見出し画像

晴れた日に、その女はびしょ濡れだった。│シロクマ文芸部

晴れた日に、その女はびしょ濡れだった。

八月の太陽が路面を焼くような午後だった。
アスファルトから陽炎が立ち昇り、すれ違う人々はみな薄着で、汗を拭いながら歩いていた。
そんな灼熱の中、女はいた。
黄色いレインコートを、頭からすっぽりと被って。

ぽたり、ぽたり。

女の全身から水が染み出していた。
レインコートの裾から、袖の先から、フードの縁から、絶え間なく水滴が落ち続けていた。
乾いたコンクリートの上に、女が通った跡だけが黒く濡れて残されていく。

顔が、青かった。

フードの奥に覗く顔は、血の気というものが完全に失われていた。
蛍光灯の下の魚の腹みたいな色をしていた。
目の下には紫色の隈が浮かび、唇は薄く開いて、何かをぼそぼそと呟き続けていた。
目だけが、妙に真っ黒でぎらついていた。

誰も、気にしていなかった。

隣を歩くカップルはソフトクリームを食べながら笑い合っていた。
すぐ前の親子連れは子どもが駆け回るのを追いかけていた。
スマホを見ながら歩くサラリーマンが女の真横を擦り抜けても、水滴が肩にかかっても、眉ひとつ動かさなかった。
女の足元に広がる濡れた染みを、誰もが当たり前のように踏んで通り過ぎていった。

女はゆっくりと歩いていた。

ぽたり、ぽたり。

濡れた足跡が、点々とコンクリートに刻まれていく。
女が通った後にだけ、この灼熱の午後に不釣り合いな水の匂いがかすかに漂った。
女の唇は動き続けていた。
同じ言葉を、繰り返しているようだった。
聞こえるか聞こえないかの声で、ずっと、ずっと、何かを繰り返していた。

誰も立ち止まらなかった。
誰も振り返らなかった。
誰も何も言わなかった。

女は濡れていた。
女は青白かった。
女は、この晴れた午後に水を滴らせながら、それでも誰の目にも留まらず、人混みの中をゆっくりと進んでいた。

ぽたり。

ぽたり。

ぽた。




「ちょっと、ほんと最悪。服まで濡れちゃったんだけど」

女の隣に、男がいた。
女と同じように黄色いレインコートを着て、女と同じようにびしょ濡れの男が、当たり前のようにそこにいた。

「この天気だからすぐ乾くよ」

男が言った。

女の顔が、ぱっと明るくなった。
「そうだね」と言って、笑った。
さっきまでの青白さが嘘みたいに、頬に色が戻っていた。

「本日のイルカショーは終了しました〜。」

スピーカーの声に押されるように、黄色いポンチョの列が人混みへ流れ込んでいった。

いいなと思ったら応援しよう!