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「【推しの子】が、なぜあのラストになったのか。『ib‐インスタントバレット‐』を読めばわかる説」を語りたい。

※本記事には「推しの子」と「ibーインスタントバレットー」のネタバレが含まれます。ご注意ください。

【推しの子】については、何記事か「この話をどう読んだか」「どういう話だと思っているか」を書いた。

 その続き。
 久しぶりに「ib-インスタントバレット-」を読んで、「思ったより【推しの子】に似ている」と感じたのでこの二作品について語りたい。

【推しの子】は(自分の考えでは)テーマと枠組みを「ib-インスタントバレット‐」から流用している。
「推しの子」や「ib」の物語の枠組みの原型は、男向けの恋愛ゲームの型のひとつである「様々な女性キャラを攻略するルートの組み合わせによって物語が成り立っている」というものだ。

 このタイプの話は、男主人公が女性キャラたちを一人一人攻略していくことで全体の筋も進んでいく。
【推しの子】は、かなルート、あかねルート、ルビー(さりな)ルート、アイルートともうひとつの隠しルートで成り立っている。
「ib」は木陰ルート、夢ルート、瀬良ルート、十色(&いろは)ルートで成り立っている。

 以前の記事で「【推しの子】は徹頭徹尾『男の論理』(※1)によって動いている作品だ」と書いた。
 ここで言う「男の論理」とは何か。
「愛されるためには(存在を許されるためには)義務(責任)を果たさなければいけない」というものだ。
「男の論理」において、「愛されること」と「義務(責任)を果たすこと」は等価交換である。
 例えば「YU-NO この世の果てで恋を唄う少女」では各女性キャラのルートを攻略し終えると女性キャラと性的に結ばれる。
 これは性行為そのものが対価なのではなく、対象の女性から「存在を認められ受け入れられること」が対価であり、その感覚をプレイヤーが最も体感しやすい方法として性行為を用いている。

 逆に言えば「女性キャラの助けにならない、救えない(役に立たない)場合、相手に(どころか世界全体に)愛されない、受け入れられなくても当然だ」という論理が強固に働いている。

(「ibーインスタント・バレットー」2巻 赤坂アカ KADOKAWA)

「男の論理」においては、自分が存在するために(存在を肯定するために)対象の女性を理解し、助け、救わなければならない。
 その対象として複数の女性キャラがいるが、物語全体の「最終到達地点」となるメインヒロインは一人である。
「(物語において)誰がメインヒロインか」は、主人公の恋愛感情とは関係がない。
「ib」でクロが恋愛感情を抱いていると明確に描写されるのは夢だけだが、かといって夢がメインヒロイン(彼女とくっつくことが物語の最終目標)ではない。夢が死んだ後に十色(&いろは)ルート、瀬良ルートが始まっていることを見ても、それは明らかだ。
 
アクアはかなに恋愛感情を持っているが、【推しの子】のメインヒロインはかなではない。だから【推しの子】がかなとくっついてハッピーエンドにならないのは(物語的には)妥当なのだ。

 では【推しの子】のメインヒロインは誰か?
 ↑の記事で書いた通り「吾郎の母親」である。

【推しの子】の「本来の物語」(と、とりあえず仮称する)は「吾郎が母親に受け入れてもらうことを目指す」というものだ。
 しかし吾郎の母親は既に死んでいるため、「吾郎が吾郎の母親に受け入れてもらうこと(そういう体感を得ること)」は現実的に不可能だ。
 
そのため「母親の息子として、もう一度生まれ変わる」という「物語」が必要になる。
 それが【推しの子】本編である。
 アイは吾郎にとって「仮説の母」であり、アイと神木ヒカルの関係は「(吾郎の母への思いが強く投影した)吾郎と母親の現在の関係」である(※2)
 吾郎は母を救うという物語を組み立てることで「母を殺した事実」を消し、自分が存在することへの赦しを得ようとする。

 だが、吾郎がどれほど頑張ってもこの物語には出口はない。
「母親が本当は何を考えていたか、自分を(産んだことを)どう思っていたか」が吾郎にはわからないからだ。
 そのため物語は「(アイと神木ヒカルのような)推し(母)と推しに対する妄執を持つ自分」という展開を必ずたどり、そのたびに母親は死ぬ(自分が殺してしまう)
 本来は「守るべき存在である女性(母親)を殺してしまっている、悪である自分」は(↑のシーンでクロが言っているように)自動的に女性の敵となる。
 神木ヒカルがアイへの妄執のために実の娘であるルビーさえ殺すことをためらわないのは、「悪である自分は女性を救うことができない。そのため女性は敵だ理論(?)」が駆動しているためだ。

「推しの子」16巻 赤坂アカ×横槍メンゴ 集英社

 上記の記事で書いた通り、「神木ヒカルのアイに対する妄執」は「吾郎の母親に対する妄執(あるべき姿という幻想)」の反映である。

 では、この「推し(=母親)に対する妄執」はどこから来るのか。
「自分は悪である」という覆せない前提からきている。
 自分(吾郎=アクア=神木ヒカル)は悪である。
 であれば、その悪によって傷つけ、苦しめられる「敵」である母親(アイ)は気高い存在であるはずだ。

「自分は悪である」という前提から、相対的に「(自分の敵である)母親は素晴らしいもの、気高いものであるはずだという妄執」が生まれる。

 この「相対的に善悪が決まる理論(?)」は、「ib」の「姫浦瀬良ルート」で語られている。

(「ibーインスタント・バレットー」5巻 赤坂アカ KADOKAWA)
「自分以上の『悪』を見つければ、自分が(相対的に)正義になれる」「善悪は相対化されることで自動的に決まる」という理論。
「吾郎=アクア」は瀬良とは逆側から、この理論を用いている。

「自分は悪である」という考えを乗り越えない限りは、「母親(推し)に対する妄執」を断ち切ることは出来ない。
 つまり【推しの子】というストーリーにおいて真に解決しなければいけない問題は、「自分が『悪』である。だから『自分は存在してはならない』という妄執を捨てること」だ。
 ストーリーに即して言えば「神木ヒカルを殺すこと(自分を殺すこと)」ではなく「自分の一部として認め、受け入れること(自分自身を受け入れること)」が真エンドだったのではないか。
 
妄執(神木ヒカル=自分)を殺すことで「母親を殺してしまうループ」を断ち切ったとしても、解決にはならない。

 ただ【推しの子】が真エンドにたどり着けずに終わったこのテーマは、「ib」で既に手を変え品を変え語られている(※3)

(「ibーインスタント・バレットー」3巻 赤坂アカ KADOKAWA)
そう言われると何も言えねえ。

「ib」は、すべてのエピソードで全力投球でこのテーマについて語った結果、エピソード間のつながりが弱く、全体像が各エピソードの強さに負けてぼやけてしまった
 だが改めて読み返すと、その愚直なまでの真っすぐさ、不器用さが良かったなと思う。

(「ibーインスタント・バレットー」3巻 赤坂アカ KADOKAWA)
「古い砂に込めた夢」名前自体が一編の詩である。美しすぎ。

 自分の感性を全力で発揮すると、全てが繊細で美しくなってしまい、バランスが崩れる。だからエンタメやコメディ要素を適度に混ぜた【推しの子】が生まれた。
【推しの子】は芸能界お仕事モノとしてもラブコメとしてもミステリーとしても楽しめる一級のエンタメ作品だ。
 これだけ魅力的なキャラとエンタメ要素を盛り込んだ作品を作れ、それを爆発的にヒットさせた赤坂アカは本当に凄いと思う。

 ただ、自分は赤坂アカの作品の器用な部分よりも、不器用な部分のほうが圧倒的に好きだ。
 自分の悪性と対峙して、それを自分一人で抱えて死んでいく終わりかたには「クールで何でもこなせるが、根っこのところでは不器用で優しい」吾郎(=アクア)の人間性がよく出ていた。

「推しの子」16巻 赤坂アカ×横槍メンゴ 集英社

 この吾郎=アクアの人間性が強く反映されている物語が【推しの子】なのだ。

 語ろうとした物語に対する不器用な愚直なまでの誠実さが、何よりも評価されて欲しかった。
 読者の一人にすぎないけれど、未だにそう思ってしまうのだ。

※1 性規範における論理であり、個人の論理にあらず。

※2 アイが「愛するということがわからないために、愛している対象(神木ヒカル)に矛盾した対応をしてしまう女性」なのは、吾郎が母親が自分に対してどういう感情を抱いていたか(愛されていたのかどうかすら)わからないからだ。

※3 「ib」は自己不全感を抱える子供は魔法の能力(ib)を持つという設定だが、奇しくも登場人物のうち、木陰、十色、夢の三人の自己不全感の原因が母親との関係からきている。これも【推しの子】との共通点のひとつだ。

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