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花びらを食べたら、全身が赤くなった。│シロクマ文芸部

花びらを食べた。

なぜ食べようと思ったのか、わからない。
わからないが、強いて言えば、あの日の午後は空が薄曇りで、缶コーヒーがぬるく、ベンチの木が腐りかけていて、世界全体がどこかひとつの正解に向かって収束しようとしているような、そういう雰囲気があった。
あの赤い花びらはその収束の、最後の一押しだったのかもしれない。
気づいたときには口の中にあった。
味はほとんどなかった。
青臭さが一瞬あって、消えた。
飲み込んで、帰った。


その夜、風呂上がりに鏡を見たら、自分がトマトになっていた。


正確にはトマトではなく人間の形をしているのだが、全身の色がトマトだった。
顔も、首も、腕も、指の腹まで、均一に深い赤。
熟れきって皮が限界まで張ったような、値段をつけたくなるような赤。
触っても熱くない。
押しても痛くない。
試しに顔を近づけてみたが、においもしない。
ただ赤い。
鏡の中の自分と五分ほど見つめ合ったあと、特に結論は出なかったので寝た。

翌朝も赤かった。
まあそういうこともあるか、と思って会社に行った。


エレベーターで村田と乗り合わせた。
村田の表情が、ドアが開いた瞬間に凍りついた。
何かを言いかけた口が、空中で行き場を失って静止した。
人間の顔がこれほど正直に「言語化不能」を表現できるとは知らなかった。


「おはよう」
「お、おはようございます」


扉が開いた。
二人はそれぞれのデスクに向かった。
村田の「お」が、一日ずっと頭に残った。


向かいの三浦は最初からこちらを見ていて、目が合うとマグカップの中を覗き込んだ。
長く、真剣に覗き込んだ。
コーヒーが何かを教えてくれると思っているような顔だった。
中身はとっくに空のはずだった。
三浦が何を探していたのか、昼になっても夕方になってもわからなかった。 


廊下ですれ違う人間は全員、目が一瞬だけ開いて、次の瞬間には何事もなかった顔で歩いていった。
「大丈夫ですか」と言った人間は、その日一人もいなかった。
言えないのだろうと思う。
何が大丈夫なのか、聞いた方も答える方も困る。
「赤いですよ」なら言えるかもしれないが、それも本人は鏡で確認済みだ。


昼、定食屋で隣に座ったサラリーマンが三分で席を立った。
生姜焼きはうまかった。


帰りに薬局に寄って、「肌が赤くなる症状」に効きそうなものを十分ほど探した。
棚の前に立って気づいたが、薬の箱は赤いものが多すぎる。
自分がどこに立っているのかわからなくなって、何も買わずに出た。
外の空気を吸ったら少し落ち着いた。


三日目には村田が「その書類、赤い手で触って大丈夫ですか」と聞いてきた。
手が赤いだけだ。
「大丈夫」と答えたら、村田は「そうですよね」と言って、それ以来二度とその話をしなかった。
村田なりの着地点を見つけたのだと思う。
人間はたいしたもので、二週間もすれば赤い同僚がいる日常に慣れる。
自分もそうだった。
鏡を見ても、もう特に何も感じなかった。
赤い、で終わった。



節分の夜に豆を投げられた。


住宅街を歩いていたら、玄関先で豆まきをしている一家がいた。
父親と子ども三人。
父親がこちらに気づいて何か言おうとした瞬間、末っ子が叫んだ。


「おに」


確信に満ちた声だった。
疑いがまったくなかった。
議論の余地すらなかった。


「おにだ」と真ん中が繰り返した。
「おにだ!」と長女が叫んで、三人が同時に豆を投げた。


額に当たった。
首に当たった。
コートのボタンの隙間から一粒入って、腹のあたりをころころした。
父親は笑いをこらえるのに全力を使っていて、制止どころではなかった。
走って逃げた。
子どもたちには「家の前から出ない」というルールがあったらしく、角を曲がるまでずっと「おにはそと」と叫び続けた。


コンビニの駐車場でひとり缶コーヒーを飲んだ。
ポケットに手を入れたら豆が二粒入っていた。
長いこと眺めて、捨てた。


鬼か、と思った。
額が少し痛かった。 



翌週の月曜、牛に追いかけられた。


駅に向かう途中、幹線道路沿いに野次馬が集まっていた。
食肉処理場へ向かうトラックの荷台が開いて、牛が一頭、脱走したという。
警官が数人、どう見ても牛より明らかに体格で劣る人間たちが、半円を作って牛を囲もうとしていた。
野次馬がスマートフォンを構えていた。
そういう朝だった。


人垣の隙間から覗いたとき、牛と目が合った。


黒くて大きな目だった。
濡れていて、静かで、何も映していないように見えた。
牛はじっとこちらを見た。
鼻を一つ鳴らして、蹄で地面を引っかいた。
ゆっくりと。
一度だけ。


それで十分だった。


気づいたときには走っていた。
背後に蹄の音が聞こえた。
アスファルトを叩く重い音で、一歩ごとに地面が揺れる気がした。
振り返らなかった。
振り返ったら足がもつれる確信があった。
交差点を右、次の角を左、三ブロック先のコンビニに飛び込んだ。


自動ドアが閉まった。
牛は入ってこなかった。


ガラス越しに外を見ると、牛は道路の真ん中に立って、こちらを見ていた。
動かなかった。
ただ立って、見ていた。
追いついてきた野次馬がまた囲み始めて、スマートフォンを構えた。
何人かは牛ではなく、コンビニのガラスに向けてレンズを向けていた。


そうか、と思った。
牛は何かを見て興奮した。
何かというのは赤いものだ。
この赤い体は、地球上に存在する少なくとも一種類の生物にとって「走れ」という信号になるらしい。


息を整えながら缶コーヒーを買った。
レジの店員は何も言わなかった。
外が静かになって、出た。
警官が捕まえたあとらしかった。


歩きながら、牛のことを少し考えた。
あの黒い目のことを。
処理場に向かうトラックの荷台から降りて、赤い何かを見て走った一頭の牛。
そのあと捕まって、たぶん今日中に連れ戻される。


何も考えなかった。缶コーヒーを飲んだ。



その週の金曜日、また公園のベンチに座っていた。


足元に花びらが落ちていた。
ベージュだった。
どの花から落ちたのか、見回しても木が多すぎてわからなかった。


拾って、口に入れた。


かすかに甘く、すぐに消えた。


帰宅して鏡を見たら、元の肌色に戻っていた。
そういうこともあるか、と思った。
鏡の前に立って自分の顔を見た。
目があって、鼻があって、口がある。
髪は少し伸びていた。
切らないといけないと思って、何もしなかった。



翌朝、村田が「あれ、なんか変わりましたっけ」と言った。


「そうかな」


村田はしばらく考えた。
額に軽くしわを寄せて、こちらを見た。


「髪、切りましたっけ」

「切ってないよ」

「そうですか」


村田はコーヒーを飲んだ。
それで終わった。


窓の外は曇っていた。
午後から雨らしかった。
昼に何を食べようか少し考えて、生姜焼きにしようと決めた。
缶コーヒーを飲んで、仕事を始めた。




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