【作家の日常】《エッセイ》 #13 生活の乱れは文体の乱れ。
正午の鐘はとうに鳴り響き、この部屋において時間の概念は、畳の上にうねる無数の皺と同様に意味を失って久しい。
万年床の古びた敷布団が織りなす空間は、外界の現実から身を隠すシェルターであり、人間の尊厳の緩やかな腐敗を育む湿った深淵であった。
その深淵から上半身を引き起こし、眩しすぎる午後の光を眺める時、俺の内なる精神は奇妙な高揚感に包まれている。
頭の中では未だ形を持たぬ言葉たちが冷徹な美しさを伴って旋回し、俺は文学という名の不毛な荒野において極めて高潔な思索のなかにいた。
薄汚れた天井の木目を見つめながら、俺は今、誰にも邪魔されない思考の宇宙を遊泳しているという絶対的な錯覚に酔いしれている。
しかし、精神がいかに高潔の極みに達していようとも、それを支える肉体という名の器はあまりにも卑俗であった。
精神が宇宙の真理を捉えようと足掻くその足元で、胃袋はただ不躾な空腹を絶叫している。
この肉体という呪縛から逃れられない限り、いかに魂を高めようとも滑稽な泥芝居に過ぎないというのに。
かつての文豪は「書くことは削ることなり」と嘯いたが、今の俺が削り取っているのは自らの寿命か、それとも残り少ない預金残高の端数か。
削るべきは無駄な修辞のはずが、現実に削られているのは生活基盤そのものであるという皮肉に、乾いた笑いがこみ上げる。
本来なら銀の匙で掬う繊細なコンソメか、枯淡の極みたる塩むすびこそが相応しいはずなのだ。
言葉を紡ぐ者の食卓かくあるべきという妄想だけは、一丁前に膨らんでいく。
しかるに、震える指先が掴み取ったのは、安売り店で買い溜めた毒々しいほどの橙色の粉末を纏う「超極辛カップ麺」であった。
いざ目の当たりにすれば、高尚な理想など一瞬で霧散し、ただ強烈な赤みが網膜を焼き付ける。
電気ケトルが断末魔の呻きを上げて沸騰を告げ、容赦なく熱湯を注ぐ。
立ち昇る湯気とともに漂う化学的な刺激臭は、ロマンチシズムのかけらもない工業製品の匂いだ。
重石代わりにしたのは、数行の虚無が綴られたタブレット端末だ。
画面の向こうに広がるネットの海には無限の情報があふれているというのに、目の前にあるのはただ一つの空虚だけ。
三分間。
この短い時間に内なる深淵と対峙するはずが、鼻腔を支配するのは高尚な哲学ではなく、化学調味料が織りなす暴力的なまでの香辛料の叫びであった。
待っている間の時計の針の遅さに、自分の内面の浅はかさが露わになる。
いざ箸を割り、縮れた麺を啜り上げれば、喉を焼く熱情が脳髄を直撃する。
これこそが現実という荒野を生き抜くための唯一の燃料なのだ。
上品な味わいなどという幻想を容赦なく踏みにじり、ただ痛覚と満腹感だけが脳を揺さぶる。
右手に箸を持ち麺を胃袋へ流し込む一方で、左手の指先は浮かんでこない語彙を追い求め空を掻く。
虚空を彷徨う指の滑稽さは、まさに今の俺の人生そのものだった。
眼前に広がるのは散乱したコンビニのレジ袋と冷めたコーヒーの惨状だ。
足の踏み場もないこの部屋の惨めさが、そのまま俺の精神の荒廃を物語っている。
生活の乱れは即ち文体の乱れに他ならない。
一文は長く句読点は意味をなさず、ただ胃壁を刺激するカプサイシンの余韻に思考は千々に乱れていく。
綺麗事を並べ立てたところで、結局のところ、人間はこうして下世話な欲望の処理に追われるだけの存在なのだ。
これこそ現代における放浪の美学と言わずして何と呼ぼう。
誰も歩かない泥濘んだ道を、一人カップ麺の汁を啜りながら進むこの姿勢を、誰が否定できようか。
空になった容器を眺めれば、赤い飛沫が飛び散った生活の残骸が虚しく横たわっている。
その朱色の染みは、まるで敗北の証拠のようにも、あるいはささやかな生存証明のようにも見えた。
喉の渇きを潤すために水を煽り、俺は再び万年床へと沈み込む。
胃袋の重みと引き換えに全身から力が抜け、畳の冷たさが背中を通じて心地よく伝わってくる。
腹の中で麺が膨張し心地よい倦怠感が襲う中、「さて、次はどんな崇高な悲劇を書こうか」と自分に都合のいい嘘を吐く。
どうせまた、現実から目を背けてくだらない妄想にふけるだけの夜がやってくるというのに。
窓の外で夕刻のチャイムが鳴り響き、街の営みが慌ただしく暮れていく。
結局、今日一行も書いていないという残酷な事実に気づくのは、もう少しだけ先の話である。
