儀に参列した。
12月に入ってすぐ、母方の祖父が亡くなった。
肺がんだった。
このときも、亡くなったという連絡を受けて急いで帰省し、通夜と葬儀に参列した。
立て続けに3人が亡くなり、ゆっくり悲しんでいる暇もないほどだった。
1月に仙台で開催された情報セキュリティのシンポジウムが、翌年1月に今度は神戸で開催され、僕はそこで論文を発表することになった。
論文の提出は12月中に行った。
その後、年明けにかけて、論文発表のためのプレゼン資料を作成した。
そして、1月下旬、シンポジウムに参加するため、教授や先輩たちと一緒に神戸へ向かった。
神戸に着くとすぐにシンポジウムの会場へ行き、僕は論文発表をした。
発表直後の質疑応答では、緊張して質問者と嚙み合わないやり取りをしてしまったが、なんとか発表を終えることができた。
前年の仙台のときは、シンポジウムの会場のすぐ近くのホテルに宿泊できたが、今回は電車で何駅も離れたホテルに宿泊することになり、これがなかなかに不便だった。
到着した当日に論文発表を終えた僕は、翌日からホテルで後期の講義のレポートを書いていた。
会場へ行って研究発表を聴くことも大事だが、このときはレポートを書くことのほうが優先事項だった。
また、神戸に滞在した4日のうちに、神戸牛のステーキを食べに行った。
すごくおいしくて大満足だった。
神戸から戻り、2月に入ると、僕は就職活動のための情報収集を始めた。
翌年の3月に卒業し、4月に就職するためには、そろそろ動き出す必要がある。
僕が希望する職種は、ソフトウェア開発技術者だった。
現代の言い方だとITエンジニアである。
僕は大学進学を機に関東へ出てきたが、もはやこれ以上関東に住み続けるつもりはなかった。
実家に戻ることはできなくても、せめて実家の隣りの県で働きたいと思っていた。
それなら、いつでも気軽に実家に帰れるからだ。
情報収集を進めた結果、実家の隣りの県にある、某大企業のグループ会社を本命に決めた。
とはいえ、その1社だけに絞って就職活動をするわけにはいかない。
アパートから東京へ行ったり、実家に戻って隣りの県へ行ったりして、就職活動を進めたため、アパートと実家を何度も往復した。
就職活動においては、自分の得意なことや長所を強調するのが一般的だと思う。
しかし、僕はあえて自分の長所も短所も伝えるようにした。
いいところも悪いところも含めて、自分という人間を知ってもらい、その上で自分のことを必要としてくれる企業に就職したいと考えたからだ。
そして、就職活動を続けた結果、本命としていた会社から内定をもらうことができた。
いや、この時点では厳密には、内々定である。
ともかく、2月から始めた僕の就職活動は、4月下旬に終わった。
これで大学院を卒業すれば地元に戻れる。
そう思うと少しだけ安心したが、まだ最大の難関が残っていた。
あと1年弱の時間で、修士論文を書かなくてはならない。
1月にシンポジウムで発表した論文の内容は、もちろん修士論文にも書く。
だが、そこからさらに研究を進める必要があった。
5月の大型連休まで実家でのんびり過ごした後、アパートに戻った。
その後、平日は毎日のように研究室へ行って研究に打ち込んだ。
僕の修士論文のテーマは、暗号ソフトウェアの実装方式というものだった。
つまり、理論の研究である。
極端な話、頭で考えさえすれば、いつでもどこでも研究は進められる。
紙と鉛筆があれば、考えた内容を書き残しておける。
だが、できるだけ研究室に行き、研究に集中するようにした。
7月中旬には、無事に研究の中間発表を行うことができた。
研究の進捗は順調だった。
8月、研究室の活動が夏休みになると、実家に帰省した。
その間に、翌年4月から会社に通うために住むアパートを決めて契約をした。
9月上旬、アパートへ戻った。
そして10月、再び実家に帰省して、会社の内定式に参加した。
これで会社に入社する内定を正式に得た。
このとき、一緒に会社に入社する同期たちと初めて顔を合わせた。
その後、風邪をひいて体調を崩してしまい、10月中旬まで実家に滞在していた。
そこへ、教授からのメールが届いた。
現時点での研究内容を文書にまとめ、数日後に提出せよという指示だった。
僕は慌てて、体調を崩して実家にいることと、文書の提出期限を数日先延ばししてほしいということをメールに書いて送った。
教授はそれを了承してくれた。
僕は急いでアパートに戻った。
体調を崩して寝込んでいたとはいえ、新しい研究内容は僕の頭の中ですでにまとまっていた。
1週間くらい研究室に通い、文書を作成した。
文書を提出すると、教授は納得してくれた。
一安心である。
それまで夕食は食材を買って自分で料理することが多かったが、このころから外食で済ませることが多くなった。
しばらく顔を出していなかったサークルの部室へ行くと、後輩たちと話が盛り上がり、そのまま学食へ行ったり、大学周辺のお店へ行ったりして、一緒に夕食を取るようになったのだ。
これは僕にとってなかなか新鮮だった。
こんなことなら、これまでもっと外食していれば良かったとも思えた。
修士論文の提出期限が、翌年の1月下旬に迫っていた。
だが、1月にシンポジウムで発表した論文の内容と、先日提出した文書にまとめた研究内容を合わせれば、修士論文として一定の水準を満たすと、教授からお墨付きをもらっていた。
ここからさらに新しい研究内容を追加しようとしたが、結局それは形にならなかった。
年が明け、修士論文を完成させた。
1月下旬に修士論文を提出し、2月中旬には修士論文発表会を行った。
僕は無事に大学院の修士課程を卒業できることになった。
先述したが、修士論文は暗号ソフトウェアの実装方式をテーマにして書いた。
だが、実際にプログラミングをしてソフトウェアを実装することはせず、論文には実装方式の理論だけを書いた。
後の世代の後輩のだれかが、この研究を引き継いでくれるだろうと思っていた。
修士論文発表会が終わると、引っ越しの準備に追われた。
様々な手続きをする必要があったし、何よりも6年近く住んでいたアパートの部屋には大量の荷物があり、それらを整理するのに苦労した。
3月上旬に引っ越しをした。
まずは今のアパートから新しいアパートへ荷物を送った。
そして、数日後、今度は新しいアパートで荷物を受け取った。
その後は、実家とアパートを行ったり来たりしながら、アパートの荷物を整理したり、いくつかの手続きを行ったりした。
3月下旬、大学内で行われた卒業式に出席した。
こうして僕は、6年間過ごした大学に別れを告げた。
就職
4月になり、僕の社会人としての生活が始まった。
まずは入社式があり、その後会社の説明を受けたり、健康診断を受けたりした。
そして、新入社員教育が始まった。
入社して早々、僕はいきなり躓いた。
入社式があった週の金曜日の夜、僕は車を運転して高速道路を走り、実家に帰った。
そして、土曜日の夜、夕食を食べた後、激しい腹痛に襲われた。
長い時間トイレに籠ってお腹を下し、ものすごく体力を消耗した。
翌日になっても腹痛は治まらなかった。
夕方になって、日曜日でも診察してもらえる病院へ連れて行ってもらった。
そこで痛み止めの注射と点滴を打ってもらって、ようやく痛みが治まった。
もともとは日曜日の夜にアパートへ戻り、月曜日から会社へ行く予定だった。
だが、日曜日にアパートへ戻ることはできず、月曜日の朝になってもまだ具合が悪かったので、結局会社を休むことにした。
入社して間もないのだから、無理をしてでも会社へ行くべきだと、父は言っていたが、それはできなかった。
入社して1週間でいきなり欠勤した。
僕は出ばなをくじかれた思いだった。
就職活動をしていたとき、会社にはソフトウェア開発の部署で働きたいと伝えていた。
しかし、入社するとそれは一旦白紙になり、改めて配属希望先を選ぶことになった。
僕は当然、ソフトウェア開発の部署を希望したが、場合によってはシステムエンジニアの部署に配属されるかもしれないとのことだった。
ソフトウェア開発とシステムエンジニアの違いは微妙なものだが、ともかく僕の希望はソフトウェア開発だった。
平日5日間、会社へ行って新入社員教育を受け、金曜日の夜に車で実家へ帰り、土曜日と日曜日は実家でのんびり過ごして、日曜日の夜アパートに戻る。
これが定番となっていた。
相変わらず神経質な僕は、アパートの他の部屋から聞こえてくる他人の生活音が嫌で嫌で仕方がなかった。
実家の隣りの県で働くようになれば、いつでも実家に帰れると考えて就職先を選んだのは英断だった。
僕はアパートでの一人暮らしに嫌気がさしていた。
新入社員教育の中で、「TEGエゴグラム」という性格検査を受けた。
この検査は、まず55項目の質問に「はい」「いいえ」「どちらでもない」を選んで回答していく。
次に、回答結果を集計し、5つの因子にそれぞれどれだけの得点が加算されるか計算する。
最後に、5つの因子の得点を棒グラフに表す、というものだった。
その結果、僕は「自分にも他人にも厳しい」、例えるなら「頑固な職人気質」のようだと診断された。
僕の棒グラフは、同期のだれとも一致しない特徴的な形をしていて、同期たちから驚かれた。
僕には他の人とは違う、独特な個性がある。
このことは僕の自信だった。
やがて、2か月間の新入社員教育が終わり、6月に入るとすぐ配属先が発表された。
僕は、希望通りソフトウェア開発の部署に配属が決まり、胸を撫で下ろした。
大学で研究室が決まった時と同じだと思った。
自分の力ではどうにもならず、運によって結果が左右される場面において、僕はまたしても望んだ結果を得たのだ。
まあ今回は、会社が僕の適性を考慮して決定した可能性もあるので、運だけで決まったとは言い切れないが。
ただ、意外なこともあった。
本社で勤務するのだとばかり思っていたが、僕が勤務することになったのは本社とは別の、グループ会社が集まっているビルだった。
そこで僕は閃いた。
実家から本社までは片道2時間かかるので、これを毎日往復するのは現実的ではない。
そのためアパートに住んで通うことにしたのだ。
しかし、僕が勤務することになったビルは、実家から片道1時間半だった。
これなら毎日往復して通勤するのも不可能ではない。
ならば、実家に引っ越そう。
そう考えた僕の行動は速かった。
週末実家に帰るとき、アパートにある荷物を車に積んで、少しずつ運ぶことにした。
また、実家から勤務先への通勤も試してみた。
やがてアパートの荷物をすべて運び終え、必要な手続きを済ませて、7月中旬に実家に引っ越した。
これが英断だったと、あとで気付くことになる。
仕事の話に戻ろう。
僕が配属されたのは、組込みソフトウェアを開発する部署だった。
最初に関わったのは、タッチ画面付きの端末で動くIPテレビ電話を動作させるソフトウェアを開発するプロジェクトだった。
後に、新型端末のIPテレビ電話のプロジェクトが立ち上がり、そちらにも関わった。
配属された当初、僕はプログラミングの初心者同然だった。
大学と大学院で情報工学を学び、ソフトウェアの実装方式について論文を書いたが、プログラミングそのものはあまりしたことがなかった。
なので、配属後は必死になってプログラミングの技術を学んだ。
また、IT関係の資格も一切持っていなかった。
だがこちらは、大学と大学院で学んだ知識が大いに活きた。
この年の11月、まず基本情報技術者の資格を取得した。
翌年の12月にはソフトウェア開発技術者の資格を取得した。
言っていることとやっていることが一致しないと思われるかもしれないが、僕は技術ではだれにも負けないエンジニアになりたいと思っていた。
その点、僕の教育を担当してくれた直属の上司は、まさしく技術ではだれにも負けないエンジニアだった。
強面で厳しく、でも面倒見がいい。
技術的なことでわからないことがあっても、この人に相談すれば必ず解決してくれる。
そんな人だった。
僕もいずれはこの人のようになりたいと思っていた。
配属されてすぐは定時で帰れることも多かったが、徐々に忙しくなって残業することが増えていった。
時には終電まで残業することもあった。
また、金曜日に終電がなくなるまで残業し、職場近くのビジネスホテルに宿泊して、翌日の朝帰宅することもあった。
配属の翌年の3月には、こんなことがあった。
金曜日に深夜まで残業して終電がなくなった。
だが、この時間から翌朝までの数時間のためにビジネスホテルに宿泊するのはもったいないと考えた。
暖を取ろうと、インターネットカフェに入ってみたが、残念ながら満席だった。
仕方がないので、駅の周りをぐるぐる歩いて体が冷えるのを防ぎながら徹夜し、翌朝の始発電車に乗って帰宅した。
若くて体力があったからできたことだと思う。
4月になって社会人2年目が始まった。
このころから遅くまで残業することが多くなった。
体調を崩して仕事を休むことが徐々に増えていった。
秋ごろから新しいプロジェクトに関わるようになった。
他社と協力して行われる大きなプロジェクトだった。
車に搭載して、車から様々な情報を収集して分析し、運転の内容を評価してくれる機器、それを動かすソフトウェアを開発するプロジェクトだった。
このころまでに、僕はある程度の技術を身につけていた。
自分の頭で考えて、ソフトウェアの仕様を文書に書いていく。
上司に、このような仕様にしなければならない理由を理論的に説明する。
上司にその仕様で問題ないと認めてもらった上で、プログラミングしてソフトウェアを作っていった。
また、こんなこともあった。
ミーティングで、他のプロジェクトメンバーが発表したソフトウェアの仕様に不備を見つけた。
その仕様ではどうしてだめなのか、どのように修正すべきかを説明した。
たくさん発言し、ミーティングが終わって気が付くと、意識が朦朧としてめまいがしていた。
業務は多忙を極め、徐々に負担が大きくなっていった。
このころ、お腹を壊すことがとにかく多かった。
社員食堂で昼食を取って戻ろうとすると、腹痛に襲われトイレに直行する。
もしくは、昼休み明けすぐのミーティングの最中に腹痛に襲われ、周りのメンバーに謝りながらトイレに直行する。
こんなことばかりだった。
仕事を休む頻度がさらに高くなった。
このあたりからの記憶は曖昧である。
年が明けると、プロジェクトの関係で他社へ行くことが増えた。
何日も続けて休むことが何度もあった。
やがて僕はその会社に常駐することになった。
だが、僕の心と体はもう限界だった。
挫折
6月に入ると、酷い頭痛に襲われるようになった。
病院で診てもらっても、原因がわからない。
出社できる日よりも、休む日のほうが多くなった。
7月、頭痛よりも首の痛みのほうが酷くなってきた。
出社できても気分が悪くなって、早退することが多くなった。
別の病院で首のMRI検査を受けたが、異常は見つからず、原因はわからないままだった。
さらに、首の痛みに加えて、めまいを感じるようになってきた。
8月、やっていた仕事の引き継ぎをなんとか済ませ、中旬から1か月程度休むことになった。
9月中旬、出社したが症状は変わらなかった。
会社の産業医にうつ病の可能性があると言われ、精神科を紹介された。
9月下旬、精神科を受診し、うつ病であると診断された。
僕は、会社を休職することになった。
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