夜明け前に目が覚めた朝の一冊
1.眠りが途切れた静かな時刻
歳を重ねると、不思議なものである。
目覚まし時計をかけなくても、朝早く目が覚める日が増えてきた。
時計を見ると午前四時過ぎ。
もう一度眠ろうと布団の中で目を閉じるのだが、頭だけが妙に冴えてしまう。若い頃なら二度寝など簡単だったのに、今では「眠らなければ」と思うほど眠れない。
そんな朝は、無理に眠ろうとしないことにしている。
そっと起き上がり、台所へ向かう。
窓の外はまだ夜の色を残していて、街灯だけが静かに道路を照らしている。新聞配達のバイクもまだ来ていない。世界中が息を潜めているような時間だ。
冷蔵庫を開ける。
昨夜飲み切れなかった缶ビールが一本残っていた。
「朝から酒か。」
自分で笑ってしまう。
もちろん飲むつもりはない。
缶を冷蔵庫の奥へ戻し、小さなやかんに水を入れて火をつけた。
こんな朝は、酒よりも湯気の立つお茶のほうが似合う。
湯飲みを両手で包む。
熱がゆっくり指先へ伝わってくる。
酒は夜を少し豊かにしてくれる。
では、朝を豊かにしてくれるものは何だろう。
私にとって、その答えは本なのだと思う。
本棚から文庫本を一冊抜き取る。
読みかけの栞が挟まったままになっている。
昨夜、晩酌を終えたあとに数ページだけ読もうと思ったものの、いつの間にか眠ってしまっていた。
昨夜の続きを、今朝読む。
それだけのことなのに、夜とはまるで違う文章に見えるから不思議だ。
夜は感情が先に動く。
朝は言葉が静かに心へ入ってくる。
同じ一冊でも、読む時間が違えば別の本のように感じることがある。
読書とは、本を読むことではなく、自分自身の心を読む時間なのかもしれない。

2.夜と朝のあいだ
東の空が少しずつ青くなり始める。
窓を少しだけ開けると、夏とは思えないほど涼しい風が部屋へ入ってきた。
遠くで鳥が一羽鳴く。
誰かが車のエンジンをかける音。
新聞配達のバイク。
街が少しずつ目を覚ましていく。
その変化を眺めながら本を読む時間は、どこか特別だ。
酒場ではよく、「一人で飲んでいて寂しくないですか」と聞かれることがある。
そのたびに私は笑って答える。
「本があるからね。」
本は話しかけてこない。
無理に励ましもしない。
ただ静かに隣へ座っていてくれる。
だから心地いい。
夜の酒もそうだ。
黙って隣にいてくれる相棒のような存在である。
酒と本。
どちらも人生を派手に変えてくれるわけではない。
けれど、何でもない一日を「悪くなかったな」と思わせてくれる力を持っている。
その力は、若い頃には気づかなかった。
忙しく働き、人と競い、予定を埋めることばかり考えていた頃には、夜明け前の静けさなど退屈にしか思えなかっただろう。
今は違う。
何も起きない時間ほど贅沢だと思える。

3.一杯の酒は夜へ預けて
朝の読書が終わる頃には、窓の外はすっかり明るくなっていた。
近所の小学生がランドセルを背負って歩いていく。
犬の散歩をする人。
開店準備を始める店。
街はいつもの朝になっている。
読み終えた本を閉じる。
栞を挟み、静かに本棚へ戻した。
冷蔵庫を開けると、昨夜の缶ビールがまだ冷えたまま残っている。
「今夜また会おう。」
そんな気持ちで扉を閉めた。
酒には酒の時間がある。
本にも本の時間がある。
夜の酒は、一日の疲れを受け止めてくれる。
夜明け前の読書は、新しい一日を静かに迎え入れてくれる。
どちらか一方だけでは足りない。
だから私は、夜には酒を、朝には本を選ぶ。
そんな小さな習慣を続けているうちに、歳を重ねることも悪くないと思えるようになった。
早起きは若い頃には少し損をした気分だった。
けれど今では、誰にも邪魔されない時間を一足早く受け取ったような気がする。
もし明日の朝、思いがけず早く目が覚めたなら、もう一度眠ろうと焦らなくてもいい。
静かな湯飲みを手に、本を一冊開いてみてほしい。
夜明け前だけが持つ、少し澄んだ空気の中で読む言葉は、きっと昼間とは違う顔を見せてくれるはずだから。

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