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人生は、何度でも花ひらく|4度流産して、45歳で産んだ

—4度流産して、45歳で産んだ。

4度目の流産をした44歳の冬、
私は子どもを諦めた。

その一か月後、妊娠した。

第1章 「卵はありません」
子どもの名前はもう決めていた。
男の子ならジャック、女の子ならソフィ。
街で妊婦さんを見かけるたびに自然と笑顔になって、もうすぐ私も大きくなったお腹をさすりながら、お腹の赤ちゃんに話しかける日が来るのだと、疑いもしなかった。

町工場の長女として生まれた私は、サラリーマン家族がものすごくうらやましかった。だから、だれもが知っている一流大企業に就職したいという強い思いから、松下電器産業(現・パナソニック)に就職するも、会社という大きな組織の歯車の一つでしかないということに気づきはじめていた。
そんな中、英語が全くできないのに、海外に住みたいという夢は諦められず、26歳でニュージーランドへ。
世界一早い英語といわれているニュージーランドの英語は、最初は何を言っているのか全くわからなかった。
学生時代は、英語が大嫌いで赤点をとり、英検さえ受けたことがなかった私は、ニュージーランドにわたり、1から英語を学び直した。
なんとか英語ができるようになって、不動産エージェントの資格を取得した。
不動産売買という仕事に夢中になっているうちに、気がつけば40歳目前となり、妊活を真剣に始めたのは39歳。そしてやっと、妊娠することができた。

妊娠11週目の朝、突然激しいお腹の痛みで目が覚めた。トイレに駆け込んだ瞬間、赤い塊がドバっと落ちた。冷や汗が全身に伝わった。
これが何を意味するのか、頭では分かっていたけれど、心がどうしても認めようとしなかった。
担当医に電話すると、「今すぐエコーを取りに来てください」と言われた。
夫と並んで診察室に入り、冷たいジェルをお腹に塗られながら、私はただモニターを見つめていた。検査員がプローブを当てる。何度も、何度も角度を変えながら…。
そして彼女は何も言わなかった。その沈黙が、分単位で重くなっていった。
「ドラマとかで見ていたら、このモニターに赤ちゃんが映っていると思うんだけれど…。」
人生で初めてエコーをとった私には、なにがおきているのかわからないだけでなく、検査員が何も言わないことに、だんだんと不安が大きくなっていった。
しばらくして、検査員が静かに立ち上がり、部屋を出て行った。別の人が入ってきて、もう一度同じように調べ始めた。その間もずっと、私は黒いモニターを眺めていた。
そして最後に、静かな声で言われた。
「残念ながら、卵はありません。」
検査員の前で涙を見せまいと、なぜか必死にこらえていた。けれど、あまりに悲しすぎて、あまりにショックすぎて、声を上げて泣いてしまった。隣にいた夫も、泣いていた。

帰り道、何も話したくなかったし、話しかけられたくなかった。だから夫と二人の車の中は、沈黙だけが続いていた。
けれど、ふと思いついた。
スーパーに寄って、ワインを買って飲み明かしてやる、と。
流産とわかって絶望した。でもとにかくここから立ち直らなきゃいけない。そのためにも飲んで忘れるしかない。そんなことを思いながら、妊娠中ずっと我慢していた大好きなお酒で、とにかく気を紛らわした夜だった。

翌日、私の妊娠を知っていた上司にだけ、流産したことを伝えた。彼女は何も言わずに、ただ一緒に泣いてくれた。それだけで十分だった。
泣いて、何もなかったように仕事に戻った。
妊娠していたことを知っていたのは上司と日本の両親だけで、他の誰も知らなかった。
安定期に入ったら、エコーの写真と一緒に
みんなに報告しようと思っていたのに、私が見たのは、卵のない流産してしまった真っ黒な映像だけだった。
今こうして語りながらも、また涙がこみ上げてくる。 流産というのは、体に刻まれる経験なのだと思う。

高齢出産だから流産の確率が高いということは、
頭のどこかでは分かっていた。だから仕方ない、という気持ちもあった。
でもこの流産をきっかけに、私は初めて自分の体と年齢の現実に真剣に向き合い始めた。
40歳を超えると流産の確率が急激に上がること、卵子は年齢とともに老化して質が落ちていくこと。誰も教えてくれなかった。
その日から、私は"超高齢出産"という現実を知ることになった。
そしてこの時の私はまだ知らなかった。
この先あと三度、同じ経験をすることを…。

第2章 誰も教えてくれなかったこと
ニュージーランドで不動産エージェントとして働き始めたのは、33歳の時だった。
飼っていた2匹の犬、ジェイとルルは、子供がいなかった私たちにとって自分たちの子供のようなものだった。毎晩一緒にベッドに入って、枕を並べて寝ていた。
クリスマスの時期には「サンタとファミリーフォト」と言って、ジェイとルルと一緒にサンタクロースと写真を撮るのが毎年の恒例だった。
本当に、家族の一員だった。

そして不動産エージェントの仕事が楽しくて、充実した毎日が続いていた。
気持ちが変わったのは、38、39歳の頃だった。
ある日ふと、逆算してみた。
40歳で子どもを産んだとして、その子が20歳になる時、私は60歳だ。
体力的なことを考えると、もうそれ以上先延ばしにはできない。
35歳頃まではまだそれほど深刻に考えていなかったのに、40歳を目前にした途端、時間の重さが一気にのしかかってきた。
妊娠そのものはできた。受精はしていたのだ。でも着床しなかった。
年齢とともに子宮の粘膜が薄くなっていて、せっかく受精しても根付くことができなかった。妊娠できない体なのではなく、妊娠しても続かない体になっていた。
その現実を知った時、なんとも言えない虚しさを感じた。

そもそも、なぜ私はこんなに大事なことを知らなかったのだろうと、妊活を始めてから何度も思った。
学生時代、性教育で習ったのは、妊娠の仕組みや、受精から出産までの流れ。セックスをすれば子どもができる、ということは教えてもらった。
でも、妊娠には年齢による現実があること。
年齢を重ねるほど妊娠が難しくなっていくこと。
そんな肝心なことは、誰も教えてくれなかった。
私は、ずっと知らなかったのだ。

妊活中の毎月は、同じサイクルの繰り返しだった。
排卵日が近づくと、カレンダーを計算する。やりたくもないのに、排卵日だからとセックスをする。女性誌に「逆立ちすると着床しやすい」と書いてあれば逆立ちもしてみた。
そして生理が来た瞬間——何とも言えない脱力感が体中を包む。
ショックとも違う、悲しみとも違う、ただただ力が抜けていく感覚。
それをまた来月も繰り返すのかという虚しさ。
妊娠の仕組みは教えてくれた。
でも、妊娠には時間の限りがあることは、誰も教えてくれなかった。

第3章 4度流産して、諦めた
2度目の流産がわかったのは、家のトイレだった。
生理はいつも28日できっちり来ていた。だから少しでも遅れると、すぐに気づいた。検査薬で陽性が出ても、6週、7週目の頃になると血が出てくる。
また流産したか、と自分でもわかった。
血が出ていても、もしかしたら卵が残っているかもしれない。
だから毎回エコーを取りに行った。でも2度目、3度目になると、病院に向かいながらもう結果はわかっていた。念のため確認しに行くだけ。
そう思いながら診察台に横になって、画面を見ると、やっぱり何も映っていなかった。
夫は「仕方ないね」と言った。責めるでも、大げさに悲しむでもなく、ただそう言った。今思えば、それが一番ありがたかった。

2度目、3度目は二人とも泣かなかった。流産がわかっても、そうなのね、と受け入れて、次の日もいつも通り仕事に行った。悲しみに慣れていくというより、もうそういうものだと思えるようになっていた。

2度目、3度目の妊娠は、妊娠していたことも、流産したことも、誰にも言わなかった。仕事は普通にこなし、みんなの前では笑顔でいたから、誰も気がつかなかった。

今だから言えること、ここで白状します。
当時私は、友達や周りの人が妊娠したとか、子供ができたと聞いて、表面上は「おめでとう」「よかったね」と笑って、喜んでいるふりをしていた。
でも本当は、すごく嫉妬していたし、SNSで「子供ができました」という投稿が流れてくると、正直、見たくないと思うこともあった。
なんで私には子供ができないんだって、ずっと思っていた。
そんな自分を、なんて小さい人間なんだって思っていた。
でもそれは小さいとかじゃなくて、それだけ本当に子供が欲しかったということだ。

流産を経験した人、あるいはなかなか子供が授からなかった人には、きっとわかってもらえると思う。
期待しなくなっていく気持ち、悲しみに慣れていく自分が怖くなる感覚。
それはおかしくない。
私も全部、同じだったから。
そして一つだけ、どうしても伝えたいことがある。
流産してしまうのは、決してあなたのせいじゃない。
あの時働きすぎたから、あの時無理をしたから——
そうやって自分を責めないでほしい。
辛いけれど、あなたは何も悪くない。

3度目の流産の後、やっと専門医についてもらえた。
1錠500円ほどする高価なホルモン剤を処方してもらった。子宮の粘膜を厚くして着床しやすくするための薬だった。その薬があるからといって妊娠できる保証はどこにもなかった。それでも試した。
これで最後にしよう、と思いながら。

44歳。4度目の流産。
やれることは全部やった。
私は初めて、本気で子どもを諦めた。

諦めた瞬間、すっと体が軽くなった。
毎月排卵日を計算し、生理が来てまたがっかりするあのサイクルから、
完全に解放されたからだ。
そして妊娠を気にせず、また思いっきりお酒を楽しむことができる。
これからは夫と二人で、ジェイとルルと一緒に生きていけばいい。
子供がいない人生でも、それはそれで幸せじゃないか。
そう思えた時、妊娠への執着が、すっと手から離れていった。
まさか、その一か月後に妊娠するなんて、この時は想像もしていなかった。

第4章 奇跡は、諦めたあとにやってきた
夫と義父の間には、長い間、深い溝があった。
5〜6年ほど、全く話をせず、連絡も取らない時期が続いていた。
お互い頑固な性格で、どちらも折れることがなかった。
私は「仲直りした方がいいよ」とずっと言い続けていたけれど、結局そのままになってしまった。
二人の溝が埋まることはなく、会うこともなく、仲直りすることもないまま、義父は末期がんで亡くなってしまった。
さらに、遺言書の問題もあった。
義父は病状が重くなってから、夫には一切財産を渡さないという内容に遺言書を書き換えていた。
ただ、その書き換えられた遺言書はまだ法律上正式に有効とは認められておらず、以前の遺言書——「夫にも財産が渡るという内容のもの」——
が法的には有効だった。つまり夫には財産をもらう権利があり、主張すれば受け取ることができた。

そんな状況の中、夫は私に相談してきた。どうしたらいいかと。
父親とはずっと仲が悪く、亡くなる直前には一切合切渡さないという内容に
書き換えるほどだった義父。
そんな父親の財産を受け取ることに、果たして意味があるのか。
私はただ一つだけ聞いてみた。
「もしもらえたとして、嬉しい?」と。
夫は「そんなお金をもらっても嬉しくない」と答えた。
「それじゃ、それが答えなんじゃない」と私は言った。
こうして私たちは相続しないことを選んだ。
亡くなってからもお金のことで争うことはしたくなかった。

義父が亡くなったのは、4月の初旬。
そして、その1ヶ月後の5月に妊娠がわかった。
妊娠を諦めていた私は、まさか妊娠するとは思ってもみなかったし、どうせまた流れるだろうと思っていた。
だから安定期に入るまで、誰にも言わなかった。
ただ静かに、次のエコーの日を待っていた。
期待しないようにしていた。
期待して、また裏切られる痛さを、もう味わいたくなかったから。

エコーの日が来た。
画面に、小さな赤ちゃんの形が映し出された。
今まで何度もエコーを受けてきた。
でもいつも「何も見えない」という現実ばかりだった。
それが今回は違った。
ちゃんとそこにいた。
そして次の瞬間、音が聞こえた。
どくん、どくん。
赤ちゃんの心臓の音だった。
今まで何度妊娠しても、一度も聞いたことがなかった音だった。
その小さな心臓が、どくん、どくんと、
「がんばって生きているよ、大きくなるよ」と言っているような気がした。
その音が聞こえた瞬間、涙が溢れた。
悲しみじゃなくて、喜びで泣いたのは、初めてだった。
二人とも、しばらく何も言えないほど感動していた。

安定期に入ってから、ふと逆算してみた。
計算すると、義父が亡くなって間もない頃に妊娠したということがわかった。
その瞬間、私はすぐに思った。
義父が授けてくれたんじゃないか、と。
義父は、私たちに財産は残してくれなかった。
でも天国に行ってから、財産よりもずっとずっと大切なものを
私たちに授けてくれた。
新しい命を。
私は、今でもそう思っている。

第5章 ジェイ、ありがとう
出産予定日は2月2日。
その年末年始、日本から妹が家族で訪ねてきてくれた。
みんなで賑やかな年末を過ごした。
大晦日の夜のことだった。
それまですごく元気だったジェイが突然立てなくなってしまった。
かかりつけの病院は年末年始でお休み。
真夜中だったし、頼れるのは24時間対応の緊急病院だけだった。
外は大雨、その上、ジェイは25キロある。
夫と2人がかりで抱えようとしたけれど、ずっしりと重かった。
妊娠中は重いものを持ってはいけないと言われていた。
でもそんなことは頭になかった。
傘もささずに、ずぶ濡れになりながら、臨月で大きく膨らんだお腹を抱えたまま、ただジェイを早く病院に連れて行かなければ…という気持ちだけで動いていた。
雨の中を必死に運んで、やっと車に乗せた。

誰もいない真夜中の動物病院に到着して、ジェイをお医者さんに診察してもらう。
詳しく調べる必要があるということで、入院することになった。
原因がわからないまま数日が経ったが、原因がわかりジェイが元気になるのであれば手術をしてほしいとお願いした。
手術の直前、スタッフがジェイと私たちのために床に
ベッドを敷いてくれた。
夫と私はジェイの隣に寄り添って、体を撫でながら話しかけた。
もうすぐ手術だね、がんばるんだよ、と。
ジェイは静かに私を見ていた。
いつも私のそばにいた、あの目で。

手術室に入ってしばらくして、お医者さんが出てきた。
「残念ながら、亡くなりました。」
目の前が真っ暗になった。

ジェイは12歳だった。
子供がいなかった私たちにとって、12年間ずっと本当の我が子のように一緒にいてくれた存在だった。どこに行くにも一緒だった。
悲しい時も、嬉しい時も、いつも隣にいた。
あと1ヶ月もすれば、本当の意味での我が子に会えるというすごい喜びがあるのに、その喜びよりも、この時はジェイを失った悲しみの方がずっと大きくて、涙が止まらなかった。本当に、本当に辛かった。

この時、日本の両親と妹たちから出産祝いをもらっていた。
かなりの金額だった。
でもジェイが年末年始に緊急入院したため、24時間対応の緊急病院の費用がかさんだ。
結果として、もらった出産祝いはほとんど全て、ジェイの治療費に消えてしまった。でも不思議と、後悔はまったくなかった。
むしろ、必要な時に必要なだけお金が入ってくる。
そう実感した出来事だった。
ジェイを見送るために、ちょうどそのお金が用意されていたのかもしれない。

第6章 やっと会えた
ジェイが亡くなってから数週間後、ジャックが生まれた。
帝王切開の当日の朝8時に病院へ。
手術室に入り、背中に麻酔を打たれた。
その注射の痛さは今でも覚えている。
緊張というより、静かな気持ちだった。
4度の流産を経て、ジェイを失って、それでもここまで来た。
あとはもう、流れに身を任せるだけだと思っていた。

そして産声が聞こえた。
その瞬間、涙が溢れた。
「元気な男の子ですよ。」と言われた。
ベッドに横たわったまま、私が最初に言った言葉は…
「手と足、そして、ちゃんと5本ずつ指ついてますか?」
看護師さんが「大丈夫ですよ、ちゃんとついてます」と答えてくれた。
その言葉を聞いた時、やっと本当の意味で、息子の誕生を実感できた気がした。

初めてジャックを抱っこした時、めちゃくちゃちっちゃくてかわいかった。
こんなに小さな命が、ずっと私のお腹の中にいたんだと思った。
そして「私のお腹、がんばったな」と。

ジャックが生まれてから、ふと思った。
愛犬ジェイは私のことが本当に大好きで、いつもいつも私のそばにいた。
そしてジャックも、生まれた時からずっと私のそばにいる。
いつまでも私のそばにいられるように、ジャックが生まれる1ヶ月前にこの世を去って、そしてジャックの中に入って生まれ変わったのかもしれない。

だからジャックのミドルネームをジェイにした。
ジャックの中にジェイがいたし、どちらも私が心から愛する名前だからだ。

義父がジャックという命を授けてくれて、ジェイがその魂として戻ってきてくれた。
命は、きっとつながっている。
亡くなった人も、亡くなった動物も、形を変えて今もそばにいてくれる。
4度流産して、ジェイを見送って、やっと、やっと会えた。

第7章 預金は6ドルだった
私は出産の2週間前まで働いていた。
大きなおなかになりながらも、週末のオープンホームをしていたので、来場したお客さんが心配してくれたこともあった。
完全コミッション制の仕事は、動ける限り動くしかなかった。
ぎりぎりまで働いて、そしてジャックが生まれた。

出産後、1年間仕事を休んだ。
収入は激減し、生活は一気に厳しくなっていった。
それでも育児中の1年間、成長していくジャックと一緒にいられることができてとても幸せだった。
笑った、寝返りをうった、立った。
その一つひとつが、どんな仕事の達成感よりも大きかった。
でも正直に言うと、辛いこともあった。
今まで外で働いて、お客さんに必要とされて、
自分の存在感を感じながら生きてきた私が、育児中は家の中と公園の往復だけになった。
一日があっという間に終わるのに、何もしなかったような罪悪感があった。
バリバリ働いていたキャリアウーマンほど、出産して家に入った時の喪失感は大きいんじゃないかと思う。
それは子供が可愛くないわけじゃない。
ただ、自分という存在が社会から切り離されたような、そんな感覚だった。

ある時、預金残高が6ドルになった。
日本円にすると約400円。
45歳でやっと授かった息子のおむつさえ買えない。
どうしようかと思った。
でもその時、不思議なことが起きた。
タイミングよく不動産の売買が成立して、コミッションが入ってきたのだ。

実はこういうことが、一度や二度じゃなかった。
もうどうしようもないというぎりぎりのところまで追い詰められると、
必ずどこかからぽんと話が来たり、臨時収入が入ったりする。
それが何度も続くうちに、私は思うようになった。
人生は、自分が力づくで動かそうとするよりも、流れに身を任せた方がうまくいくことがある。
だから今は、どんなことが起きても「きっと大丈夫」と思える。
あの預金残高6ドルの日々が、そのことを私に教えてくれた。

仕事でも人生でも、執着しすぎるとうまくいかないことがある。
肩の力を抜き、流れに身を任せた時に、不思議と次の道が見えてくる。
それが今では、私の生き方の根っこになっている。

第8章 人生は、何度でも花ひらく
10歳になった今でも、ジャックは毎晩私の隣で眠る。
「マミー、ジャックのこと、どれくらい好き?」
と毎日必ず聞いてくる。
そう聞かれるたびに、私は笑って答える。
「宇宙より大好き。」「星の数よりもいっぱい。」

あの日、診察室で「卵はありません」と言われた私が、こんな未来を想像できただろうか。

4度流産した。45歳で母になった。
愛犬との別れに泣き崩れた日もあった。
預金が6ドルになった夜もあった。

その時は、どの出来事にも意味なんて見えなかった。
どうして私ばかりが、こんな思いをしなければならないのだろう。
そう思ったことも、一度や二度ではない。

でも今、人生を振り返ると、不思議なくらい全部がつながっている。
あの時は、ただ苦しかった出来事。
ただ悲しかった出来事。
ただ立ち止まるしかなかった出来事。
その一つひとつが、今では私の人生をつくる大切な「点」だった。
そして、その点は時間とともに一本の線になり、今の私へと続いていた。

だから私は思う。

人生に、無駄な出来事は一つもない。

今は意味がわからなくても、焦らなくていい。
人生は、振り返った時に初めて見えてくる景色がある。
私は、その景色を何度も見てきた。
だから私は、信じている。 

人生は、何度でも花ひらく。

りょうこ

著者プロフィール
西田涼子(にしだ りょうこ)
東京下町の町工場の四姉妹の長女として育つ。
バブル期に松下電器産業(現・パナソニック)へ就職するも、「会社の歯車ではなく、自分の人生を生きたい」と26歳で退職。
学生時代、英語が大嫌いだったにもかかわらず、海外で暮らしたいという夢を捨てきれず、英語がほとんど話せないままニュージーランドへ渡る。
一から英語を学び直し、不動産エージェントとして23年間活動する。
私生活では4度の流産を経験し、45歳で第一子を出産。
53歳で長年続けた不動産業界を離れ、花市場へ転職。
毎日たくさんの花に囲まれて働く中で、人生を振り返り、自らの経験を言葉として残すことの意味を強く感じるようになる。
人生の転機を希望に変える著者として、【人生は、何度でも花ひらく】をテーマに、年齢や常識に縛られず、自分らしい人生を選び直す希望と勇気を届けている。


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