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【アニメ感想】CITY 1話考察 ― “泉わこ”という祈りについて

「推し」という言葉では、とても足りない。 アニメ『CITY』の泉わこは、僕にとってそういう存在だ。

効率と結果ばかりが求められる世界で、彼女の「意味のない」行為だけが、僕たちに「今、ここに在ること」の豊かさを、静かに教えてくれる。

これは、一人の少女の「非物語性」に救われた、僕の魂の記録である。


2025/07/07『CITY一話を見て、泉わこさんを見て。』

 CITYアニメ版を見て、泉わこが好きなことを思い出した。泉わこ、それはあまりにも美しい人間。  
 CITYは『日常』などを手がけたあらゐけいいち原作の京都アニメーションによる新作アニメ。ある街を舞台にした群像ギャグアニメなのだが、CITYの説明は良い。それは見てもらえば済む話である。私が話したいのは、その中の登場人物、泉わこである。

泉わこ

 現在、放映されている第1話での彼女の登場シーンはほんの数分にしか過ぎない。しかし、その数分に全てが詰まっている。この数分間、彼女の身の回りには何も起きない。彼女は、スタンプカードを無くし、しいたけの裏を触り、練り消しをこね、パピコを食べる。仰々しく、数分かけてそれのみを行う。この数分は彼女にとってドラマではない、物語ではない、日常の断片に過ぎない。しかし、その非物語性にこそ泉わこは宿っているのである。

 彼女の特性は、遅さ-感覚性にあると思われる。それは、突如街で止まり、しいたけの裏のひだを触ること、そして、その興味を表に移し、表を撫でる、感傷に浸る、思い出に浸る、その行動にこそ宿っている。この一連の動作は、彼女において祈りになっている。例えば、自分に嫌なことが起きて、世界に私が侵害されそうになったとき、この動作を行う。彼女の中で特別視されるこの動作をする事で、彼女は世界からの侵害を拒絶して、自分の世界を祈ることが出来る。速い世界に対して、遅く、自分の感覚に基づいた祈りを施行することで彼女は世界の主権を握り返しているのだ。

 まどろこしい概念になる為、対置として速く-理智的なものをあげよう。世界である。世界は一大ドーパミン中毒のバカガキ世代で、常に早い情報と論破ゲームを求められる。ドーパミンは、期待-返礼という指向性に訪れる。伸びて欲しいと思ったツイートが伸びたら嬉しい、伸びなかったら次を訴求する。指向性が求められる世界で、行動は次の行動の為の未来の一手であり、速さが横たわっている。

 それに対して泉わこ。泉わこの行為は、その行為そのものに指向性が向いている。行為自体が結果であり、行為自体が目的である。行為は今であり、その時の感覚、そのものが祈りに繋がっている。今が今のために存在している、その為に祈れるのが泉わこである。

 そもそも、『CITY』という作品そのものが、指向性の否定というテーマを含蓄している。前作「日常」においては、タイトルそのものずばりが現在の指向性そのものを指しているし、CITYも、現在を維持するcommunity体系そのものを指していると言える。第1話におけるラストで語られる夢への肯定は、現在への指向性に対する肯定とそのまま置き換えることも可能である。また、アニメーションにおける、平面的な絵の多層化によって奥行きを魅せる技法も、その世界内に閉じている質感を感じさせる上で現在への指向性を感じさせる。下手なことは言わないし、それ以上は本編を是非見ていただきたいが、とりあえず、

泉わこさん、ずっとそのままのあなたでいてください。


(速い世界と、それを切り離す私世界で主権を取り戻す概念については、以下の記事で詳しく語っていますのでぜひ。)


みなさんにも、誰かに見せるためじゃない、ささやかな生活の習慣はなにかありますか?よければぜひ教えて下さい。


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