今の人生は第一希望ではないけれど。
ヨガ道場に勤めて6年目の秋。
師匠があるヨガ協会の理事長選に立候補すると言い出した。師匠の側近として働いていた私は、「あと数年はここを出られないわ」と思った。
そのとき39歳。子どもを産むならギリギリの線。
当時はまだ、40代での出産は遅すぎるという空気があった。
でも、このまま道場に残れば、ヨガの指導員としてはエリートコース。師匠の眉間についた赤いヒンディを見ながら、自分にとってどちらの人生が得だろうかと考えていた。
それから間もない昼休み、「冴さんを協会の役員にしたい。」と師匠が言った。その一言で、描いてきたもう一つの選択肢が消える。
そう私は、ヨガより何よりこの人に弱い。
「やらせてください。」即答した。
そこから選挙の準備が始まった。問題は私だ。
何の実績もない私に票を入れてくれる人なんて、誰の顔も思い浮かばない。
それでも教室では、師匠の目を真正面から見つめ、一緒に歩くときは、半歩下がった。同棲していたマンションを出てきたことも、子どもを諦めるかもしれないことも、振り返る暇はなかった。
ある日の午後。レッスンが終わり、生徒たちのナマステの余韻が消えたころ、師匠が口を開いた。
「次のヨガ協会の選挙に立候補します。」
ついに来た。
「そこでみなさんにお願いがあります。」
私の名前が呼ばれる。
そのあと生徒たちは一斉に私を見るだろう。
その目を想像しただけで息が吸えなくなる。
「私ともう一人、投票してもらいたい人がいます。」
師匠の口から出たのは、私の名前ではなかった。

生徒たちが帰ったあと、師匠がお茶を淹れるよう合図した。座布団を一枚だけ敷いて、床に座る。
「あなたにヨガを嫌いになってほしくないの。」
「道場に来てまだ6年でしょう。ヨガ協会は、ヨガの精神だけじゃやっていけない世界なのよ。」
師匠の言葉を聞きながら、これってヨガの八支則でいうと何番だっけと考えていた。
四番目まで数えて止まる。
私はサッカーのボールじゃない。
師匠に蹴られてあっちへ転がりこっちへ転がり。この人の気持ち一つで私の人生を揺さぶられるのは、もう終わりにしたい。
その足で、同じ道場で修業を重ねてきた一人の男を食事に誘い、結婚を迫った。話は驚くほど、とんとん拍子に進んだ。
あれから12年。
道場から200キロ離れた一軒家で、娘の目を真正面から見つめている。幸せかと聞かれたら、答えは一つ以外には浮かばない。
今の人生は第一希望ではないけれど。
もう一つの選択が幸せだったかどうかなんて、
誰にも分からない。
この記事は『ちび創作大賞』に参加しています。
テーマはVOID_404さんの『あの日の選択』です。
いいなと思ったら応援しよう!
よろしければ応援お願いします♪