2024年は2023年に続き激動だった
2022年は夫が急に消えた
ここ2〜3年は本当に激動の期間だった。
私は生まれてから親に暴力を受ける日々であったため、逃げ続け、名前まで変え、それでも追いかけてくる宗教依存の親たちから振り切るためのエネルギーと、PTSDの治療にほとんど人生の時間とお金を費やしていて、そんな中でも良い人とのご縁があり、結婚をした。
このまま穏やかな人生を心から望んでいたが、人生とは本当にわからないものである。
ある日夫が仕事を辞めた。いや、辞めていた。相談がなかったのである。
全てが事後報告。いや、報告があれば良い方で、色んな書類が自宅に届き、それを見て疑問が沸き、夫に聞く、というスタイルにいつの間にかなっていた。
仕事を辞めた夫は家を出てどこかへ行った・・
おいいいいい!どんな状況やねん!!
私は当時、夫の扶養内で働いていたので病院で保険証が使えなくなって驚いた記憶がある。
そして色々届く書類の中で、ん??と思うものがあった。
自宅住所宛に届いているが、株式会社◯◯と記載されている。
なんだこれ?
夫に聞いた。すると夫は『代表取締役になってん』とだけいった。
は?えっとそれはどんな会社なの?と聞いたら答えは『知らん』
おい!そんなことあるかい!!
聞けば聞くほど不安にしかならないワードが出てくる出てくる。
『幼馴染の◯◯がいうてたから』
『印鑑だけ貸した』
『詳しくは知らん』
私は恐れ慄いた。印鑑を人に貸すこと自体私にはありえないが、その会社が何をしてるかも知らないなんてことがあるのか?!
会社名を検索した。するとHPが出てきた。
会社の所在地は私たちが住んでいる自宅住所であり、夫は顔写真付きでデカデカと代表取締役と書いてある。
会社の仕事内容は全くの嘘である。そんな仕事誰もしていない。そもそもここ家だし。
つまりペーパーカンパニーである。
もちろんペーパーカンパニーの全てが悪というわけではないだろう。
ただ問題は夫を代表取締役にした幼馴染の意図である。
なぜ幼馴染は夫を代表取締役として架空の会社を作ったのか?
その会社を調べたところ、それなりの資本金を幼馴染が出資して作っていた。
夫は印鑑を司法書士に渡しただけ、と言っており、おいおいそれが大問題や!!といっても理解してはくれなかった。
私は絶望的な気持ちになった。
どうやっても話が通じないのである。
夫は家を出て初めは福島に住んでいた。
何の仕事をしてるの?と聞いてもはっきりと答えないまま数ヶ月が過ぎた。
ある時はまた違う県に住んでいたし、会社を作ったことのない自分でもこれは大変まずい状況にあることだけは理解出来ていた。
その頃、会社の印鑑と通帳に関する書類が私の住んでいる家に届いた。
当時、一時的に働いていた職場の社長と仲が良かったので、株式会社とはどのように作られるのか聞いたりしていた。
私は持病の関係でフルタイム勤務は難しく、基本週3〜4日ほど仕事をし、その他は家事などをして基本的に穏やかに夫と暮らしていたはずだった。
それがなぜ?
結果だけ述べると、夫は借金だけ増やして自宅に戻ってきた。
2022年の冬である。
想像通り幼馴染に騙された形である。
その上私もその幼馴染とは何回もあったことがあった。
人間不信度MAXである。
以前から夫の金銭感覚は私とは違うと言うことは理解していたが、ここまでとは想像できていなかった。
とかく怖かったのは会社の口座などを通してマネーロンダリングに使用されたり、夫自身が知らないうちに悪意ある人たちに利用され、加害者側になっていないかだけが本当に怖かった。
この頃には私は離婚をきちんと考えなければならないと、夫のご実家に私一人でお邪魔したりご相談に乗ってもらったりしていたのだった。
私はこの時期がきっかけで無一文になっていた。
夫が消えた時期、時々夫からお金は振り込まれたが足りず生活が回らなくなり、自分の貯金を使って生活したからである。
2023年火災に巻き込まれ住む場所がなくなる
真剣に離婚を考えつつも、良い時期がなかったわけではない。
夫に感謝していることもある。
しかも夫のご家族はとても優しく話しやすく、家族がいなかった私にとって本当に大きな存在であった。
お母さん、妹さんたち、かわいい姪っ子。
女性陣だけで、みんなでディズニーに行く時も声をかけてくださり、私のチケットまで用意してくれていて本当に感激した記憶や、入院した際には遠くからお母さん、妹さんがお見舞いに来てくれたこと。
年末年始には、そうか、普通の家庭ってこんなに安心できる場所なんだな、と初めての素敵な体験をたくさんさせてくれた人たちである。
夫と離婚すると言うことはそういう縁も途切れてしまうんだな・・とそちらの方が私にはとても辛い事実だった。
けれどもこのままでは私も今後また金銭トラブルに巻き込まれるであろうことは容易に想像がつき、少し仕事を増やして、まずは貯金をして離婚することを考えだしていた。
そんな矢先の2023年6月、夜11時頃である。
何だか部屋が変な匂いするな?と思いベランダを開けてみると階下から煙が見えた。
まずい!と思い急いで走って一階まで降りたところ、その部屋に住んでいたであろうおじいさんが何か言いながらごうごうと燃える炎の前に立ちすくんでいた。
おじいさんの隣に住んでいたと思われる外人が携帯を手に何かしゃべっている。
『OK』とその携帯電話で消防署に通報をした。
その足で、私は同じ3階に住んでいるお婆さんが最近足が不自由になり、車椅子になっていたことが一番に頭に浮かんでいたので、大きな声でドアを叩きながら『火事です!!急いで逃げてください!!』と叫んだ。
ドアはすぐに開き、幸いなことに娘さんも一緒におられた。急いで一緒に部屋を出る手伝いをした。
思っていたより私は有事の際に大声が出る方なんだなとやけに冷静に思いつつ、
お婆さんはこの古いアパートの急な階段を普段のヘルパーさん以外の方に担がれて降りることに恐怖を抱いていた。
当然だと思う。
火事の影響で停電となり灯りがない。真っ暗である。
火はどんどん燃え広がるし、みんな焦っている。
大丈夫ですよ、と声をかけつつも、車椅子はとても重いし、慣れている人でないとむしろお婆さんを怪我させるリスクがある。
どうしようか迷っているうちにサイレンの音が聞こえてきた。
この日ほどサイレンが聞こえてホッとしたことはない。
救急隊員の方が上に登ってきてくれ、お婆さんを軽々と背負う姿に本当に感謝した。
そこで私も急いで一階まで降りたのだが、知らないうちに煙が充満していたようで暗く見えなかったため結構な量吸ってしまった。
これだけでこんなに苦しいんだなと思った。火事はやはり煙が怖いと認識を新たにした。
その後は消火活動が終わるまで事情聴取などがあり、鎮火した部屋に足を踏み入れたがとにかく臭いと煤で部屋が真っ黒である。
途方に暮れながらも誰も大きな怪我をしなかったことで、一先ずの安堵をしつつも今後どうしたらいいのか本気で途方にくれた。
毎回、こう言う時に頼れる実家があればと思ってしまうが、仕方ない。
夫と今後どうするか話し合おうとしたが、なぜか夫は一ミリも燃えた家から出ようとしないのである。
夫には色々な特性があるのだろうと言うことは何となくわかっていたが、『ここから動かない』としか言わなくなってしまった夫と夫婦生活を続けることは私にはどうしても困難だとその日実感せざるを得なかった。
こうして無一文の状態で家が無くなり、その日、離婚も決意したのだった。

DVシェルターから勤務先に通い家を探す
燃えた家はとにかく臭う。恐らく有害物質などが大気中に流れ出ているのだろう。
煤だらけの部屋を掃除したいが、少しいるともう頭痛がする。
ベランダから顔を出し、新鮮な空気を吸い込み部屋に戻る。床を拭けども拭けども真っ黒になる。
手足が真っ黒、家電も、何もかも真っ黒。そして無一文。頼れる親族はゼロ。
でもここから一人で生きていかなくては。
つまりは働かなくては。
すぐに当時の職場に連絡をした。大学病院である。
火事の後、被災者のしおりというものが配られた。
小被災者と呼ばれるらしい私たちは、火事の日を含めた3日間、近くのホテルに無料で泊まれる。
その後は自力で、とのことであった。
三日はすぐである。掃除、罹災証明、やることはたくさんある。
そして無一文の私は仕事をしなければ生活できない。
もはや頼れるものは何でも頼るしかない。
区に相談したところ、DVシェルターに一週間なら泊まれるとのことでトランク一つに詰められるだけ荷物を詰め、シェルターに移動した。
DVシェルターは昔、親が東京まで私を追いかけてきた時に入って以来だった。
火事の翌々日から私はシェルターから勤務先に通った。
しかし、有難いが一週間なんてすぐである。
落ち着く暇もなく、私は次に住む場所を考えていた。
本来ならきちんと家を探しに不動産に行かなくてはならない。
そんな矢先、偶然以前お世話になった会社の社長から久しぶりに連絡があった。
どうやら私の勤務する大学病院にお母様が入院されたとのことで、元気にしてますか?とのメールに私は実は数日前に火事に巻き込まれて困っていることを話すと、なんという偶然か、社長はお母様と暮らすために新しい部屋を借りたので今空いている部屋があるとのことだった。
しかも解約は一ヶ月ほど先とのことで、ここを拠点に勤務しつつ、次の家探しができることになったのである。
本当に感謝である。
ここからの一ヶ月も怒涛で、仕事、前の家の掃除、不動産巡り・・とともに
職場では本当に優しい先生たちが多く、カンパなどもして頂いた。
絵描き仲間や以前の職場など、本当に色んな方から必要な布団や枕、次の住まいが決まってからは家電を購入して頂いたり、ベッドをもらったりと感謝のしようがない程に色々として頂いた。
改めてここでもう一度皆さんにお礼を言いたい。
本当に気に掛けてくださりありがとうございました。
こうして2023年7月半ば、何とか新しい住まいが決まり生活をリスタートさせたのであった。
続く時には続くもの
新しい住まいに荷物が少しづつ届き、ライフラインを開通させた。
ここから一人で再スタートを切るんだ!と心を奮い立たせた頃、テレビが届き何気なく映ったニュースで私が唯一親族で愛した祖母の住まいがあるエリアが大雨の被害により土砂によって埋もれていた。絶望的な画面だった。
まるで私の唯一の愛された記憶まで無くなってしまったように感じて、涙が止まらなくなってしまった。
私は・・
大切な祖母の遺骨をカルトの墓に入れられたくなくて、分骨し、その一部を祖母の家のそばに埋めていた。
今すぐそこに行って骨を掘り出したい気持ちに襲われた。
でも当時の私にできることは何も見当たらず、以前から決まっていた絵のグループ展に私は想いを絵に託して出展をした。
そこからまた少し経ったある日、今度は長らく難病で治療していた友人のお父さんから連絡が来た。
東京から島根に戻ってから初めてのことだった。
つまりその連絡は緊急度が非常に高いことを示していた。
本気で疲れていた。お金もなかった。
けれど、もしかしたらこれでその友人に会えるのは最期かも知れない。
急いで格安の夜行バスを調べた。
そして友人が入院する島根の病院に行った。
生きているとはどういう状態をさすのか?
友人の病気は非常に珍しい病気で、恐らく病名を出せば個人を特定出来てしまうと思うので病名は書けないのだが、症状は非常にALSに近い病気である。
出会った頃は車椅子で酸素ボンベをつけていたが、一人暮らしができるレベルで動けていたし、一緒にご飯を食べたり、直接会話も出来ていた。
ある日ボンベにトラブルがあり、救急搬送されたが、ここからどのくらい生きれるかはわからない、とのことだった。
喉を切開したので会話はできなくなり、少しだけ動く指でマウスを操作してもらい、PCでやり取りをした。
胃瘻となりたまに棒付きキャンディーを含み味を楽しむ、という時間が流れていった。
その後はコロナ禍に突入してしまい、友人はご実家のある島根県に戻っていた。
コロナ禍で私の勤務していた病院も大変で、とにかく全ての人が多くの変化を求められた大変な期間であったと思う。
空港に着き、友人のお父さんが迎えに来てくれていた。
友人の入院している病院に着く。
病室にそっと入った。
友人は数回、脳梗塞を起こしたようで、片方の眼球は取り出され、ガーゼで塞がれていた。
もう片方の眼球はあるものの、完全に瞼が閉じられないため乾燥が酷く、ゴーグルをつけられていた。
胃瘻。動かない収縮した手足・全身。
私は声をかけながら乾燥している友人の手足にクリームを塗ってあげることしかできなかった。
誰も、友人に意識があるのかないのか、わからない状態であった。
生きている、とはどういう状態を指すのか?
改めて考える時間が流れた。
持病のリウマチが悪化し、治療再開
そして季節は冬になった。離婚の話はなかなか進まなかったが、新しい暮らしを始めた私に夫も受け入れざるを得ないと感じ初めているようだった。
元々リウマチの関係でフルタイム勤務すると痛みが酷くなることは想像がついていたのだが、当然ながら働かなくては生活ができない。
しかし持病は他にもあり、頑張れば頑張るほど痛みは増し、医療費が増えるという良くないサイクルになってしまっていた。
幸い勤務先は大学病院なので、仕事をしながら順番が来たら院内PHSで呼んでもらい膠原病内科に診てもらうようになった。
リウマチの進行の仕方は人それぞれで、私は無理さえしなければ酷い痛みにはならないので治療は久しぶりだった。現在の抗リウマチ薬のメジャーなものを使用したのだが、自分にはなかなか合わず副作用に苦しんだ。
そうこうしているうちに新年を迎え2024年を迎えた。
何とか話し合いを続け、離婚届も提出し無事受理され私は独身となった。
久しぶりのうつ病(適応障害寄り)
痛みと副作用が消えないまま仕事を何とか続けていたが、心は限界を迎えていたようである朝突然、本当に突然一歩も動けなくなってしまった。2024の春である。
最初は眼球の痛みや頭痛が酷かったのと、特段自分ではメンタリティの落ち込みを感じなかったのでうつとは思っていなかった。
私は20歳の頃、仲の良い友人をうつ病で亡くし、その後自身がうつ病に罹患した経験がある。そのため余計にこれはうつの症状ではないと思ってしまい、さまざまな病院で検査をして何もないことがわかり、最終的にずっとお世話になっているメンタルクリニックの主治医から『あなたはうつ病です』の言葉によってやっと自分は限界値を超えている、と理解し、休むことになった。
療養しつつ出来ることを始めた
春から夏にかけてはほとんど動くことが出来なかった。
あまりに体調が優れず、ひたすらベッドに横になっていた。
本当にきつい時期だった。
7月過ぎ頃から少しづつ動けるようになり、休み休み、恐る恐る動き出し始めた。
8月頃には友人の工房をお借りして自分の作品のグッズを制作したり、仕事を辞めた自分は何がしたいのかじっくり考えたところ、幼少期の虐待はみんな注目し、ニュースなどでも取り上げられるのに、そこを何とか生き抜いてきた、大人になった虐待サバイバーの後遺症の大変さや、生きづらさはまだまだ認知が低いことを改めて感じ、自身の経験を漫画として書いてみようと未熟ながら漫画をスタートした。
11月・12月には聖徳大学の横井先生のゼミにゲストスピーカーとして参加させていただき、自身の持つ知覚症状の『共感覚』、また『虐待サバイバー当事者』として生徒さんにお話をさせて頂いた。
特にサバイバーとしての体験をこのような場で話したことがなかったので、緊張はしたが、やはりやってよかった!と思うフィードバックもあり、とても嬉しく、充実した時間を過ごさせていただき本当に感謝しています。
2024年を振り返って
ここまで長い文章を書いてしまいましたが、このような一連の流れでうつ病になったことにより、ようやく休むことが出来たような気がします。
もちろん、うつになりたくてなっているわけではないのですが、体がSOSを出してくれたんだと感謝をしてまずはきちんと療養をしながらこれからも無理のない範囲で自分に出来ることをやっていこうと思います。
noteも漫画を知ってもらいたく、はじめたことですが、改めて色んな人がいて色んな考えを知るきっかけとなり感謝しています。
今後もどうぞよろしくお願いいたします!
みなさん、良いお年をお迎えください♪
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大人になった虐待サバイバーの大変さや虐待後遺症について、また認知度向上の活動に使用させていただきます。宜しければ応援お願い致します!