「パンデミック」の「罪」とは?〜『ツミデミック』感想
早くも10月の上旬が過ぎようとしている。ここでまた本の話をしよう。
一穂ミチ『ツミデミック』(光文社)。第171回直木賞受賞作で、6つの短編からなっている。タイトルの「ツミデミック」とは、「パンデミック」と「罪」を掛け合わせた作者の造語だ。タイトルの通り、新型コロナのパンデミック下で起こった犯罪=事件を描いている。それぞれの物語に関連性はなく、ただ「パンデミック」と「罪」がベースになっていることが共通点だ。
通読して感じるのは、案外「パンデミック」の影が薄い、ということである。確かにどの話も「パンデミック」下にあった人々を主人公にしている。ただ、そこで起きる犯罪は、「パンデミック」下だったから起きた、という必然性が弱い。また、あの今から思えばどこか異常な空気感が、作品の隅々まで行き渡っているかというと、そうともいえない。それは、普通の状態(「パンデミック」ではない状態)の下でも起きるのではないか、と思わせるエピソードが多いためだ。世界を覆った「パンデミック」の重苦しさや閉塞感、それが「普通の」人間の心理に影響を及ぼす。波紋のように広がっていったそれが、やがて小波となり、大波となり、うねりとなって、人間を飲み込んでいく。そういうダイナミズムが感じられず、「『パンデミック』に題材をとった、うまくできたお話」にとどまってしまっているように思えた。
唯一、そういう「暗さ」「重々しさ」を登場人物や設定に感じられたのは、最後に収められている「さざなみドライブ」という短編だ。
(以下、ネタバレあり)
ツイッター(現X)で集められた初対面の男女5人。郊外の閑散とした駅に集合し、幹事役の男性が運転する車で山の中に入っていく。実はこの5人、「パンデミックで人生を壊された人」という条件で、集団自殺に応募してきた人達だった。緊急事態宣言下で、友人の居酒屋で飲み会をして炎上し、干された俳優や、自分の容姿に極端な嫌悪感があり、パンデミック中はマスクなどで隠せていたのが、パンデミックが明けてそれができなくなった小学生、パンデミック中の苦しい時に、にマスクや消毒を周りからねだられて、人間がほとほと嫌になったという看護師、といった面々だ。
そして主人公は、売れない作家。子供の頃、そして学生時代、自分の才能をからかわれ、軽んじられた時に逆上して、勢いで書き殴った小説の通りになり、怒りの対象が酷い目に遭ってしまうという経験をした。そして同じように、自分を軽く扱った編集者への腹いせに、世界中にパンデミックが巻き起こり、編集者も罹患する、という小説を書いたところ、実際にパンデミックが起きてしまった。主人公自体は、自分の書くものを制御する力はない。だから、この先もっと酷いことを書いてしまって、とんでもないことが起きる前に…、と考えたのだった。
こうしてみんなが身の上を語っているうちに、車は決行の場所に着く。しかし、そこには既に、窓に目張りがされた「先客」の車が。車内の惨状を目にした幹事が、今回の集団自殺の「無期限の延期」を提案。参加者全員もそれに同意するのだが…。
この後にどんでん返しがあるが、この展開は、まさに「パンデミック」が人間に落とした暗い影を象徴している。それまでの5話と比べて、それが人間の深い部分まで到達しており、その犯罪を行わせる原動力となっているであろうことが想像される。ただ、そうであれば、やはり犯人(ここでは幹事だが)の影の部分をもっと書き込んで欲しかった。1本の長さが短いので、あまり深掘りもできなかったのかも知れないし、やり過ぎるとバランスが取れなくなるので難しかったのだろうが、物足りなさを感じてしまう。直木賞を取ると言うことは、エンタメの要素が強いため、犯罪でもパンデミックでも、程よい重さや、ある程度以上深追い(深掘り)しない姿勢、読者が受容・消化しやすい柔らかさで料理することが求められるのだろうか。そうでない硬派なものは、純文学である芥川賞の文学に委ねるということなのか。
思うに、作者の「パンデミック」に対しての考察が浅い。人間に、そして社会に、どんな影響を及ぼしたのか。その結果社会は、人間はどう変わり、何が変わらなかったのか。炙り出されたものは何か。そういったことを、もっともっと突き詰めてから、物語に落とし込むべきではなかったか。
犯罪が絡んだ小説にしては、後味は悪くないし、読みやすくもある。しかし、それでいいのか。せっかく「パンデミック」と「犯罪」の接点(交点)を題材にしながら、どうにも食い足りない、パンチが効かない、勿体無い小説という印象が残った。

