【作家の日常】《エッセイ》 #12 空蝉の行進。
薄暗い書斎の隅で、俺は冷え切ったコーヒーを啜りながら、画面の中に広がる広大な荒野このnoteという名の電子の海を眺めていた。
指先ひとつで接続される、無数の灯火。
そこには、言葉という名の網を投げ打ち、必死に何かを掬い上げようとする者たちの群れがあった。
しかし、その網の目はあまりにも粗く、あるいは逆に、獲物の選別など端から眼中にないかのように、無機質な機械の拍動だけが繰り返されている。
「フォロバ100」
その文字列を目にするたび、俺は形容しがたい寒気に襲われる。
それは、自らの意志を放棄し、数という名の虚飾に縋り付くための合言葉か。
書き手であるはずの彼らが、なぜ自らの首にそうした呪文を刻み込むのか。
彼らは、自らが綴る言葉の質量を信じていないのだろうか。
あるいは、言葉とは単なる記号に過ぎず、ただ誰かの承認という名の数字を積み上げるための、無味乾燥なレンガに成り果ててしまったのか。
画面をスクロールする。
そこには、「スキ」という名の拍手が、まるで機械の自動制御のように無数に並んでいる。
内容を読み、心を通わせるという儀式は失われ、ただ自身の存在を誇示するための足跡が、無秩序に散りばめられている。
あたかも、誰もいない砂浜に、意味のない線を無数に引いて回る子供のような。
しかし、彼らの目は少年のそれではない。
そこには、数字という名の魔物に憑かれた、深い空虚だけが横たわっている。
「大物」になりたいのか。
誰もが、自らの立ち位置を相対化し、フォロワーの数という歪な鏡で自らを測る。
その鏡に映る姿は、等身大の人間などではない。
過大に膨らまされた影であり、虚勢という名の厚化粧を施された虚像である。
言葉を紡ぐという行為は、本来、自己の内部にある暗闇や、名付け得ぬ痛みを、他者という鏡を通じて解き放つ作業ではなかったか。
それなのに、彼らは何のために筆を執るのか。
表現者とは何か。
俺は、画面の向こう側の彼らに問いたい。
君たちが執拗に繰り返すそのクリックの連打は、君たちの魂を震わせているのか。
君たちが日々積み上げる数字は、君たちの明日の孤独を埋めることができるのか。
かつて、名もなき先人たちは、ただ独り、紙の白さと対峙し、己の血をインクに変えて言葉を刻んだ。
そこには数字など存在せず、ただ、世界と自己との間の、静かな闘いがあっただけだ。
今のこの電脳の世界には、その孤独を恐れる者たちの、耳を塞ぎたくなるような喧騒がある。
彼らは、孤独を埋めるために書いているのではない。
孤独から逃げ出すために、群れを成しているのだ。
俺は、ふと溜息をつき、noteを閉じた。
窓の外には、街の明かりが冷ややかに瞬いている。
彼らは皆、何者かになろうとして、何者でもない砂粒へと還っていく。
表現することとは、他者からの喝采を求めることではなく、誰にも理解されずとも、己の内なる核に向かって深く沈潜していく作業のことではないか。
もし、言葉がただの通貨に過ぎないのなら、俺はその金貨を道端に捨ててしまいたい。
数字の重さなど、死ぬ間際には一片の紙屑ほどにもならぬというのに。
彼らの書く文字は、あまりにも明るすぎ、あまりにも軽すぎる。
その輝きは、自らの内に潜む影を隠すための照明に過ぎない。
俺は再び冷めたコーヒーを口に運んだ。
電脳の海の底に沈んだ俺は、ただ静寂を愛する。
表現者という言葉の重圧に耐えかね、数という麻薬に溺れる彼らを、俺は軽蔑するのではない。
ただ、底なしの哀れみを感じるのだ。
彼らは、本当の自分と向き合う勇気がない。
言葉という名の海を泳いでいるようで、実は岸辺から一歩も動けずにいる。
波に洗われ、砂に埋もれ、それでもなお、数字という幻影を数え続ける。
明日の朝、陽が昇れば、また新たな「フォロバ100」が、誰かの画面に灯るだろう。
俺はその灯火を見ないようにして、静かに眠ることにする。
たとえ誰にも届かなくとも、たとえ誰からもスキを押されずとも。
言葉は、ただそれだけで、そこに存在する意味がある。
彼らが数字を数える間に、俺は言葉の冷たさを数えよう。
それが、表現者として、人として、この濁った時代を生き抜くための、最後の矜持なのだから。
