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結局、『寄生獣』はなにがそんなに凄かったのか?ー 30年以上経っても名作であり続ける理由を、もう一度読み返して考えた

 

『寄生獣』が好きだ。

昔から好きな漫画を聞かれたら、
かなり上位に名前を挙げる作品だし、
人にも何度もおすすめしてきた。

でも、改めて考えてみると不思議だった。

「じゃあ、『寄生獣』の何がそんなに凄いの?」

そう聞かれたとき、意外とうまく説明できない。

ストーリーが面白い。

キャラクターがいい。

ミギーが好き。

泣ける場面もある。

もちろん全部そうなんだけど、
それだけでは自分がこの作品を
ここまで好きな理由を説明できていない気がした。


そこで今回、
久しぶりに『寄生獣』を
最初から最後まで読み返してみた。


しかも今回は、ただ読むだけではなく、


「なぜこの場面が好きなんだろう?」

「なぜここで心が動くんだろう?」

「この場面は作品全体で何を意味しているんだろう?」


と、気になったところで何度も立ち止まりながら読んだ。


すると、昔は「ここ好き」「ここ泣ける」「このキャラかっこいい」で受け取っていた場面が、驚くほど一本につながっていることに気づいた。


そして読み終えた今、改めて思う。


やっぱり『寄生獣』は、とんでもなくよくできた漫画だ。



今回は、

「結局、『寄生獣』は何がそんなに凄かったのか?」

を、自分なりに整理してみたい。



『寄生獣』とはどんな漫画なのか


『寄生獣』は岩明均による漫画作品。

1980年代末から発表が始まり、
その後『月刊アフタヌーン』で連載。
1995年に完結した。

1993年には第17回講談社漫画賞一般部門、
1996年には第27回星雲賞コミック部門を受賞している。

物語の主人公は高校生・泉新一。

ある日、正体不明の寄生生物に襲われる。

本来なら脳を奪われるはずだったが、
寄生に失敗したその生物は、
新一の右手に宿ることになる。

新一はその生物を「ミギー」と名付ける。

一方、人間の脳を奪うことに成功した
他の寄生生物たちは、
人間の姿で社会に紛れ込みながら、人間を捕食していた。

こうして、

人間である新一と、右手に寄生したミギー。

奇妙な二人の共生生活が始まる。

設定だけを説明すれば、
SF・ホラー・バトル漫画のようにも見える。

実際、そういう漫画として読んでもめちゃくちゃ面白い。


でも『寄生獣』を、

「人間と、人間を食べる怪物が戦う漫画」

と説明すると、おそらくこの作品の半分も説明できていない。


講談社の作品紹介にもある通り、
この漫画がずっと問い続けているものの一つが、

「人間とは何か?」

だからだ。




※ここから先は物語の核心・結末まで触れます


『寄生獣』をまだ読んでいない人には、
できればここで一度読むのを止めて、
先に作品を読んでほしい。

ここから先は、最終話まで含めて書く。

ただ、まだ読んだことがない人に一つだけ伝えるなら、


30年以上前に完結した漫画だからという理由で、
読む候補から外すのは本当にもったいない。

それだけは言っておきたい。



結局、『寄生獣』は何がそんなに凄かったのか?


最初は「人間 vs 寄生生物」だった


物語が始まった時点では、世界はかなり分かりやすい。

人間がいる。

そして、人間を食べる寄生生物がいる。

人間から見れば、寄生生物は明確な「怪物」だ。

しかもミギー自身も、
人間とはまったく違う価値観を持っている。

ミギーの基本原理は合理的だ。

何より優先するのは自分の生存。

人間社会の倫理や道徳より、
「自分たちが生き残れるか」を基準に判断する。

だから新一とミギーは、
同じ身体を共有しているのに価値観がまったく違う。

新一は人間。

ミギーは寄生生物。

最初はその境界がはっきりしている。

でも考えてみれば、

人間と寄生生物を同じ身体に入れた時点で、
『寄生獣』はその境界を壊す準備を始めていた。

ここから二人は、少しずつ変わっていく。



母親編 ― 「人間だった新一」が壊れる


『寄生獣』を語るうえで、母親編は外せない。

新一の母親が寄生生物に殺され、その身体を奪われる。


そして新一の前に、

「母親の姿をした寄生生物」

として現れる。

頭では分かっている。

目の前にいるのは、もう母親ではない。

それでも新一は攻撃できない。

ここですでに面白い。


生物学的には別の生命体。

でも新一の目には母親に見える。

では、

「その人」をその人たらしめているものは何なのか。

身体なのか。

脳なのか。

記憶なのか。

関係なのか。

この後、作品の最後まで続いていく問いが、すでにここにある。


そして新一は致命傷を負い、ミギーによって救われる。

ミギーの細胞が新一の全身へと散る。


それ以降、新一は明らかに変わる。

身体能力が上がる。

判断も冷静になる。

その一方で、以前のように感情を表へ出せなくなる。


泣きたいはずなのに泣けない。

周囲からも、

「泉くん、変わった」

と言われる。


つまり母親編で起きたことは、
単に「主人公の母親が殺された」という悲劇ではない。


人間だった新一の中に、寄生生物的なものが入り込んだ。


物語開始時には明確だった、

人間|寄生生物

という境界が、新一自身の中で崩れ始める。



死んだ犬をゴミ箱へ捨てる


新一の変化を象徴する場面の一つが、死んだ犬のシーンだ。

道端で死んでいる犬。


以前の新一なら、
その死に感情を動かされていたのかもしれない。

でも変化した新一は、犬の死体をゴミ箱へ捨てる。


死んだ以上、それはただの死体。


合理的に考えれば間違っているとも言い切れない。

でも、人間として見ると何かがおかしい。

この場面を最初に読んだときは、

「新一から人間らしい感情がなくなってしまった」

ことを見せるシーンに見える。

実際、それだけでも成立している。


でも最後まで読むと、この犬の意味まで変わる。

この作品は、こういうことを何度もやってくる。



新一とミギー ― 逆方向から近づいていく二人


母親編以降、新一は少しずつ寄生生物側へ近づいていく。

感情より合理性。

冷静な判断。

高い身体能力。

ところが面白いことに、
同じ時間を過ごすミギーは逆方向へ進んでいく。


最初のミギーには、人間の感情がほとんど理解できない。

でもミギーは、とにかくよく学ぶ。

本を読む。

テレビを見る。

新一を観察する。

人間を観察する。

そして新しい情報が入るたびに、自分の認識を更新していく。


新一が寄生生物へ近づく一方で、

ミギーは少しずつ人間を理解していく。


ここで大事なのは、
ミギーが別人になっていくわけではないことだと思う。

最後までミギーはミギーだ。

合理的だし、新一と価値観が違うこともある。


だからこそ、新一の

「いつまでたってもミギーだな」

という感覚がすごくいい。


変わることと、ブレることは違う。

核を残したまま、
経験によって考え方を更新していく。

『寄生獣』のキャラクターは、
この変化の描き方が本当にうまい。



田村玲子 ― 「人間とは何か?」を怪物側から考える


そして、『寄生獣』の中でも特に好きなのが田村玲子だ。


最初は田宮良子として登場する寄生生物。

彼女は他の寄生生物とは明らかに違う。

人間に興味を持つ。

人間社会を観察する。

大学の講義を受ける。

人間について考える。


そして、

「自分たちは何のために生まれてきたのか」

という、自分たち自身の存在まで問い始める。


さらに田村は、人間との間に子どもを作る。

最初は実験に近かったように見える。

寄生生物同士が人間の身体を使って子どもを作れば、何が生まれるのか。

生まれたのは普通の人間の赤ん坊だった。


でも重要なのは、その後だ。

赤ん坊と生活する。

人間と関わる。

観察する。

経験する。

その中で、田村自身が変わっていく。


「……うらやましい」


今回読み返して、妙に引っかかった言葉がある。


田村玲子の、

「……うらやましい」

という言葉だ。


この「……」がすごくいい。


人間同士の関係を見ながら、
田村の中に何かが生まれる。

でも本人にも、それが何なのか
完全には分かっていないように見える。

人間についての知識を得ただけではない。


人間と関わった結果、

自分の中に今までなかった感情が生まれている。

田村は人間を研究していた。


でもいつの間にか、
研究対象である人間との関係によって、
研究していた自分自身が変化している。


ここが本当に面白い。



田村玲子は「人間になった」のか


田村玲子を見ていると、

「寄生生物だった田村が、人間らしくなった」

と言いたくなる。


でも、たぶんそれだけではない。

田村は最後まで寄生生物だ。

人間とは違う。


それでも、人間との関係によって
今まで持っていなかったものを獲得していく。

そして最後には、警察に囲まれながら赤ん坊を守る。

自分の身体を盾にして。

合理性だけで考えれば説明しづらい行動だ。


ここで「寄生生物だからこう」「人間だからこう」という最初の分類が、完全に怪しくなる。


母親編は終わっていなかった


田村玲子の最期。

ここは今回、改めて読んで涙が出た。

田村は赤ん坊を新一に託す。

その姿を見た新一は、自分の母親を思い出す。

子どものころ、自分を守って母親が火傷した記憶。


そして、

新一に涙が戻る。

ここで気づいた。

母親編は、あそこで終わっていなかった。


母親を寄生生物に奪われた。

その出来事をきっかけに
ミギーの細胞が全身へ散り、新一は泣けなくなった。


つまり、

寄生生物によって、新一の「人間らしさ」が壊れた。

ところが、その後。


人間を研究し、子どもを産み、
母親になった寄生生物・田村玲子の死を見て、
新一は再び涙を流す。


人間性を失うきっかけを作ったのは寄生生物。
その人間性を取り戻すきっかけを作ったのもまた、寄生生物だった。


この構造に気づいたとき、

「どんだけよくできてんねん、この漫画」

となった。


初読なら、どちらも単独で強烈な場面として成立する。

でも後から見ると、一つの大きな流れになっている。

『寄生獣』にはこういう場面が本当に多い。



「よっぽど手ごわいじゃないか」


田村玲子の最期でもう一つ好きなところがある。

人間について考え続けた田村が、
最後まで人間を簡単には理解できない。

研究しても、観察しても、実際に関わっても、
すべては分からない。

それでも向き合い続ける。

その姿勢そのものが、この作品全体と重なって見える。


『寄生獣』は、

「人間とはこういう生物です」

と簡単に答えを出す作品ではない。


むしろ、

考えれば考えるほど分からなくなる。

でも、だから考えることをやめない。

人間という存在は、よっぽど手ごわい。



広川 ― 「寄生獣」とは誰なのか


物語が進むと、「人間とは何か?」という問いは
個人から種全体へ広がっていく。

その象徴が広川だ。

寄生生物たちと行動し、市長となった男。

当然、読者は彼も寄生生物だと思う。


でも違う。

広川は人間だった。


そして人間である広川が、人類そのものを批判する。

人間は増えすぎた。

他の生命を殺す。

環境を破壊する。

地球全体から見れば、


むしろ人間こそが「寄生獣」なのではないか。


ここでタイトルの意味が一度反転する。


物語開始時、

「寄生獣」と呼びたくなるのは、
人間を食べる寄生生物だった。

でも、人間も他の生命を食べる。

大量に殺す。

環境を変える。

では、どちらが怪物なのか。


ただし、『寄生獣』はここで、

「人間こそ悪だった」

という単純な答えにも行かない。


広川の思想もまた、
この作品が提示する一つの視点にすぎない。

物語はさらに先へ進む。



後藤 ― とにかく強い


そして後藤。

これはもう単純に、

強い。かっこいい。


思想とか一回置いといても、
普通にラスボスとしてめちゃくちゃ魅力がある。

複数の寄生生物を一つの身体に宿し、それを統率して戦う。

新一とミギーでは、
まともに戦って勝てる相手ではない。


ここで出てくる考え方が、

戦いは単純な兵力だけでは決まらない。

勝てる可能性を探す。


そして新一は、一人で後藤へ向かう。

「臨機応変にね」


後藤との決戦前。

新一が出会った老婆が言う。

「臨機応変にね」

この言葉がすごく好きだ。


新一は覚悟を決めている。

でも「覚悟を決めた」と「決めた行動を最後まで貫く」は同じではない。

状況は変わる。

情報も増える。


だったら手段も変えていい。

目的は生きること。

最初に決めた方法を守ることではない。


言い換えるなら、

目的は固定しても、手段まで固定する必要はない。

これが後藤戦でそのまま実践される。



「やらなけりゃ確実な0だ」


新一は後藤を倒す方法を探す。

でも、そんな都合のいい必勝法はない。


目の前にあるのは、その辺にあった鉄棒。

これが効く保証なんてない。

失敗すれば死ぬ。

それでも新一は動く。

なぜなら、

やらなければ可能性は確実に0だから。


この考え方もすごく好きだ。


「正解が分かったから行動する」ではない。

観察する。

考える。

仮説を立てる。

使えるものを探す。

それでも答えは分からない。

でも、行動しなければ可能性が0になる局面では、不確実なまま動く。


そして結果を見て、また判断する。

老婆の言った「臨機応変」が、
精神論ではなく戦闘そのものとして描かれている。



後藤の「強さ」が、そのまま弱点になる


さらに後藤戦の決着がうまい。

後藤の最大の強みは、


複数の寄生生物を一つの身体として統率できること。


一体の生命では実現できない
圧倒的な戦闘能力を持っている。

ところが毒によって統率が乱れる。

すると、後藤を構成していた寄生生物たちが反乱する。


つまり、

複数の生命で構成されているから強かった。

でも同時に、

複数の生命で構成されているから崩壊した。


最大の強みと最大の弱点が同じところにある。

新一が純粋な戦闘力で後藤を上回ったわけではない。

後藤というシステムそのものが内部から崩れた。

バトル漫画として見ても、この決着は本当にうまい。



それでも後藤を殺すのか


普通の漫画なら、
後藤を倒したところで
大きなカタルシスが来て終わってもおかしくない。

でも『寄生獣』は、そこからもう一度問いを投げてくる。


弱った後藤を、今なら殺せる。

放置すれば復活する可能性がある。

人間にとって危険な存在。

合理的に考えれば、殺す方がいい。

でも新一は迷う。


後藤も一つの生命だからだ。

ここで問いは、

「後藤を殺すべきか?」

から、

「そもそも誰が生命の価値を決めるのか?」

へ広がる。


人間は他の生命を大量に殺している。

環境を破壊している。

なら人間が毒で、寄生生物が薬なのか。

でも、

それを誰が決める?

地球は「人間が多すぎる」と言ったのか。


人間が「美しい自然」と呼ぶものだって、
人間にとって都合のいい環境をそう呼んでいるだけかもしれない。

考えれば考えるほど、生命全体にとっての「正しい答え」なんて分からなくなる。



「おれはちっぽけな一匹の人間だ」


そこで新一がたどり着く場所が好きだ。

新一は、

「人間の方が正しい」

という答えを見つけない。


生命全体を公平に裁ける存在にもならない。

むしろ逆。


自分にはそんなことは分からない。


自分は地球でも神でもない。

ただの、

ちっぽけな一匹の人間。


だったら、自分は人間として選ぶ。

自分の家族。

自分の大切な人。

自分の手が届く範囲。

それを守る。

そして後藤を殺す。


でも新一は、後藤を単純な「悪」にすることで自分を正当化しない。


だからこそ、そこには罪悪感も残る。

この着地がすごく好きだ。


「正しいから殺す」のではない。

自分には生命全体の正解なんて分からない。

それでも自分の立場から、自分の責任で選ぶ。


『寄生獣』は、巨大な問いを出したあとに、答えを巨大にしない。

最後には一人の人間のサイズまで戻してくる。



ミギーとの別れ ― 分かり合うとは何なのか


後藤との戦いが終わり、ミギーは眠りにつく。

ここで描かれる夢の場面は、正直かなり難しい。


今回読み返しても、

「深いのは分かるけど、難しいなこれ」

となった。


でも一つの問いに圧縮すると、かなり見えやすくなる。

「自分と他者の境界は、どこにあるのか?」

人間の身体。

脳。

記憶。

意識。

そのどこまでを「自分」と呼ぶのか。


新一の母親はもう死んでいる。

でも新一の中には、母親との記憶が残っている。

では母親は完全に消えたのか。


ミギーも同じだ。

右手からミギーという存在が消えたとしても、
新一の身体にはミギーの影響が残っている。

考え方にも残っている。

経験にも残っている。

逆にミギーも、新一と過ごしたことで変わった。


二人は別々の生命なのに、
互いによって変化し、
もう出会う前の自分には戻れない。


他者と関わるということは、

相手の一部が自分の中に残ることなのかもしれない。

そう考えると、この難しい夢の場面も少し見えやすくなる。



人間はなぜ他の生命を守るのか


終盤、新一はさらに考える。

なぜ人間は他の生き物を守ろうとするのか。

なぜ環境を守ろうとするのか。

ここでも『寄生獣』は綺麗事だけでは終わらない。


他の生物がいなくなると寂しいから。

人間自身が滅びたくないから。

つまり環境保護ですら、
突き詰めれば人間側の都合とも言える。

でも、それでいいのではないか。


人間が持てるのは、結局人間としての感覚しかない。

すべての生命を完全に理解することなんてできない。

だったら、地球全体の代表者のような顔をして
「生命を愛する」と言う前に、

まず目の前の人間を愛する。

ここでもまた、巨大な問いが自分の手の届く範囲へ戻ってくる。



最後の敵が「人間」である意味


そして最後に現れるのが浦上だ。

これが本当にうまい。

寄生生物との戦いを描いてきた漫画の、最後の敵が人間。


浦上は新一に問いかける。

人間も他の生命を殺している。

寄生生物も人間を殺す。

なら、自分が人間を殺すことと何が違うのか。

人間だけを特別扱いする根拠は何なのか。


これまで『寄生獣』が積み上げてきた問いを、
最悪の方向から利用してくる。

しかも新一は、浦上を完璧に論破できない。


思わず、

「でたらめ」

と返す。


でも、ここで言葉による完全な回答を出さないことに意味があるように思う。



人間性は「定義」ではなく「行動」に出る


浦上によって里美が落とされる。

その瞬間、新一は考える前に手を伸ばす。

助けようとする。

そして右手が動く。

ここで『寄生獣』は、


「人間とは何か?」


という問いに対して、長い演説を用意しない。


人間とは生命を大切にする生物なのか。

でも浦上のような人間もいる。

人間だけが他者を守れるのか。

でも田村玲子も赤ん坊を守った。

ミギーも新一を助けた。


だから「人間とは○○である」という定義では、
どうしてもこぼれるものが出る。

だったら、


何者であるかではなく、
目の前の他者に対してどう行動するのか。


新一は里美を助けようとした。

それが新一の答えだった。


理屈では完全に説明できなくても、
自分がどうする人間なのかは選べる。



あの右手は、新一なのかミギーなのか


そして里美を助けた右手。

本当にミギーが起きたのか。

新一の身体に残ったミギーの影響なのか。

新一自身の力なのか。

作品は完全には確定させない。


でも最後まで読むと、

もう、どちらでもいいのかもしれない。

と思える。


新一はミギーによって変わった。

ミギーも新一によって変わった。

二人が一緒に過ごした時間が、
その行動につながっている。


どこまでが新一で、どこまでがミギーなのか。

きれいに切り分けられなくなっている。

それこそが、二人が一緒に生きた結果なのだと思う。



「心に余裕がある生物」


そして最後、夢の中のミギーが人間について語る。

ここは今回読み返して、
ものすごく重要な場面だと思った。


なぜ人間は、自分とは違う生き物の死まで悲しむのか。

生き残ることだけを考えれば、そんな感情は必要ない。

それでも人間は悲しむ。

他の生命のことまで考える。


ミギーはそこに、

人間の「心の余裕」

を見る。


そして、それを素晴らしいものとして評価する。

これが本当にいい。


物語序盤のミギーなら、
他者の死を悲しむことに
合理的な意味を見出せなかったはずだ。


そのミギーが最後には、

生存に直接必要ではない感情に価値を見出している。

新一だけが変わったんじゃない。


ミギーもまた、新一と共に生きたことで変わった。



「寄生獣」というタイトルは、読み終わると意味が変わる


そして最終ページ。

ここまで読んで、ようやくタイトルの
『寄生獣』について考えたくなる。


物語開始時の「寄生」は、かなり一方的だ。

寄生生物が人間を利用する。

身体を奪う。

自分が生きるために、相手を使う。

だから「寄生」は恐ろしいものとして始まる。


ところが新一とミギーは違った。

寄生から始まった関係が、
いつの間にか互いに影響し合う関係になる。

新一はミギーによって変わる。

ミギーも新一によって変わる。

単純な「利用する側/される側」では説明できなくなる。


さらに広川は、

人間こそ地球に寄生している存在ではないのか

という視点を提示する。

そして最後には、

生命は何かに寄りそいながら生きている

というところまで視点が広がっていく。


これは、

「寄生=共生」になった

という単純な置き換えではないと思う。


むしろ物語を通して、

「寄生」という言葉の見え方そのものが拡張されていく。

利用する。

依存する。

共に生きる。

影響し合う。

寄り添う。

考えてみれば、人間だって単独では生きられない。

他人に頼る。

他の生命を食べる。

環境に依存する。

地球そのものに依存する。

生命とはそもそも、
何かとの関係の中でしか生きられない。


最初は、

「人間に寄生する怪物の物語」

だったはずなのに、

最後には、

「生命は何かに寄りそいながら生きている」

というところまで連れていかれる。


だから『寄生獣』というタイトルは、

読み始めたときと、読み終わったときで意味が変わる。

これも、この作品のとんでもなくうまいところだと思う。



では、なぜ『寄生獣』はこんなにも凄いのか


ここまで物語を追ってきて、改めて考える。

『寄生獣』の何がそんなに凄かったのか。

自分なりに整理すると、大きく5つある。



1.一つの問いを、最後まで更新し続ける


作品の中心にあるのは、

「人間とは何か?」

という問いだと思う。


でも最初から答えが決まっていて、
それを証明するために物語が進むわけではない。

人間と寄生生物は違う。

本当に?

新一が寄生生物に近づく。

ミギーが人間を理解していく。

田村玲子が母親になる。

人間である広川が人類を批判する。

寄生生物の後藤より、
人間の浦上の方が怪物のようにも見える。

問いを投げる。

仮説が生まれる。

物語がその仮説を壊す。

そして、また問いが更新される。

この繰り返しで最後まで進んでいく。



2.キャラクターが「ブレずに変わる」


今回読み返して、特にすごいと思った部分。

ミギーも田村玲子も、ものすごく変わる。

でも、

「キャラ変わったな」

とは感じない。


それまでの経験があるから、その変化が理解できる。

ミギーは最後まで合理的。

田村も最後まで観察者としての性質を残している。


でも経験によって、最初にはなかったものを獲得する。

一貫性と変化が両立している。

だからキャラクターが生きているように感じる。



3.名場面が、後から別の意味を持つ


母親の死。

新一が泣けなくなる。

田村玲子が母親になる。

田村の死。

新一の涙。


一つ一つでも成立する名場面が、後から一本につながる。

死んだ犬の場面もそうだ。

最初は、新一が人間性を失ったことを見せる。


最後には、夢の中のミギーが、
人間が他の生命の死まで悲しめることに価値を見出す。


読み返すことで、

「あの場面、ここまでつながってたのか」

が何度も起きる。

だから一度読んで終わらない。



4.思想と「漫画としての面白さ」が分離していない


これがものすごく大きい。

『寄生獣』が扱っているテーマだけを並べると、かなり重い。


人間とは何か。

生命とは何か。

環境問題。

自己と他者。

善悪。

生と死。

共生。

これだけ見ると、ものすごく難しい漫画に見える。


でも実際に読んでいると、

母親編で息を飲む。

田村玲子がかっこいい。

後藤が強すぎる。

ミギーとのやり取りが面白い。

戦闘にワクワクする。

普通に「漫画」としてめちゃくちゃ面白い。


しかも、バトルとテーマが別々に存在しているわけでもない。

後藤の身体構造そのものが、最後の決着につながる。

新一の戦い方そのものが、「臨機応変」を表現している。


キャラクターの行動そのものが、
「人間とは何か?」という問いになっている。


テーマを語るために物語を止めない。


物語そのものがテーマを語っている。



5.最後まで「これが正解」と押しつけない


そして、個人的にはここがかなり好きだ。

田村玲子。

広川。

ミギー。

新一。

浦上。

それぞれが違う視点から、人間や生命について語る。


でも、

誰か一人の思想=作者の正解

にはならない。


ある考え方が提示される。

「なるほど」と思う。

すると別の人物や出来事が、
その考え方では説明できないものを持ってくる。

また考える。

その繰り返し。


だから読み終わっても、

「結局、人間とは何なのか?」

という問いは完全には消えない。

でも、それでいいのだと思う。


むしろ答えが固定されないからこそ、
読む年齢や経験によって見え方が変わる。

それが30年以上経っても
読み継がれる理由の一つなのかもしれない。



深い漫画なのではなく、深い問いを「面白い漫画」として読ませてしまう


ここまで考えて、最終的に自分が一番しっくりきたのはこれだった。


『寄生獣』は、

「深いテーマを扱っているから名作」

なのではない。


深いテーマを扱った作品なら他にもたくさんある。


『寄生獣』がすごいのは、

深い問いを、最後まで「面白い漫画」として読ませてしまうこと。

だと思う。


初めて読むときは、

「母親編やばい」

「田村玲子かっこいい」

「後藤強すぎる」

「ミギー……」

だけでも十分面白い。


でも、読み返して立ち止まって考えると、

「あれ? これ全部つながってない?」

となる。


感情を動かされた場面の下に、もう一つ構造がある。

さらにその下に、作品全体を通した問いがある。

だから何度でも掘れる。

これが、『寄生獣』が古びない理由なのだと思う。




私にとっての『寄生獣』


今回『寄生獣』を読み返そうと思った理由は、少し特殊だった。

昔から好きだったこの作品が、

今の自分の考え方に、どれくらい影響しているんだろう?

と思ったからだ。


自分は今、

一貫性があること。

新しい情報が入れば考えを更新すること。

感情と合理性を分けて考えること。

正解が分からなくても、自分で判断すること。

物事を表面的な善悪ではなく、構造から理解すること。

そういう考え方をかなり大切にしている。


でも、それがいつから自分の中にあるのかはよく分からない。


昔好きだった作品から、
無意識に影響を受けている部分もあるのではないか。

そう思って『寄生獣』を読み返した。


ただ、途中からそんな目的はほとんど忘れていた。


普通に、

『寄生獣』がおもしろすぎた。

田村玲子の「……」一つで止まる。

ミギーの言葉で止まる。

後藤戦で止まる。

「臨機応変にね」で止まる。

「やらなけりゃ確実な0」という考え方で止まる。

昔から知っている作品なのに、

「これ、こんなに深かったっけ?」

と何度もなった。


そして読み終わった今。

この作品が自分の考え方に
どれほど影響したのかについては、
まだ断定できない。

元々自分にそういう思考傾向があったから
『寄生獣』を好きになったのかもしれない。

『寄生獣』を好きだったから、
その考え方が強化されたのかもしれない。

たぶん両方ある。


ただ一つ分かったのは、

今の自分が大切にしているものが、
この作品の中に驚くほどたくさんあった。

ということだ。


一貫性。

更新。

理解。

判断。

合理性。

感情。

異なるものとの共存。


そして、

分からないものを、分からないまま考え続けること。


だから昔から好きだったのか。

それとも、この作品を読んだから今の自分があるのか。

そこはまだ分からない。

でも、そういうことまで考えたくなる作品だった。




さいごに ― なぜ今、『寄生獣』を読んでほしいのか


『寄生獣』は1995年に完結した。

もう30年以上前の漫画だ。


絵柄を見て、

「昔の漫画だな」

と思う人もいるかもしれない。


でも今回、最初から最後まで読み返してみて、
自分はほとんど古さを感じなかった。


むしろ、

人間とは何か。

他者を理解するとは何か。

違う存在と共に生きるとは何か。

自分の正しさをどこまで信じていいのか。

環境と人間はどういう関係なのか。

こういう問いは、今読んでもまったく終わっていない。


そして何より、

そんな難しいことを考えなくても普通に面白い。

これが強い。


まだ読んだことがない人には、ぜひ一度読んでみてほしい。


そして昔読んだことがある人には、

今の自分でもう一度読んでみてほしい。


自分も昔から『寄生獣』が好きだった。

ストーリーも知っている。

名場面も知っている。

それでも今回、何度もページをめくる手が止まった。


昔とは違うところで笑った。

昔とは違うところで考えた。

そして、昔読んだとき以上に泣いた。

作品は変わっていない。

変わったのは、読んでいる自分の方だ。


だから名作は、読み返すたびに違う顔を見せるのかもしれない。


『寄生獣』を読んだことがない人には、
これから初めて出会えることが少しうらやましい。


そして昔読んだ人には、

もう一度会いに行ってほしい。

きっと昔とは違うところで、

手が止まる。





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