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創作大賞2025『傘はいつも側に』

#創作大賞2025 #オールカテゴリー部門 #ヒューマンドラマ#家族#心理#短編小説#感謝#静かな物語

あらすじ
忘れられない紺色の傘がある。
入院、退院、そして母の手。傘の記憶をたどる中で、28歳の青年・栄太郎は“守られていた日々”の意味に気づいていく。
静かに心に降る、感謝と家族の物語。

『傘はいつも側に』
著:古賀 礼七
紺色の傘がない。
帰り道、駅前の夜風に吹かれながら、栄太郎の胸にぽっかりと穴が開いた。

社会人6年目。橋梁の設計事務所で、土木エンジニアとして働く毎日は、決して派手ではないが、淡々と誠実だった。
構造計算と図面と向き合う日々の中で、感情の起伏はあまりない。
それでも、今日ばかりは違った。
——傘が、ない。

ほんの少しの不注意。
だが、その紺色の傘は、ただの道具ではなかった。
思い出と、感情と、約束が詰まっていた。

5年半前、栄太郎は突発性の病気で1ヶ月ほど入院していた。
退院してしばらくして、ある雨の朝、玄関に見慣れぬ紺色の傘が静かに立てかけられていた。
母はそれを差し出し、「雨が降るみたいだから」とだけ言った。
その声には、いつもよりほんの少しだけ、柔らかな温もりが宿っていた。

入院中に母は、手をぎゅっと握りながら言った。
「この手は絶対に離さないからね……あんたは私たちの光なんだから」

——母はいつも、僕の傘だった。
雨が降っても、風が吹いても、黙って差しかけてくれる、静かで確かな存在だった。

栄太郎は、込み上げる思いを抑えながら、記憶の傘をそっと開いていく。

午前中、美術館で開催されていたフェルメール展に足を運んだ。
《真珠の首飾りの少女》の前で、光に満ちた画面に心を奪われた。
「真珠は災いを遠ざけ、心に静かな強さをくれる」と、母がかつて言っていた。

——あの時、トイレに傘を置き忘れたのかもしれない。
美術館の狭い外傘置き場に、ひっそりと立てかけられたままだったら——。

栄太郎は歩みを速めた。
傘を取り戻すのはもちろんだが、それ以上に、
「守られていた時間」をもう一度、手にしたくなった。

父は昔から多くを語らない人だったが、栄太郎が進路に悩んでいたとき、
小さな声でこう言ったことがある。
「橋ってのはな、向こう岸に行きたい誰かのために架けるもんだ。……そういうの、お前は得意そうだと思ってな」

あの言葉に背中を押され、彼は土木工学を志し、今の仕事を選んだ。

——守るって、たぶん、そういうことなんだろう。

美術館に戻ると、あの紺色の傘は、まだあった。
まるで彼を待っていたかのように、静かに、変わらずそこに。

傘が手に戻った瞬間、栄太郎はふと立ち止まる。
濡れたハンドルに手を添えながら、深く息を吸った。

「母さん、父さん、ありがとう。ずっと、僕を守ってくれていたんだね」

その足でデパートへ向かう。
ショーケースに並ぶ小さな真珠のブローチが、柔らかい照明に照らされていた。
自然と、指が伸びる。

そして、ブローチを胸に、彼は実家の玄関を開けた。
コートを脱いでいた父が顔を上げる。

「ただいま」
「おう、おかえり。……濡れてないか?」と、父。
奥から母が顔を出し、「傘、戻ってきたのね」と微笑んだ。

栄太郎はそっと歩み寄り、母の手のひらに真珠のブローチを乗せた。

「雨の中でも、風の中でも、ずっと僕を守ってくれた。
だから今度は、僕が、母さんの傘になりたい」

そう言った瞬間、母の目に涙がにじんだ。
父は、少し照れくさそうに咳払いをして、そっと母の肩に手を置いた。

リビングには静かな空気が流れていた。
だがその静けさは、寂しさではない。
守られてきた時間と、これから守りたい想いとが、静かに混ざり合っていた。

——傘がない、から始まった一日。
けれど今、彼の中には、確かな傘がある。
それは、両親がそっと差しかけてくれたように——
今度は、自分が誰かのために開く傘だ。

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