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わたしの名前は /掌編小説

小説本文:1988文字


ドアの開く音がして、ただいま、と帰ってきたのは同居している父だった。

彼とわたしは慌てた。
わたし達は今まさに、抱き合おうとしているところだった。ソファの上で、わたしはTシャツを脱いでいたし、彼はジーンズを脱いでいた。

「あれ忘れたんや。あれ」

父は言いながら、わたし達のいるリビングに入ってきた。こちらには目もくれず、隣の和室に踏み入り、一心不乱にがさごそと押し入れの中を探っている。

どうやら見られたわけではなさそうだ。
詰めていた息を吐いたわたしは、Tシャツを着直して、父のすぐ後ろに立った。
母が亡くなって5年、父と同居して2年になる。23年前にバージンロードで腕を引いてくれた時には、まだ少し背が高かったはずなのに、いつの間にか見下ろすほど低くなってしまった父の、丸まった背中に向かって言う。

「病院に行くと言ってなかった? まだ出かけて15分も経っていないけれど」

時計をちらりと見上げる。時刻は10時12分。近いとはいえ大きな病院だ。行って薬をもらえば、ゆうに一時間はかかると思っていた。

「あれ忘れたんや。あれ」

父は、同じ言葉をぶつぶつと繰り返す。
振り返って後ろを見ると、彼はジーンズを履き直し、ソファの足元で背筋を伸ばして正座していた。その礼儀正しさがおかしくて、ひっそりと笑う。

「あれって、診察券? マイナンバーカード?」
「ああ、それや。マイなんとか」
「マイナンバーカードなら、あっちでしょ」

言って、私はリビングの出窓に置かれた、プラスチック製の引き出しの方を指さす。

「ああ? そやったか」

父は小走りで彼のそばを横切り、出窓に寄った。
彼の体がコチンと強張るのが分かる。
よかったあったわあったわ、と引き出しを開いた父が妙にはしゃいだような声をあげる。出窓から室内を振り返り、ようやく彼がいることに気付いたように目を開いた。
私は彼と父との間に離れて立ち、胸を少しだけどきどき言わせて二人を見守った。

「悪かったなぁ、圭介くん。急に帰ってきて、せかせかと。また行ってくるわなぁ」

父は、圭介くん、と夫の名前を呼んだ。彼はうつむいていた顔を少しあげ、「は、はあ」と困惑気味に言った。父は子どものように頬を上気させ、照れた笑いを浮かべている。

「予約の時間に間に合うの? 送って行こうか」

私が問うと、父は、
「ええ、ええ。ちょっとぐらい遅れてもええねん。ええ天気やし、歩いていくわ」
と大げさに手振って、出て行った。彼はあっけにとられていた。


「おとうさん、大丈夫なの?」
とやっと口を開いた彼は訊く。

「うん、足腰はしっかりしているから、問題ないと思う」
と私は言い、一度言葉を止めてから、
「……つづき、する?」
と訊いた。

うーんと悩むような仕草のあと、
「今日はやめとこうか。服着ちゃったし」
と彼は言った。気分が萎えたとは言わないところが、彼の優しさだなと思う。

彼とは、中学の同窓会で再会した。昔から私が彼を好きなことは噂になってしまっていたから、恋に落ちるのは簡単だった。私は彼に、今もまた恋をしている。

「そうだね、カズくん。じゃあ、コーヒーでもいれようか」

彼の名前は、芝和樹。屋根の修繕会社の営業で、この家の近所10キロほどが彼の担当区域だ。本当かどうかは分からないけれど、同窓会で会った時にはバツイチだと言っていた。
父が、「圭介くん」と呼んだ夫は、朝の7時半には家を出ていた。今頃は、東京駅のそばの高いビルの中でパソコンを叩いているはずだ。そして、夜遅く、私がベッドに入ったあとに帰ってくる。

「介護してたんだ? そんなこと一言も言ってくれないから分からなかった」
と彼は淹れたてのコーヒーを横に置いて、こちらをのぞきこんだ。

そうねぇと私は言う。
介護というには、それはあまりにも限定的だった。父は、一人で用を足せるし、道で迷子になるようなこともない。
だが、もの忘れは少しずつ出てきている。何度言ってもカードの置き場所が覚えられない。

それから、人の顔が分からないのだ。
父の目にどのように顔が映るのか分からない。名前とうまく結びつかないだけなのかもしれない。けれど、「みっちゃん」と呼び合っていた古くからの友人のことも、同居している圭介のことも、今はもう分からないみたいだ。

ただ、かろうじて一人娘のわたしと、遺影の母のことだけは認識できるらしい。ゆみ、と父がわたしを呼ぶ声が耳の奥で響く。

「それもいつまでだろうね」 
と私はつぶやいていた。

ちゃんと考えなきゃいけない、覚悟を決めなきゃいけないと分かりつつ、のばしのばしにしている。
夫も、彼も知るところとなったこの事実を、だれに相談するかと問われたら、やっぱり「遺影の母に」と私は答えるだろう。そう思った一瞬だけ、泣きたいような気持ちがした。

なに? と訊く彼に、なにもない、と答えると、ほんとうに気持ちは凪いで、わたしは冷めたコーヒーをすする彼をただ見つめた。

(了)


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#今2000字で書けって言われたらどこからの発想で書き始めますか
の企画に参加しました。
こういう企画が自然発生するのもnoteのおもしろいところですね。

昨日見かけたこの企画。
昨日時点では、何も浮かばなかったんですが、今日急に思い浮かびました。

きっかけは、京都に住む父からのLINE。
今年の夏休みは暑すぎる京都をおそれて、帰省しなかったんです。また秋にでも帰ろうかと。
そうしたら、父から「映画『国宝』の聖地巡礼してる」というLINEが写真つきで届きまして。最高気温38度の中、元気だなぁとなかばあきれたわけですが、そうずっと元気なわけでもないかとすぐに思いました。

そんなところから膨らませて、書きました。
楽しい企画をありがとうございます!


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