「一番助かってる。よかった」って言ってもらえる幸せ
菜桜(さいさくら)です。
この記事に触れて下さりありがとうございます。
今年の3月に35年間勤めていた会社を辞めました。
立ち止まった直接の理由は、乳がんの再発なのですが、治療のために休職していた1年間は、
否応なく自分自身と向き合う事となり、自分の今、自分自身、について考え、会社員生活に区切りを付けました。
自分の考えで、自分の気持ちで辞める決断をしました。
家族や古い友達には、決断までに、その時の揺れる気持ちや、自分の状況について
深刻にならない、真剣な言葉で、思いや考えを話していました。
35年という、決して短くはない会社員生活、定年まであと少し、なんとか勤める道はあったかと思います。
でも、定年までの50代最後の貴重な時間を、”会社員として過ごす”のか、”別の時間を過ごす”のか、心底迷いました。
決断するのに、最も重要な判断基準は、
会社で過ごした場合に、果たして、充実した時間が過ごせる、その体力と気力があるかどうかという事でした。
私は、自分のやっている仕事が好きでした。人間関係も悪く無い場所でした。
しかし、仕事には、どうしても、競争や、意見の違い、立場の違いにより、ある程度”戦い”が伴います。
一つのプロジェクトをやり抜く力、気力・体力が必要です。
そして、評価があります。これから伸びる可能性があるのか。何か希望はあるのか。
これらを全て考えた時、私のこれからの人生、生活の全てを掛けて、仕事に戻ったとしても、
戦い、力、評価、どれも得られないという事を悟りました。そんな状態で、ここに自分の人生を掛ける事が、
私の生きる事なのか。それは、必要な事なのか、やるべき事なのか。
何度も自分に問い、揺れる気持ちを抱きしめ、まだやれると自分を鼓舞したり、もう駄目だと弱気になったり
今までの事を振り返って、反省したり、後悔したり、眠れない夜を何日もすごし、考え抜いた末に、
私は、会社を辞める決意をしました。生涯においてとても大きな、大きな決断でした。
それまでの私の生活は、会社のスケジュールに合わせて展開していました。
家事も育児もしていましたが、常に、明日、会社に行くためには…と動いていました。
そんな私が、辞める時期も、理由も、これからの事も納得の上で決断しました。
そして、いつも、働く私をフォローしてくれていた、両親には、決断後に伝えました。
両親が居なければ、私はここまで、会社員として働いては来られなかった。
それは、はっきりと自覚しています。
いつもいつも、私と、子供たちの健康と幸せを願って、私の会社生活に合わせたフォローを
やってきてくれた両親。
ともすると、仕事に没頭してしまいがちな、私にブレーキをかけてくれたり、
力を抜く時間や場所を与えてくれたり、もちろん、子供のお迎えやご飯、お世話は、
いつでも頼れる心強い味方として、電話一本で、駆け付けてくれ、やってくれました。
この両親のフォローが、色んな事に追い込まれても救ってくれて
自分で自分を追い詰めても、休める場所だったのです。
心を壊さず、子供の事を、愛おしい、かわいいと思いながら育てることが出来たのです。
私が、仕事を大切にしていることは、両親も、家族も知っていました。
業務をきちんとやるのはもちろん、仕事にかかわる勉強や、活動もいろいろとしていることも、
知っていました。いつもギリギリで、何かに追われる様に生きていることも知っていました。
だから、最後まで、定年まで勤めるものと思って、子供が大きくなってからでも、
思春期の子供への対応や、健康、受験、トラブルなどについて、何でも話して、何でも受け取って
もらっていました。
だから、私は、両親には、一言も相談できませんでした。
辞めるかどうか、迷っている段階では、話せませんでした。
あんなに、たくさん、いつでも、色んな時間を一緒にここまでやってきたのに。
きっと残念がるっだろうな、そして止められるんだろうな。
だって、やっぱり、私たちの年代は、”定年まで勤めあげる””一つの会社を全うする”
という事が、会社員としての大きな目標の一つであることは、間違いない事ですから。
私は、相談という形は、全くとらず、決断したことを伝えました。
「3月いっぱいで、仕事を辞める」
両親の反応は、それぞれでした。
自身も会社員だった父は、「定年までもう少しやから行ったらどうや、もうちょっと力抜いて」
と、せっかくここまで、やってきたのだから、という思いからの言葉をくれました。
対する母は、「うん、もういいんちゃう、子供のことみたり、自分の好きな事したら、何でも」
いつもいつも、私の体や、子供の事を心配してくれて、何でも受け止めてくれていたからの言葉です。
どちらも、本当の私の状況を知って、私の気持ちを知っていてくれたから、
嘘のない、心からの言葉でした。
私は、二人に「うん、ありがとう、決めたから、3月で辞める」と、もう一度、伝えました。
「そうか。35年か、長いなぁ~。お疲れさん。な」と。
そして、会社を辞めてから、
そんなことは、お互いに思っていなかったのですが、父の免許返納の時期と重なり、
車で通っていた病院への送り迎えや、付き添いに行く様になったのです。
そして、知り合いからの「そろそろ、介護申請をしておいた方がいいよ、なんかあったら一人では大変やから」
「市とか、公の機関に、ここに高齢者が住んでいるという登録がされてると後々、何でも対応が早いから」
という言葉に、背中を押されて、まだ大丈夫と思っていた、介護申請をしました。
すると、介護未満の”要支援”の判定がつき、ケアマネさんがついてくれて、電動ベッドを借りたり、手すりを付けてもらったり
在宅リハビリに来てもらったりと、いろいろな支援の手配が、進んでいきました。
ただ、これらの手配の為の手続きや、連絡が、それなりにいろいろあって…
私にとっては、何でもない事なのですが、両親には、ちょっと面倒だったり、ややこしく感じたり、納得に時間がかかったり
するような事でした。
そこで、わたしが、間に入って、予定の調整をしたり、内容の説明をしたり、訪問されるときは立ち会ったりと、
自然と間を取り持つ様になりました。
最初の頃、私は、「両親のお世話の為に辞めたわけじゃないのに」「自分のこれからも決まっていないのに」
なんて、思ったりしていて、ちょっと微妙な気持ちを抱えて、関わっていたのです。
そんなある日、父が、ふと…
「辞めてくれて、一番助かってるのは、自分たちやな、よかったな」と母に向かって言ったのです。
母も、「うん、なんか心強いわ。いつもいてくれてるって思ったら」と。
その言葉を聞いて、もやもや、微妙な気持ちが、すっと消えていきました。
両親の言葉のそのままに、感謝の気持ちを受け取ったのは、もちろんなのですが、
私は、この人たちの”役に立っている””私という存在を、必要としてくれている”
そのことを、感じさせてくれた。そのことが、私の肩の力をすっと抜いたのです。
会社を辞めて以来、外に出て仕事をしなくなって、収入も社会での役割もない私、
”自分の時間を自分の為に生きるんだ”と、そう、心に決めて、自分自身、納得して会社を辞めた私。
だけど、心の奥底では、
私、今の私は、誰の為にも、何の役にも立っていないんじゃない?
このままこの生活してていいの?
生きるってこういう事でいいのかな?
と思う気持ちが、あったんだと思います。
これまで、ずっと働いてきて、収入があって、自分で生きているんだ。と自負して、走ってきた私。
無くなってみると、その価値が、下がったような、そんなことは無いって解ってるつもりでも、
自分の人生なんだから、好きに生きたら、いいと意気まいても、やっぱり、そう思っていた。
そんな私に、「よかった」と言ってくれた両親。
ありがとう。
なんか、やっぱり、まだまだ、救われている。フォローされている。
何時まで経っても、いくつになっても、私はやっぱり、この人たちの子供なのです。
いつでも、認めて欲しくて、いつでも見ていて欲しくて、思い切り甘えたくて。
これから先、何年話せて、いつまで一緒に居られるか、わからないけど。
どうなるか、何も予想は出来ないけど、今は、今この時を、一緒に過ごせる
一緒に過ごせる。
「一番助かってる。よかった」
もう、一番の言葉をもらったね。
これからも、一緒に、ね!
ありがとう。
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