春の知らせ|シロクマ文芸部
ゆっくりと流れる空気の中で静かに暮らしたいと思い、三か月前に里山のある田舎に移住した。
「祐希君、新玉あげる」
縁側でお茶を飲んでいると、聞き慣れたおばさんの声がした。振り向くと、先月七十歳になった陽子さんが、一輪車を押しながらやってきた。
「ああ疲れた。欲しいだけ持っていって」
荷台は新玉ねぎで埋まっていた。
「じゃあ、全部貰っちゃおうかな?」
僕が冗談まじりに言うと、
「いいわよ。傷む前に全部食べてね」
陽子さんはニヤリと笑った。
僕は玉ねぎを三個だけ手に取り縁側に置いた。
「そう言えば、すえ子さんが凄く助かったと言ってたわよ」
「ああ、そんな大袈裟な。居間の電球が切れたと聞いて、交換しに行っただけですよ」
「喜んでたわよ。娘のノブちゃんは仕事が忙しくてなかなか来れないみたいだしね。ノブちゃんの娘のヒナちゃんは、月に一回ほど様子を見にきてくれるらしいけど」
「そうみたいですね。あんなできた孫はいない、と言ってました。できれば曽孫の顔が見たいと。でも、お孫さん、僕より一つ年下の二十四歳みたいだから、まだ先の話ですね」
「ヒナちゃん、もうそんな歳になったのね。私も歳取るはずだわ」
陽子さんは話しながら縁側に玉ねぎを十個ほど置いて帰っていった。
庭にある桜の木は蕾がふくらみ始めた。鶯がやってくるときがあり、美しいさえずりはとても癒される。
僕はここに来て、心の潤いを少し取り戻せた気がする。
移住する前は、会社でパソコンの画面を睨みながら、右手でマウスを動かすだけだった。家に帰ってからは、仕事を忘れたくてスマホのゲームで気を紛らわせていた。
そんな毎日が僕の心を蝕んでいったのか、いつからか何事も興味が無くなり、生きている実感さえ失っていった。
鬱々した日々の中、小学生の頃に林間学校へ行ったときの農業体験が、とても楽しかったことを思い出した。三年勤めた工作機械の会社を辞めて、この土地で野菜作りをすることにした。
生活費は、軽トラックで四十分ほど走った先のホームセンターでアルバイトをして賄っている。収入は以前の半分になったが、近所の人たちからの頂き物もあって食費は半分以下になり、家賃はワンルームから庭付きの一戸建てになったが五分の一になった。畑は無料で貸してくれるから至れり尽くせりだ。今は専業農家を目指し、少しずつ野菜を育てながら勉強している。
「こんにちは」
突然、女の人の声がした。聞いたことのある声だなと思いながら振り向くと、バイト先で一緒に働いている藤原さんが、両手にビニール袋を下げて、目を見開き立っていた。
「え、なんで僕の家知ってるの?」
いきなりで驚いたけど、藤原さんは僕以上にびっくりしてる様子だった。
「大野君だったのね。おばあちゃん家の電球を換えてくれたの」
「え、もしかして、ヒナちゃん?」
藤原さんは急に下の名前を呼ばれたからか、恥ずかしそうに黙って頷き、新玉ねぎでパンパンになったビニール袋を差し出した。
「おばあちゃんから、いつも世話になってるから持っていってあげてって言われたの」
「そうなんだ」
「でも残念。いい男がいるからって聞いてたから期待してたのにな」
藤原さんは桜の木を眺めながら呟いた。
「僕だったというオチがついちゃったね」
「まさか大野君だったとは、ほんとびっくりしたよ」
園芸売り場で毎日のように顔を合わせているのに、今日の藤原さんは雰囲気が違う感じがして、なぜか襟足の後れ毛が艶っぽく見えた。
「大野君、明日はシフト入ってる?」
「あ、うん」
「そお。じゃあ帰るね。また明日、祐希君」
藤原さんは、最後に笑みを浮かべながら僕の下の名前を言って帰っていった。
桜の木に鶯がやってきた。高らかなさえずりは僕の胸に響き、心が弾んだ。
了
こちらの企画に参加させていただきました。
小牧幸助さま、宜しくお願いします。
