シコウのデザイン#19~もうひとりの山川勇一郎~
ヤマカワです。
「ネットに自分の名前が載っているかな?」———誰しも一度はそんなことを思って、自分の名前をググってみたことがあるのではないでしょうか?
同姓同名の有名人や過去の偉人がヒットする場合もあると思いますが、私の場合、「山岳画家・山川勇一郎」がたくさん出てきます。
稀にネットで調べた方が、「山川さんは絵を描かれるのですか?」と聞いてこられることがありますが、私ではありません^ ^;。同姓同名の別人です。
ただ私も昔、富士山の自然ガイドだったので、個人的にも山は好きですし、父も日本山岳会の元・理事であったりと、山には少なからず縁があります。
「山岳画家」という肩書もちょっと気になりますし、山川勇一郎とはどういう人物だろう?とかねてから興味があったので、ちょっと調べてみました。
まず、東京文化財研究所の東文研アーカイブスによると、山川勇一郎氏のプロフィールは下のように記されています。
一水会会員・日本山岳画協会会員の洋画家、山川勇一郎は11月12日、チリ国のロ・バルデス・アンデス連峰で遭難、全身凍傷のため死亡した。享年56才。山川勇一郎は明治42年(1909)4月26日、神戸市に生れ、神戸第一中学校を経て昭和9年に東京美術学校西洋画科を卒業、一水会に出品、昭和16年応召、同18年現地除隊となりそのまま中国にとどまって北京を中心にして華北で制作、このころ北京で安井曽太郎に接してこれに師事。昭和21年帰国、同22年一水会会員に推挙され、また安井曽太郎門下生による連袖会に参加した。美校時代から登山をよくし、昭和33年には深田久弥らと「ジュガール・ヒマール探査隊」を組織してヒマラヤ地方に旅行し、昭和34年第21回一水会展に「ランタン・ヒマール」「ドルジェ・ラクパ」を出品して会員優秀賞を受賞した。昭和39年3月単身チリに赴き、4月チリ着。その後、サンチャゴに滞在し、ボリビヤ、ペルー、アルゼンチンなどを旅行、昭和40年11月大阪府岳友クラブ中央アンデス登山隊に同行してサンチャゴを発し、11月9日セントラル・アンデス、ロンバルデス地区のC1キャンプからC2キャンプに向う隊員と同行、中途より作画のため同行隊員と別れ単身キャンプに向ったあと消息をたち3日後の12日、雪原のなかの経40cm深さ23cmのクレバスのなかに遭難しているのをチリ山岳連盟、チリ国空軍ヘリコプターなどの協力によって発見され、救出されたが全身凍傷甚しく、同日17時30分絶命した。
東京美術学校(現・東京藝大)を出たのちに戦争で中国へ召集され、終戦後は中国に留まって山の絵を描く。「日本百名山」の深田久弥と親交が深く、ヒマラヤやアンデスの山々を旅して山の絵を描き、56歳でアンデスで遭難死。明治42年生まれとあるので、私の祖父とほぼ同世代ですが、何だか興味をそそる人生です。







太めのタッチで描かれた、一度見たら脳裏に残る、独特の画風です。
油彩と水彩と両方をされたようです。
風景だけでなく、野営地の様子や、村の生活など、人の営みが垣間見える絵もあります。山スキーの絵を多く残していますが、当時のギアの様子がわかって興味深いです。
「山と渓谷」の表紙も常連だったようです。



彼は1936年(昭和11年)に日本山岳会を母体に山を描く画家の集団として発足した「日本山岳画協会」のメンバーであり、協会は戦時中に一旦は休止したものの戦後、彼が中心になって協会は再発足したと記されています。
もう一つ、意外な共通点があり、彼は学生時代にラガーマンであったそうです。驚きです。
毎日新聞OB交流サイトである「東京毎友会」によると、山川勇一郎は、慶応大学が日本で初めてラグビー部を創設(1899年)してから遅れること30年、東京美術学校ラグビー部が創設された時の初期のメンバーであった、と記されています。
1929(昭和4)年の入学早々、「山川がラグビーのボールを持って立っているではないか。私は思わず駆け寄ってラグビー部発足の相談をした」と、信道は『上野の杜のラグビー部1929-1992』(1993年発行)に思い出を寄せている。(中略)
「まずジャージーを作らなければならない。旧食堂でメリヤスシャツをバケツに入れ、黒く染めたのも思い出だ」と信道。オールブラックスである。部史に「井上の発案」とあるが、「試合のたびに、汗で体が真っ黒になった」とも語っている
シャツをバケツで黒に染める―――実に美術学校らしいエピソードです。
試合が終わってシャツを脱ぐと顔も体が真っ黒で、メンバー同士で笑い合う、そんな光景が目に浮かびます。
およそ100年前、(おそらく日本初の)手作りの”オールブラックス”ジャージーを身に纏った東京美術学校ラグビー部の中心に同姓同名の山川勇一郎がいた。オールブラックス好きの私としてはなかなかグッときます。がぜん彼に親近感が湧いてきました。
彼の絵は長野県の大町山岳博物館に多く保管されているそうです。
大町山岳博物館には、平成7年以降、画家山川勇一郎氏の次女山川素子さんからご厚意により寄贈された山川作品を所蔵しております。お受け入れした資料は、「山に関わる」絵画作品139点のほか、戦時中に中国に召集された際に描かれた「中国の人と風景」絵画作品48点、そして愛用されたピッケルやスキーなど合せて総計220点(うち絵画187点)にのぼります。
異なる時代を生きた赤の他人と、時代を超えた意外なつながりがある―――そこに、人間社会の営みの面白さと味わい深さがあると感じます。
いつか、もうひとりの山川勇一郎の足跡を辿って、大町へ行ってみたいと思います。(山川勇一郎 25.12.7)
