【たこ八郎】斉藤清作の生涯
みなさんはボクシングで日本チャンピオンとなった後、俳優やコメディアンとして人気を博した奇人、斉藤清作をご存知でしょうか?

斉藤は左目の視力をほとんど失った状態でプロボクサーとなり、ジムでは後に日本人初の世界2階級制覇王者となる偉大なボクサー、ファイティング原田とともに汗を流しました。
また、引退後は「たこ八郎」の名で俳優やコメディアンとして頭角を現し、多くの映画やテレビ番組に出演するなど多方面で活躍しました。
今回は奇抜なビジュアルから「河童の清作」と呼ばれ、左目が見えないハンデを背負いながらボクシングでチャンピオンに上り詰め、最期は44歳の若さで急死した奇人、斉藤清作の生涯を解説します。
【生い立ち】
斉藤は1940年(昭和15年)11月、宮城県仙台市に生まれました。
幼少期の遊びによって左目を負傷した斉藤は、貧しい家庭だったためにすぐに病院に行かず、これが原因で左目の視力をほとんど失ってしまいます。
決して裕福とは言えない家庭で育った斉藤は高校在学中にボクシングを始め、持ち前の根性で着実に実力をつけていきます。
そして、高校2年時には宮城県大会で優勝しました。
高校卒業後に上京した斉藤は笹崎ボクシングジムに入門し、1960年(昭和35年)9月にプロデビューを果たします。
斉藤は左目の視力をほとんど失っていたため、プロテストの際の視力検査では視力表を暗記して合格したとされます。
ちなみに、ジムの同期には後に日本人初の世界2階級制覇王者となるファイティング原田がいました。

【王座獲得】
努力と根性で力をつけていった斉藤はプロデビューから4連勝を飾り、プロ5戦目で後の東洋バンタム級王者・青木勝利と対戦し、引き分けます。

その後、11連勝を記録した斉藤は1961年(昭和36年)7月、氷室良雄に判定で敗れ、プロ初黒星を喫しました。
初黒星後もハイペースで試合をこなし、白星先行でキャリアを積んでいった斉藤は後の東洋フライ級王者・中村剛に勝利するなど、着実に実績を残していきます。
そして、1962年(昭和37年)12月、野口恭の持つ日本フライ級王座に挑戦しました。

優勢に試合を進めた斉藤は10R判定で野口を下し、見事新チャンピオンに輝きます。
こうして、斉藤は左目が見えないハンデを背負いながら戦い続け、デビューからわずか2年で日本王座を獲得しました。

日本王者となった斉藤は1963年(昭和38年)2月、後に世界王者となる東洋フライ級王者チャチャイ・ラエムファバー(チャチャイ・チオノイ)とノンタイトルで対戦します。

しかし、この試合ではチャチャイの強打に苦しめられ、キャリア唯一となるTKO負けを喫しました。
その後、前王者・野口恭の挑戦を受けた斉藤は、5R終了時にTKOによって野口を返り討ちにし、王座の初防衛に成功しました。
【ブル・ファイター】
斉藤は左目が見えないことを相手に悟られないために、ノーガード戦法を採用していました。

タフネスな斉藤は相手のパンチをわざと受け続け、相手が疲れたところに反撃を行いました。
典型的なブル・ファイターだった斉藤は階級上のボクサーとも躊躇なくスパーリングを行い、試合でも練習でも激しく打ち合いました。

しかし、このファイトスタイルは徐々に斉藤の身体を蝕み、ダメージを蓄積させていきます。
野口恭に勝利して日本フライ級王座の初防衛に成功した斉藤は高山勝義、パンチャップ・ケオスリアとノンタイトルで対戦するも、どちらも判定負けを喫し、キャリア初の2連敗を喫しました。

その後、堤五郎に勝利して2度目の王座防衛に成功した斉藤ですが、1964年(昭和39年)4月に行われた3度目の防衛戦で飯田健一に判定で敗れます。
そして、斉藤はこの敗戦を機に現役を引退しました。
斉藤のプロキャリアは4年に満たない短い期間でしたが、ノーガード戦法によって頭部へダメージが蓄積しており、既にパンチドランカーの症状が出ていました。

【たこ八郎】
ボクシングを引退した斉藤は、喜劇俳優・由利徹に弟子入りし、新たな道を歩み始めます。

行きつけの居酒屋の店名をもとに「たこ八郎」という芸名となり、劇場やキャバレーに出演しました。
朴訥で多くの人から好かれた斉藤は銀幕にも活躍の場を広げ、1977年(昭和52年)には高倉健の主演映画『幸福の黄色いハンカチ』に出演しました。

ちなみに、斉藤はパンチドランカーの症状と大酒飲みだったことが影響して台詞覚えは悪かったとされます。
誰からも愛されるキャラクターで唯一無二の存在感を放つ斉藤は、俳優だけでなくコメディアンとしても大ブレイクを果たし、多くのテレビ番組に出演してお茶の間の人気者となりました。
【溺死】
1982年(昭和57年)10月、タモリが司会を務める大人気長寿番組『笑っていいとも!』の放送がスタートします。
独特のキャラクターでお茶の間の人気者となっていた「たこ八郎(斉藤清作)」もすぐにレギュラーへ抜擢されました。

しかし、順風満帆だった斉藤に突如悲劇がやってきます。
1985年(昭和60年)7月、仲間とともに海水浴場を訪れた斉藤は、酒に酔ったまま海に入りそのまま帰らぬ人となりました。
享年44。
斉藤の訃報は当時レギュラーを務めていた『笑っていいとも!』の放送中にタモリによって全国に伝えられ、日本中が悲しみに暮れました。
晩年は俳優やコメディアンとして才能を発揮した斉藤ですが、ボクサー時代に同じジムで汗を流したファイティング原田はボクサー・斉藤清作をこう評しています。
「たこはボクサー時代から酒を飲んでいました。そんなボクサーは他にはほとんどいなかった。それでもチャンピオンになったんだから、彼は天才だったんだと思います」
以上、左目が見えないハンデを背負いながらボクシングで日本チャンピオンとなり、引退後は「たこ八郎」の芸名でお茶の間の人気者となった天才、斉藤清作の生涯を解説しました。
YouTubeにも動画を投稿したのでぜひご覧ください🙇
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