写真は少しだけ嘘をつく
歳を重ねれば重ねるほど、思い出は増えていく。うれしかったことも、苦しかったことも、誰かと笑った夜もすべてを正確に覚えておくことはできない。だから、できるだけ写真に残したいと思っている。
基本的に、撮った写真は消さない主義だ。
大学生のころから今までの写真がずっとiPhoneのアルバムの中に残っている。機種変更をしても、生活する街や働き方が変わっても、写真だけはそのまま引き継がれてきた。居酒屋の薄暗いテーブル、上京してから撮るようになった東京の空、名前も覚えていない喫茶店の窓際。どれも撮った瞬間には大した意味などなかったはずだ。けれど、あとから見返すと、そこにはちゃんとその日の温度が残っている。
写真というのは時間を止めているようで、本当は時間の流れを教えてくれるから不思議だ。
夜、眠る前にスマートフォンのアルバムを開くことがある。今日撮った写真を見るつもりだったのに、指が勝手に過去へ滑っていく。すると、忘れていた店の名前や、着ていた服、その日誰といたのかが不意に戻ってくる。こんなこともあったなと思う。その感覚は眠る前にちょうどいい。
幸福というのは、思い出すときに少しだけ形を変えるものだ。実際には疲れていた日も、写真の中では穏やかに見える。帰り道、ほんとうはひどく寂しかったのに、駅のホームに落ちていた光だけを見ると、まるで映画の一場面みたいに映っている。
写真には声も匂いも残らない。沈黙の長さも、気まずさも、言えなかった言葉も写らず、その場にあった光だけが残る。だから写真は、いつも少しだけ嘘をつく。
それでもアルバムの中の写真を消せない。アルバムを遡ると、そこにはちゃんと若かった自分がいる。いまより少し無鉄砲で、いまより少し傷つきやすくて、今よりずっと先のことをわかっていなかった自分がいる。あのころはまさかこの写真たちを何年も先の夜に見返すことになるなんて、思ってもいなかったはずだ。
写っている自分の姿はたいていいまより頼りない。友人から「ほんと写真写り悪いよね」と笑われたこともあるし、自分でもそう思う。昔の自分は写真を撮られることに慣れていなかった。笑っているつもりなのに口元だけが不自然だったり、どこを見ればいいのかわからないまま、少し困った顔で写っていたりする。
けれど、アルバムを遡ってからまたいまの写真に戻ってくると、少しだけわかることがある。昔の写真よりもいまの写真のほうが、ぼくは笑顔が上手になった。大きく変わったわけではないし、劇的に明るい人間になったわけでもない。ただ、笑うことに昔ほど構えなくなったのだと思う。
写真はそういう小さな変化も残している。それを褒めもしないし、笑いもしない。ただ黙って残っている。本のあいだに挟まったレシートみたいに、忘れたころに顔を出す。そして、ああ、こんな自分もいたのだと思わせる。
人はすべてを覚えられない。驚くほど簡単に忘れていく。当時はあんなに思い悩んだのに、十年前に何に悩んでたかすら覚えていない。人生は忘れてもいいことばかりなのに、忘れてしまったと気づくと、少しだけ自分が薄情な人間になったような気がする。
だから、あえて写真に残しておく。見ることで、忘れていた自分に会いに行く。写真の中の自分はいつも少し遅れてこちらを振り向く。もう二度と会えないくせに、ずっとそこにいるような顔をしている。
ただ、例外がある。それはもうお別れしてしまった恋人との写真だ。
楽しかった日々ではある。嘘ではない。あのとき笑っていたことも、手をつないで歩いた道もたしかに幸福の一部だった。写真の中のふたりはいつだって少し楽しそうに見えた。カフェの窓際で向かい合っていたり、知らない街の駅前で立っていたり、買ったばかりの飲み物を片手にふざけていたりした。
けれど、そこに浸っている時間はない。いつも思い出はやさしい顔をして人を引き止めてくる。あのときはよかったねと耳元で囁く。もう戻れないのに、戻れるような気にさせ、気づいたころには足が動かなくなっている。
だからお別れした瞬間に、ぜんぶ消す。嫌いになったとか、なかったことにしたいからでもない。むしろ、あったことをちゃんと認めるために消すのだと思う。写真の中のふたりがどれだけ楽しそうでも、そのふたりはもういまの生活にはいない。
ぼくが消しているのは、相手の顔ではないのだと思う。それはあの人の隣で、少し無理をして笑っていた自分だ。期待していた自分。許したかった自分。怒れなかった自分。もう少しうまくやれたかもしれないと、夜中に何度も同じ場所へ戻ってしまう自分だ。
恋が終わったあと、写真を消すことは冷たい行為のように見えるかもしれない。でも、それが自分を少しずつこちら側へ連れ戻すための作業に思える。過去は美しい。とくに終わってしまったものほど美しい。終わったという事実が、そこに余計な光を足してしまうからだ。
けれど、きれいなものがいつも自分を救うとは限らない。きれいすぎる過去はときどき現在を貧しく見せる。今日食べたコンビニのおにぎり。返信のないメッセージ。片づいていない部屋。そういう日常が写真の中の幸福と比べられてしまう。
だから、もうお別れしてしまった恋人との写真だけは、楽しかった日々を否定しないために消す。
大学生のころからいままで、ほとんどの写真を残してきた。大したことのない写真も、誰に見せるわけでもない写真も、ぼやけた写真も消さずに取ってある。だからこそ、消した写真の不在はよくわかる。
アルバムを遡っていると、ある時期だけ、妙に風通しがいい。そこに何が写っていたのかをちゃんと知っている。誰とどこへ行き、何を食べ、どんな顔で笑っていたのかも、だいたい覚えている。けれど、もう画面には出てこない。出てこないことに、少しだけほっとする自分がいる。
写真を消さないということは、過去に執着することではない。けれど、写真を消すこともまた、過去を否定することではないのだと思う。残すことで前に進めるものがあり、消すことで前に進めるものもある。その違いを何度かの別れのあとで少しずつ覚えた。
アルバムの中には、削除できない写真がたくさんある。友人と飲んだ帰り道。夕暮れの東京タワー。喫茶店のアイスコーヒー。名前のわからない花。誰に見せるわけでもない空。大学生のころの自分自身。
そういう写真は消さずに残しておく。そこには自分が生きてきた道の小さな印がある。ふだんは忘れているのに、消してしまえば二度と戻らない印だ。人生は大きな出来事だけでできているわけではない。むしろ、何でもない日の写真のほうがあとから胸に残ることがある。
今夜も眠る前に、たぶんアルバムを開く。数日前に撮った電線に切り取られた空が嘘みたいな色をしている。その少し前には、友人と飲んだ帰り道の写真がある。さらに遡ると、大学生だったころの自分がいた。
居酒屋の薄い照明の下で、少しだけ笑っている。何がそんなにおかしかったのかは、もう思い出せない。隣に誰がいたのかも曖昧だ。ただ、テーブルの上に空いたグラスがあり、皿の端に残った唐揚げがあり、誰かの手が画面の端に少しだけ写っている。
それだけでなぜか十分だった。その写真を見ると、たしかに生きてきたのだと思える。うまくいった日も、うまくいかなかった日も、誰かを好きだった日も、誰かを失った日も、それでも次の日にはまた何かを食べて、どこかへ歩いて、何かを見つけて写真を撮ってきた。
写真を閉じて、スマートフォンを伏せる。画面の光が消えると、部屋は急に暗くなる。窓の外から小さな生活音が聞こえる。どこかで車が通り、知らない誰かの足音が遠ざかっていく。
アルバムの中に残った写真たちは、今夜も静かに並んでいる。その静けさに少しだけ救われながら、明日もまた何かを見つけたら写真を撮るのだと思う。
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