見出し画像

川の街リュオーレの物語⑮ 第8話 時計師

雨が続くと、時間が遅くなる。
あの人には、うまく伝わらなかった。
でも私は、いつもそんなことを気にしている。
 
ボッフェンから帰ってくるのは二年ぶりだ。
空気が乾いた街から、川が流れる街へ。
皮膚が喜んでいるのがわかる。
 
フロッカは、上着のポケットからそっと懐中時計を取り出した。
 
もうじき着くだろう。
 
乗合馬車の揺れに身を任せ、徐々に緑の度合いを増していく
街道沿いの景色に目をやった。
 
馬車の屋根を雨が叩き始めた。
そういえば、傘のことを考えていなかった。
ボッフェンでは、ほとんど使うことがないから。
 
新市街の広場から家までは、歩いてすぐだ。
それでも、全身が濡れた。
 
懐中時計だけは濡らさないように、
馬車を降りる前に油紙を重ねて懐にしまった。
自分が作った、初めての小型時計だ。
 
戸を開け、帰ったよと奥に声をかけた。
野菜スープの匂いが漂ってきた。
 
濡れて帰ってくるとわかっていたのだろう。
入り口には布が何枚か置かれている。
顔、髪、服と順番に拭き、室内用の履き物に替えて奥へ進んだ。
 
「早かったわね」
母さんが暖炉のそばから顔を上げた。
熱した炭をアイロンに入れようとしているところだった。
 
隣では鍋がコトコト煮立っている。
 
母さんの膝元に、白いシャツが二枚置かれていた。
大きい方は、父さんが着るものだ。
そして小柄な方は……。
 
「お父さんがね、フロッカの分も準備しろって」母さんがシャツを持ち上げた。
「これから、時計師の仕事をしていくんだもんね。」
 
こそばゆいような気持ちになった。
何か言おうとしたけど、口がうまく動かない。
 
代わりに、好きなスープの香りを吸い込んだお腹がクゥと小さな音を立てた。
 
父さんと顔を合わせたのは、次の日の朝だった。
久しぶりの実家に安心したのか、フロッカは夕食を食べてすぐ寝てしまった。
 
父さんは、もう仕事用の服に着替えていた。
 
「準時計師の認定証、見せてもらったよ。おめでとう」
メガネの縁を指でつまみながら、声をかけてきた。
表情はにこやかだが、髪には白髪が増えている。
「忙しくなるんじゃないか?」
 
「まあ・・・・・・」
フロッカは、視線を避けるように下を向いた。
父さんの細くて長い指は、変わっていなかった。
 
「リュオーレでは、時計を直すことしかできないけどな」
仕事先を見に来るか、という誘いを
今日はゆっくりしたいとフロッカは断った。
 
雨はまだ続いている。
評議会館の時計を見てくると言うと、母さんが「何日か、降るかもね」と傘を差し出してくれた。
 
こんな天気でも、広場に向かう細道を多くの人が行き来している。
今日は定期市だったな。
頭の中で暦表の日付を思い出した。
 
ボッフェンの市場と比べたら、ささやかなものだ。
でも、無理に物を売りつけようとして来ないのがいい。
 
建物の軒下に、黒っぽい大きな猫が寝そべっていた。
 
苦い香りの飲み物を屋台で買い、
足元を濡らさないよう注意しながらフロッカは評議会館を見上げる場所へ向かった。
 
リュオーレで一番高い建物だ。
三階の上に、鐘のための塔が突き出ている。
その外壁に、大きな時計が据えられていた。
 
しばらくしたら、正午の鐘が鳴らされるはずだ。
 
時計は、正確なほどいい。
養成所で徹底的にそう教え込まれた。
 
そして作り上げたのが、あの懐中時計だ。
 
でも、どこまで正確さを追い求めるべきなんだろう……。
 
視線を下げた先に、日時計があるのに気がついた。
誰も見向きもしないその日時計に、フロッカは歩み寄った。
 
評議会館の大時計だって、年に二回、この日時計で時間を合わせている。
 
大時計の針が正午を指した。鐘楼の人影が鐘を鳴らす。
雨の向こうから、その音色が届いてくる。
 
フロッカはポケットから懐中時計を取り出した。
 
銀色の蓋を開けると、チャリッ、と小さな金属音がした。
この音を出したくて、作るとき何度もやり直した。
 
懐中時計の針は、大時計よりかなり遅れていた。
 
やっぱり。
 
二日前、ボッフェンを出るときに時間を合わせた。
それなのに、もうこんなに遅れてしまったのは。
多分、雨だ。
 
からっと晴れた日が年中続くボッフェンで育ったあの人には、
この感覚はわからないかもしれない。
でも、少し想像してみようと思ってほしかった……。
 
父さんが家に帰ってきたのは、夕方だった。
仕事着のシャツを脱ぐ前に、フロッカは時計を見てほしいと伝えた。
じゃあ、おいで。
父さんは、家の裏手にある修理工房にフロッカを招き入れた。
 
ここに来るのは、子どもの頃以来だ。
時計師を目指すと決めたとき、養成所を終えるまでは入らないことにした。
 
ランプが三つ灯される。
ああ、そうだったと記憶がよみがえる。
 
でも、思っていたより工房が少し狭く感じた。
 
評議会館で日没の鐘が鳴らされたようだ。
澄んだ音色がひととき、雨音を覆い隠す。
 
フロッカは明かりに照らされた作業台に懐中時計を乗せた。
 
「私が、作ったんだ」と言うと
父さんの顔に笑みが浮かんだ。
 
「どれ、見せてごらん」
メガネをかけ直して、顔を時計に近づける。
これが懐中時計か、とつぶやく
表情は、真剣な職人のものになっていた。
 
表の蓋を開け、盤面と針の動きをしばらく眺める。
 
ぜんまいを軽く巻き上げ、感触を確かめた。
 
そして、時計を裏返した。
 
小さな切り欠きに工具を差し込み、裏蓋を開ける。
父さんの手つきにためらいはなかった。 
 
時計の内部がランプの光で浮かび上がる。
父さんは、メガネを外してさらに顔を近づけ、歯車の動きをじっと見つめた。
 
見てほしいのに、気恥ずかしい。
フロッカは思わず目をそらした。
 
どれぐらい経ったか、わからない。
父さんが静かに裏蓋を閉める音が聞こえた。
 
続いて、表蓋を開けるチャリッ、という音。
「うん、いいな」つぶやくような声が聞こえた。
 
「いい時計だ、フロッカ」
今度ははっきり聞こえる声で、父さんがそう言った。
 
「……ありがとう。
でもこの時計、こっちに来たらすごく遅れてしまって……」
そう返すのが、精一杯だった。
 
「ちゃんと動いている。問題ない」
もう一度表蓋を開け、針の回転を確かめながら父さんが続けた。
「まだ、こっちの空気に馴染んでないだけかもしれんな」
 
時計が、街に馴染む。
 
そんなことが、あるのなら。
 
私が作りたいのは、
ボッフェンで教わった時計とは、少し違うのかもしれない。
 
そうだとしたら……。

父さんが、作業台のランプを消していく。
 
「しばらく、うちにいていい?」 
 
小さいけれどはっきりした声で、フロッカは言った。
 
外では、雨が同じ調子で降り続いていた。


続きを読む



リュオーレの物語は、少しずつ続いていきます。
各話への道しるべは、こちらから。

リュオーレの物語 道しるべ|湖上珊歩