蚊取り線香と酒と本
1.夏の匂いは、音より先にやってくる
夏の訪れを知らせるものは何だろう。蝉の声だろうか。入道雲だろうか。冷やし中華の張り紙だろうか。
人によっていろいろあるだろうが、私にとっては「匂い」である。それも、蚊取り線香の匂いだ。
夕方になると、どこからともなく漂ってくる、あの少し甘くて、どこか土っぽい煙の香り。あれを嗅ぐと、不思議と子どもの頃の夏休みが蘇る。
祖父母の家の縁側。団扇の風。遠くで鳴る花火の音。そして、冷えた麦茶。
記憶というものは不思議なもので、景色より先に匂いが連れてくる。
先日、押し入れの奥から古い蚊取り線香立てが出てきた。豚の形をした、あの懐かしい陶器である。少し煤けていて、長年使われた跡がある。手に取ると、妙に嬉しくなった。
最近は液体式や電気式のものばかり使っていたが、たまには昔ながらの蚊取り線香も悪くない。そう思って、その日の夕方、一本火をつけた。すると、煙が細く立ちのぼり、部屋の空気が一気に夏になった。
匂いというのは、時に時間を飛び越える力を持っている。気づけば私は、五十年近く前の夏に戻っていた。
今の家には縁側がない。最近の家には、そもそも縁側そのものが少ない。便利になった反面、失ったものもあるのだろう。
縁側という場所は不思議だった。家の中でもなく、外でもない。暑い日には西瓜を食べ、夕方には涼み、夜には星を眺める。何をするでもなく、ただ座っているだけでよかった。
今思えば、あれは贅沢な時間だった。子どもの頃は、その価値がわからなかった。だが年齢を重ねると、何もしない時間のありがたさが身に染みる。
最近はスマホを開けば情報が流れ込んでくる。ニュース、動画、広告。気づけば頭の中まで忙しくなる。その点、本はいい。こちらがページをめくらない限り、先へ進まない。急かされない。酒もまた同じだ。一気に飲むものではなく、ゆっくり付き合うものだ。
そして蚊取り線香もまた、急がない。一定の速さで静かに燃え続ける。人間だけが忙しく生きているのかもしれない。煙を眺めていると、そんなことを思う。

2.夏の夜は少しだけ時間がゆるむ
夕食を終え、風呂に入る。扇風機の前に座ると、肌に触れる風が心地いい。
冷蔵庫から取り出したのは、よく冷えた焼酎のソーダ割り。氷が小さく音を立てる。
窓の外では虫の声。部屋の隅では蚊取り線香がゆっくり燃えている。これだけで十分だ。
若い頃は、何かを手に入れないと満足できなかった。いい車。広い家。立派な肩書。だが五十を過ぎる頃から、逆に不要なものを減らしたくなった。大きな幸せより、小さな快適。派手な刺激より、静かな満足。そんな価値観に変わってきた気がする。
酒の好みも変わった。若い頃は勢いで飲んでいた。今は味わって飲む。本も同じだ。昔は結末を急いだ。今は途中の文章を楽しむ。
人生というのは、歳を取ると速度が変わるらしい。蚊取り線香の燃える速さくらいが、ちょうどいい。
歳を重ねるほど、「先」が見えるようになる。体力も落ちる。物覚えも悪くなる。鏡を見るたびに白髪も増える。
だが悪いことばかりではない。若い頃にはなかった楽しみもある。その一つが、読みかけの本だ。若い頃は積読を負債のように感じていた。読まなければならない。消化しなければならない。そんな気持ちがあった。だが今は違う。
まだ読んでいない本がある。次に読む本が待っている。それだけで少し嬉しい。人生の楽しみが残っているような気がする。
酒も同じだ。飲んだことのない銘柄がある。行ったことのない居酒屋がある。
人間は案外、未完成のままの方が幸せなのかもしれない。全部知ってしまったら、きっと退屈だ。
だから今日も本を少しだけ残して閉じる。続きは明日に取っておく。楽しみを先延ばしにする贅沢もある。

3.蚊取り線香の終わる頃
気づけばグラスは空になっていた。本のページもだいぶ進んだ。時計を見ると、思っていたより夜が更けている。蚊取り線香も、もう最後の方だ。
赤い火がゆっくり円を描いている。あの形は不思議だ。始まりも終わりも、どこか曖昧に見える。
人生も似ている。気づけば始まっていて、気づけばここまで来た。若い頃は未来ばかり見ていた。今は少しだけ過去を振り返ることが増えた。
けれど、過去に戻りたいわけではない。今の自分には今の楽しみがある。
酒を飲み、本を読む。夏の夜に蚊取り線香の煙を眺める。それだけで十分豊かだと思えるようになった。贅沢とは、高価なものを持つことではない。自分の好きな時間を持てることだ。そのことに気づくまで、ずいぶん長くかかった。
窓の外から夜風が入る。煙がゆらりと揺れる。私は本を閉じ、最後の一口を飲む。
夏の夜は短い。だが、こういう夜の記憶は案外長く残る。来年の夏も、また同じように蚊取り線香を焚くだろう。そして酒を飲み、本を開く。
人間は案外、変わるようで変わらない。それも悪くない。

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