見出し画像

昔の居酒屋の思い出

1.あの頃の居酒屋は、少し暗かった
最近の居酒屋は明るい。清潔で、広くて、メニューも豊富で、接客も丁寧だ。
それはそれで、もちろん悪くない。むしろ良いことなのだろう。
けれど、ときどき思い出すのは、もう少し薄暗かった頃の居酒屋である。
入口の引き戸を開けると、カラカラと鈴が鳴る。暖簾は少し油っぽく、店内には焼き魚の匂いが漂っている。
カウンターは木でできていて、長年の酒で染み込んだような色をしていた。
椅子に座ると、なんとなく落ち着く。理由はよく分からないが、ああいう場所は、なぜか人の気持ちをゆるめる。
仕事帰りのサラリーマンがいて、近所の常連がいて、一人で静かに飲む人もいる。
会話はあるようで、ない。知らない者同士が、なんとなく同じ空間で酒を飲んでいる。
今思えば、あの空気が好きだったのだと思う。
若い頃、ひとりで居酒屋に入るのは、少し勇気がいった。誰かと一緒なら気楽だが、一人だと妙に周囲が気になる。店員の視線も、隣の客の様子も、すべてが気になってしまう。
それでも、ある日ふと入った小さな店で、「ああ、ひとり酒というのも悪くないな」と思った。
カウンターに座る。とりあえずビールを頼む。店のテレビでは野球が流れている。常連らしきおじさんが、焼酎を飲みながら静かに見ている。大将は寡黙で、必要以上のことは話さない。妙に落ち着く。
誰も自分のことを知らない。だからこそ、気楽だった。
その夜、私は鞄から一冊の本を取り出した。たしか文庫本だったと思う。
居酒屋で本を読む人間は、当時それほど多くなかった。だが、誰も気にしていないようだった。
ページをめくりながら、ビールを飲む。それだけのことなのに、妙に贅沢な時間に思えた。


2.居酒屋という場所の不思議
居酒屋という場所は、不思議な空間である。家でもない。会社でもない。もちろん、特別な店でもない。
けれど、人はそこで少しだけ本音をこぼす。仕事の愚痴を言う人もいれば、静かに飲む人もいる。
笑い声が響くこともあれば、深いため息が聞こえることもある。
人の人生の、ほんの断片が、カウンターの上に置かれていく。グラスと一緒に。
だからだろうか。居酒屋で読む本は、少しだけ印象が変わる。
同じ本でも、家で読むのと、居酒屋で読むのとでは、どこか違う。
酒が入るからかもしれない。周囲の声があるからかもしれない。あるいは、人の気配があるからかもしれない。
昔の居酒屋は、今よりも客同士の距離が近かった。カウンターは狭く、隣の人との間隔もそれほどない。だから、自然と会話が聞こえてくる。
もちろん、盗み聞きするつもりはない。だが、聞こえてしまうものは仕方がない。
ある夜、隣の二人組が、ずっと仕事の話をしていた。どうやら上司と部下らしい。
部下が一生懸命説明している。上司は焼酎を飲みながら、うんうんと頷いている。
しばらくして上司が言った。「まあ、なんとかなるよ」
その一言で、部下の顔が少し緩んだ。
たいした言葉ではない。どこにでもある言葉だ。けれど、その夜のその場所では、ずいぶん大きな意味を持っているように見えた。
私は本を読みながら、少しだけページを止めて、その光景を見ていた。
居酒屋には、こういう小さな物語が、いくつも転がっている。


3.昔の居酒屋が減った理由
最近、昔ながらの居酒屋は少なくなった。チェーン店が増え、メニューはきれいな写真付きになり、店内は明るくなった。それは時代の流れだろう。
今の店には今の良さがある。それもよく分かる。けれど、ときどき思う。
あの、少し暗くて、少し狭くて、少し無愛想な店。
ああいう場所は、今はどこへ行ったのだろう。
もちろん、完全に消えたわけではない。探せば、まだある。
ただ、昔ほど簡単には見つからなくなった。だからこそ、見つけたときは、なんだか嬉しくなる。
そういえば、あの昔の居酒屋で読んでいた本のことを、最近ふと思い出した。
ずいぶん昔に読んだはずなのに、なぜか居酒屋の匂いと一緒に思い出す。
不思議なものだ。本の内容よりも、そのときの酒の味のほうを、よく覚えている。
カウンターの端。ぬるくなりかけたビール。静かな店内。
そして、膝の上に開いた文庫本。

いいなと思ったら応援しよう!

酔読倶楽部 よろしければ応援お願いします!皆さまの応援が記事を続ける原動力になっています。これからも役立つ&面白い記事を届けられるよう頑張ります!