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【推しの子】と同じ「個人の内部に生成された因果律(運命の輪)に、周りが巻き込まれる話」について語りたい。

※前提として、自分は【推しの子】を「吾郎の罪悪感によって形成されている因果律(運命)によって生成された話」と考えている。
 詳しくは下記参照↓

「個人の内部の因果律(運命の輪)に周りが巻き込まれる話」とは何か。
 ある特定の人物(主人公が多い)の内部にある問題が解決するまでは、「その問題が生み出す因果律」によって同じことが運命として何度も繰り返される話である。
 別の言い方をすると、「逃げ出しても自分自身に追いつかれ、その問題の内部にずっと閉じ込められる話」である。

【推しの子】で言えば、吾郎が「自分が母を殺した」という罪悪感を払拭するまでは、何度でも生まれ変わって母親を殺し(殺され)続ける運命を繰り返す。
 ループモノとの違いは、吾郎がアクアに生まれ変わったように状況はまったく違うのに(そのため繰り返しと気付かない場合もある)なぜか同じパターン、同じ結果を繰り返すところだ。

(「八月の光」ウィリアム・フォークナー/黒原敏行訳 光文社)

 因果を生成しているのが個人ではなく、一族など共同体で因果の連環を形成している場合もある。一族であれば世代、時代が変わっても、祖父ー父親ー孫ーひ孫と同じ運命を繰り返す。
「八月の光」はこの運命の輪からどう脱け出すかという話だったが、結局クリスマスやバーデンは抜け出せず、もう一人の主人公であるリーナが代わりに脱出する。
 作内でクリスマスとリーナは直接会ってはおらず、「クリスマスの運命からの脱出をリーナが代替している」ことは、本人たちも含めて誰も認識していない。そもそも「運命の輪」は作内では(漠然としか)認識されていない。
 こういうところも「運命論の話」の面白いところである。

「個人の内面の問題がストーリー上の因果律を生成している話」として、【推しの子】に一番近いのは、コーマック・マッカーシーの「ノー・カントリー・フォー・オールドメン」だ。

(「ノーカントリー・フォー・オールド・メン」コーマック・マッカーシー/黒原敏行訳 早川書房)

「ノーカントリー」は、ベトナムの帰還兵であるモスの内部にあるPTSD(戦争の後遺症)が「殺し屋シガー」という運命を生成してモスを追いかけ回す。
 モスが最後に出会ったヒッチハイクをする16歳の少女は、モスの妻カーラ・ジーンの写し絵である。
 モスがこの少女(≒カーラ・ジーン)を何とか別の場所に逃そうとするのは、自分の運命に巻き込むまいとしてだ。だが、実際は(作内現実では)既にカーラ・ジーンと結婚してしているのだから運命は決まってしまっている。
 この少女はモスと出会ったことで、モスの運命の輪の中で「カーラ・ジーンの写し絵」になってしまい殺されることが確定してしまう。さらにこの少女がモスと一緒に殺されることで、「カーラ・ジーンがモスがPTSDを乗り越えられないために殺される運命」が確定する。
「運命論の話」はこういう造りになっている。

 シガーがカーラ・ジーンを殺す時に言う台詞が、「運命論の話とはどういうものか」を端的に表している。

 共通の行き先を持つものには共通の道がある。それはいつも容易に見えるとは限らない。
 だがちゃんとあるんだ
(略)
 人生の一瞬一瞬が曲がり角であり、人はその一瞬一瞬を選択する。
 どこかの時点でおまえはある選択をした。そこからここにたどり着いたんだ。
 決算の手順は厳密だ。輪郭はきちんと描かれている。どの線も消されることはありえない(略)
 ある人間が世界の中でたどる道はめったに変わらないし、それが突然変わることはもっとまれだ。
 お前のたどる道の形は初めから見えていたんだ(略)
 それには始まりがあり中間があり終わりがある。
 今がその終わりだ。
 もっと違ったふうになりえたと言うことはできる。ほかの道筋をたどることもありえたと。
 だがそんなことを言って何になる?

 これはほかの道じゃない。これはこの道だ。
 お前は俺に、世界に対して口答えしてくれと頼んでいるんだ。わかるか?

(引用元:「ノーカントリー・フォー・オールドメン」コーマック・マッカーシー/黒原敏行訳 早川書房P330‐P332/太字は引用者)

 モスが自分の内部にあるPTSDを解決しない限りは、彼の妻になる(もしくはならない)少女は必ずモスと出会い、モスと出会ったことによって「この道」に入り何度でもシガーに殺される。
 カーラ・ジーンの立場から見れば、モスに出会った瞬間に「この道」が始まってしまっている。だから、モスがカーラ・ジーンと結婚せずに逃がそうとしても無駄なのだ(ヒッチハイクの少女の運命がそのことを表している)
 シガーに言わせれば「モスがどういう人間か」ということを通して「最終的には必ずここ→シガーに殺される運命にたどり着く」ことが見えていたのだ、ということになる。
 このシーンで、シガーがカーラ・ジーンにコイントスを提案するのは「弱者をいたぶっている」わけではなく、シガーにしてみればカーラ・ジーンへの同情から「世界に口答え」してあげているのだ。
「外すことが確定している」ので何の意味もないけど。


(「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」村上春樹 文春文庫)

 主人公が「運命を生成する人物」ではなく、巻き込まれる側であるのが「色彩を持たない多﨑つくると、彼の巡礼の年」
 この話の凄いところは、「ただ巻き込まれただけの人間」の視点を忠実に再現しているところだ。巻き込まれると、これくらい何が起こったか訳がわからないまま、人生において瀕死の重傷を負うことになる。

 クロ(エリ)は、シロ(ユズ)が囚われ生成している因果がとても自分の手に負えるものではない、巻き込まれれば自分など容易く破壊されるとわかっていたからフィンランドまで逃げる。
 つくるはエリのような勘が一切働かないため、シロが死んだあとも再びシロを中心とした運命の輪に巻き込まれる。灰田のエピソードで、つくるがいかに目の前で起こっている出来事の要素を見落としがちで鈍感かを表しているところがうまい。

【推しの子】は自己の悪性と対峙する話だったが、自己の純性を殺す話が「ノヴァーリスの引用」だ。

(「ノヴァーリスの引用/滝」奥泉光 創元社)
初読の時、刺さりすぎて三日間くらい(精神的に)寝込んだ。

「ノヴァーリスの引用」とセットになっている「滝」は、ある人間のふとした行為が特定の運命を形成し他の人間たちを逃れられない地獄のような運命に閉じ込める、という恐ろしい話である。 

 この構図をよりシステマチックにしたのが「予告された殺人の記録」だ。

(「予告された殺人の記録」G・ガルシア=マルケス/
野谷文昭訳 新潮社)

 自分が他人にとっての逃れられない運命の一部に知らず知らずなっているかもしれない。
 そう思うと怖い。

 同じ型の話と比べるとわかるが「誰も巻き込まず、自分の内部の運命の輪から脱け出した」【推しの子】は、この類型の話としてはこれ以上ないくらいベストエンドだ。

「アクアと重曹ちゃんが(あかねが、ルビーが)幸せになるところが見たかっただけなんだ」という気持ちもわかる(自分も「166話までの【アクア編】が全部夢オチで、163話を正史にして第二部が始まってくれないかな~」と思っている…)
 それだけ【推しの子】の他の部分が面白く、キャラが魅力的で愛されていたんだなと思う。
 堅固に構築された運命を打ち破る鍵は、「ただ〇〇に幸せになって欲しい」と思う気持ちなのかもしれない。
 書いていてそう思った。

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