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本より酒が進む夜

1.読む気は満々だった夜
晩酌の準備をしながら、本棚の前に立つ。今夜はこれを読もう。そう決めて手に取った文庫本を机の上に置く。栞は前回の続きのまま。あと百ページほど残っている。ちょうどいい。酒を一、二杯やりながら読むには、これくらいがちょうどええ。
冷蔵庫から缶ビールを一本取り出す。グラスに注ぐほどでもない。こういう日は缶のまま飲むのが気楽でいい。
窓の外では虫が鳴き始めている。テレビは消した。家の中は静かだ。今日は誰とも会わなかった。特別な出来事もなかった。けれど、そんな何もない日ほど、酒と本が恋しくなる。
椅子に腰掛け、本を開く。そして、ビールをひと口。
──この時点では、確かに読む気は満々だったのである。
最初の数行を読む。悪くない。面白そうだ。もうひと口飲む。再び文章を目で追う。
すると今度は、昼間の出来事を思い出す。あの電話、返した方がよかったかな。あの件、来週どうなるやろう。
年を重ねると、不思議なもので、読書中に考えることが増える。若い頃は本の世界へ一直線に入れた。ところが五十を過ぎると、頭の片隅に現実が常駐している。
家族のこと。仕事のこと。体のこと。将来のこと。そんなものが、小さな居酒屋の常連客みたいに、頭の中で勝手に飲んでいる。
その間に酒をもうひと口。気づけば、さっきから一ページも進んでいない。まあ、こんな日もある。別に誰に急かされているわけでもない。本は逃げない。酒も逃げない。逃げるのは時間だけだ。
だが、その時間を楽しむために飲んでいるのだから、それでいい。


2.酒の方が話しかけてくる夜
不思議な夜がある。本より酒の方が雄弁な夜だ。読み始めたはずなのに、文章より先に酒が心へ入ってくる。二杯目を作る。氷がカランと鳴る。その音だけで少し機嫌が良くなる。
酒には、言葉にならない感情をほどく力がある。嬉しかったこと。腹が立ったこと。少し寂しかったこと。誰にも言わなかったこと。そういうものを静かに溶かしてくれる。
本は考えさせる。酒は忘れさせる。
もちろん、本当は忘れてなどいない。ただ、一時的に肩から下ろしてくれるだけだ。
だから、酒を飲みながら読む夜というのは、実は読書と休息が同時に進行しているのかもしれない。もっとも、その配分が酒九割、本一割になる夜もある。今夜がまさにそれだ。
ふと気づく。まだ数ページしか進んでいない。昔なら、もったいないと思ったかもしれない。せっかく本を開いたのだから、もっと読まなければ。そんなふうに考えた時期もあった。
だが、今は違う。栞が進まない夜も悪くない。本を読んだ量と、良い夜だったかどうかは別の話だ。読みかけのページを眺めながら酒を飲む。その時間そのものが贅沢なのだ。
若い頃の贅沢は、遠くへ行くことだった。高い物を買うことだった。年を重ねると、贅沢の形が変わる。静かな夜。好きな酒。読みかけの本。誰にも邪魔されない時間。これだけ揃えば十分だ。いや、十分すぎる。
栞が進まないのは、時間を無駄にした証拠ではない。むしろ、急がない人生を味わっている証拠なのかもしれない。


3.酔いと読書の境界線
酒を飲みながら本を読む。実に楽しい時間だ。ただし問題がある。酔いすぎると内容を覚えていない。
これは読書家あるあるではないだろうか。翌朝、本を開く。見覚えのあるページなのに、内容が頭に入っていない。
あれ?ここ読んだっけ?いや、読んだはずだ。栞は進んでいる。だが記憶は進んでいない。結局、同じところを何度も読む。効率だけ考えれば無駄かもしれない。けれど、不思議と嫌ではない。
好きな酒を飲みながら好きな本を読む。たとえ内容が半分飛んでいたとしても、その夜が楽しかったなら、それで十分だ。
読書は試験ではない。感想文を書くわけでもない。人生の余白を豊かにする趣味なのだから。
本より酒が進む夜。一見すると失敗した夜のように思える。だが、本当にそうだろうか。
人生には、読む夜もあれば、飲む夜もある。深く考える夜もあれば、何も考えない夜もある。
人間は機械ではない。毎日同じように集中できるわけではない。だから、本が進まない夜があっていい。酒ばかり進む夜があっていい。そういう夜を積み重ねながら、人は少しずつ歳を重ねていく。
気づけば酒の量は減っても、酒の時間は深くなる。読書の速度は落ちても、本との付き合いは長くなる。
若い頃には分からなかった楽しみ方が、年齢とともに増えていく。それも悪くない。いや、むしろ悪くないどころか、なかなか贅沢な生き方ではないか。
今夜もグラスの氷が小さく鳴る。本は開いたまま机の上にある。ページはほとんど進んでいない。けれど、不思議と満たされている。
そんな夜がある。いや、大人には、そんな夜が必要なのだ。

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