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ベーチェット病でたくさんのものを失った人間が星野源さんに救われた話

 二十七歳の秋にベーチェット病を発症した。それまでの生活は端的に言って無茶だった。ライターとして独立して一年が経ったころ、仕事を失う恐怖から目の前に並べられた仕事をすべて引き受けていた。日中に原稿を書いて、夜は別の原稿を書く。ベッドに入るのは毎晩3時。朝の6時に起きてまた原稿を書く。少しずつ体重は減っていたけれど、1日3時間睡眠でも不思議と動けていたし、根性さえあれば乗り越えられると思っていた。

 天才と呼ばれる人間にぼくはなりたかった。そうすれば苦労なんてしないで済む。でも、才能がないから誰よりも努力をする必要がある。そういった焦りから人よりも働いて、人よりも頑張っている自分に安心していた。身体が無言で悲鳴を上げていたことには、気づかないふりをしていた。それがすべての元凶だとは気付かずに。

 最初の違和感は、職場で倒れたことだった。周りの人が「救急車!」と叫ぶなか、「早く救急車を呼ばないと!」と使命感に駆られ、ぼくは目を覚ました。目を開けると天井を見上げている自分がいて、そのとき倒れたのは自分だったのかとようやく気づいた。体にうまく力が入らず、立つことすらできない。そのまま這いずりながら一番近くにあったソファに倒れ込んだ。そして、少し休んだあとに当たり前のように仕事を再開する。帰っていいと言われはしたものの、必要のない責任感がそれを遮る。周りに迷惑をかけてしまったという後悔に苛まれながら家に帰った。

 翌日から目に小さな違和感が出てきた。黒い斑点のようなものが視界に現れ、疲れが取れにくくなって、目の奥に重さを感じる。身体が重たくて仕方ない。少し休めば回復するだろう。体が放つSOSは劣等感から来る焦りには勝てない。でも、まさか目が見えなくなるなんて思っていなかった。

 ある朝、目を覚ますと両目の視界が黒塗りになっていた。黒の集合体の間から微かに見える世界。現実感がなくて、夢のなかにいるようだった。そして、黒塗りの世界のなか、歩いて病院へ行った。ああ、何も見えない。いつもなら15分ぐらいで着く道がそのときは1時間以上もかかってしまった。

 無事に病院に着いた。診察室に入ると、医者が「こんな小さな病院では診察できない」と囁くような声で言う。すぐさま紹介書を書いてくださり、その足で大学病院へと足を運んだ。

 病院中に漂う薄暗い雰囲気のなか、名前を呼ばれ、診察室に入っていく。レントゲンを撮影し、血液も採取された。いくつもの光を目に当てられて、体の奥が気持ち悪くなっていく。次第に立てないほどの気持ち悪さに襲われ、吐き気を催しながら、病院中を車椅子に乗って駆け回った。この何もできないという虚無感がどんどん焦りを膨らましていく。診断結果が気になって仕方がない。万が一を考えると入院もあるかもしれない。数時間の全身検査を終えたあと、診察室のなかで医師が「ベーチェット病です」と告げたとき、言葉が頭の中でうまく意味を結ばなかった。

 難病指定。原因不明。完治なし。ベーチェット病とはどのような病気なのだろうか。聞き覚えのない病名を前に言葉を失った。呆気に取られている間も、これからの治療方法について話をされていたけれど、まったく耳に入ってこない。

 どれも現実のこととは思えなかった。難病はドラマや映画の世界の話。作品のなかで誰かが苦しむ姿を見る機会はあっても、自分がそっち側に回ることはないはずだと思っていた。異世界のなかで生まれるドラマは感動的なものが多い。そして、物語のラストは当事者が亡くなったり、奇跡的な回復を見せたりする。そういった物語を何度も目にしてきた。

 まさか自分が当事者になるなんて、誰も想像していないはずだ。ぼくも診断結果を耳にするまでは「働き過ぎが原因なので、少し休んだら良くなりますよ」と言ってくれると思っていた。希望はすぐに絶望へと変わり、自分の身に起きたことなのに、まるで遠くで鳴っている警報のようだった。

 もう自分は終わった。この先、治ることのない病気を抱えて生きていかなければならない。何に楽しみを見出して生きればいいのか。希望の「き」の文字すらもうまく描けず、一人ぽつんと世界に残されたような気分になった。

 発症してからの数週間は、日常生活のすべてができないことに変わった。パソコンの画面が見えない。階段を下りるのが怖い。身体の節々が痛くて起き上がることすらできない。ベッドで横になっているだけで精一杯だった。何もできないという感覚は、ひどく冷たいものだ。毎日、自分がすこしずつ透明になっていくような気がして、夜になると涙が止まらない日々を過ごしていた。

 でも、そんなぼくを支えてくれる人たちがいた。心配してご飯を届けてくれた友人。「生活費と治療費の足しにして」と賃金以外のお金を振り込んでくれたクライアント。なにも言わずにそばにいてくれた家族。心配のメッセージで励ましてくれた人たち。

 そうした人たちのおかげで、発症から1ヶ月半でなんとか社会復帰した。フルタイムでは働けないけれど、少しずつ日常に戻っていった。

 それでも、最初の頃は治したいと思っていた。元に戻りたい。あの頃の自分に追いつきたい。けれど、病気は思うようには引いてくれなかった。目に注射を打っても、目薬を挿しても、薬を飲んでも、体調は波のように揺れ続け、良い日と悪い日が交互にやってくる。不安と絶望に襲われる日々は、生きている心地がしなかった。

 ベーチェット病を発症して一年が経った頃、左目が白内障と緑内障を患った。目の注射の副作用による合併症だ。手術をしなければ失明すると言われ、緊急で手術入院が決まった。手術は無事に成功したけれど、なかなか症状が安定しない。当初は五日程度の入院だった予定が、結局二週間ほど入院した。

 決まった時間に起床して、決まったことをする。髪は洗えないし、髭を剃る気にもなれない。当たり前を奪われた苦しさに襲われ、すぐさま消灯時間がやってくる日々のなか、もう退院できないのではないかという恐怖が少しずつ強くなっていく。

 誰にも弱音を吐けず、夜もなかなか眠れない。深夜の薄暗い病室で、毎日のようにYouTubeを観ていた。とはいっても、うまく画面は見えないため、音声を流していたに過ぎない。それに縋るしかできない自分にも嫌気が差していた。ある日、YouTubeのおすすめ欄に、星野源さんが出てきた。

「くも膜下出血になったとき、これはもうネタにするしかないって思ったんです。じゃないとやってられなかったから」

 うろ覚えだけど、たしかこんな言葉だったはず。この言葉を聞いた瞬間、ああ、そうか。受け入れるってそういうことかと肩の力がすっと抜けた。

 自分もこの体調や痛みや不安さえも、いつか笑い話にしてやろう。そう思った瞬間、ようやく難病になった事実を本当の意味で受け入れられたような気がした。

 YouTubeが終わった瞬間に、深夜の薄暗い病室の中で星野源さんの『地獄でなぜ悪い』を流す。

ただ地獄を進む者が 悲しい記憶に勝つ

地獄でなぜ悪い/星野源

 もしかしたら、この世界は地獄なのかもしれない。だが、それでもそこを突き進む人にしか出会えない美しさもあるのだろう。楽曲が流れ終わったあとの気持ちは、やけに清々しかった。溢れ出した涙は地獄を受け入れた証だ。たとえここが地獄だったとしても、それを笑い話にして、悲しい記憶に打ち勝てばいい。そんなことを考えているうちに、もう外は明るくなり始めていた。

 あの日から五年が経ったいま、ぼくは日常を少しずつ取り戻している。左目は文字が読めず、右目は大半の視野を失った。大好きなサッカーはもうできないし、いまも車の運転免許を返納しようかと悩んでいる。難病に奪われたものは多いし、終わらない通院生活にも嫌気が差す日もある。

 それでも、日々は続いていく。時間は勝手に流れ、命が少しずつ削り取られる。だったら、失ったものではなく、今目の前にあるものに目を向けられる人間でありたい。

 朝起きて、猫に挨拶をして、ご飯を用意する。仕事をして、お昼過ぎに近所のカフェに足を運んでまた仕事をして、帰ってきて、夜ご飯を食べる。お風呂に入って、少しダラダラして、今日のいいことを数えてから眠りにつく。そんな何気ない時間が当たり前ではないと知ったのは、間違いなくベーチェット病のおかげだ。

 耳に入る音。頬に触れる風。料理の香り。そばにいる人たちの笑顔。一度当たり前を失ったからこそ、それらをきちんと味わうようになった。それは、静かな逆転劇だと思っている。拍手もスポットライトもないけれど、ぼくの人生は確かに変わった。そして、前よりも少しだけやわらかくなったような気がする。

 難病は、治らない。それでも絶望している暇なんかないんだと思う。やりたいことがあるし、会いたい人がいる。書きたい言葉があるし、それをなるべく多くの人に届けたいという気持ちだってある。

 喪失を喪失のまま抱えて生きることは、かつて思っていたよりもずっとしなやかで美しいものだった。ぼくは今の自分で、この人生を楽しんでいきたいと思っている。喜怒哀楽を味わい尽くして、こんな人生夢だったかと笑いながら死んでいきたい。難病の発症によって、できることは減ったかもしれない。でも、感じられることはむしろ増えた。たとえばここが地獄だったとしても、もうそれで充分だ。いや、十分すぎるのだ。

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