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「多様性」関連タグで記事を書くなら

 ゲイであるおれが note の「性的多様性」とか「LGBTQ+」とか単に「ゲイ」タグでも、それらのタグがついた記事を警戒心なしに読めないの、皆さん気づいてくださってたりしますか。いやそんなん言わなきゃ伝わらないですよね。そういうタグには無防備に読めば性的少数者がストレスで臓器やられるような記事が紛れ込んでいて、決して安全な場じゃない。でも何の工夫もないタイトルからはどんな記事か判別できない。基本、判別するには読んでみるしかない。それはもう「どこかの国ルーレット」みたいな。

 「今日一日キブン最悪になってもよかったっけ」と考え、「いやそんな日ねえよ」と自分にツッコみ、「せめて深呼吸しよう(あまり効果がない)」「どんな記事でもパートナー氏に愚痴を言うのはやめよう(よく破られる決意)」「こんなことがあったので最悪でしたなんて記事を書くのはやめよう(いま破った決意)」「ご飯作れなくなるとまた食わないことになるから先に作っておくか」など、できる範囲で心の、また生活上の準備をして、やっと記事を開く。そういうことを、実に日常的にやっています。
 「一人暮らしの人は短命」ってこういうことなんかなと思わなくもない。

 仕事の日はまだいい。出かけなきゃいけないし、出かけるならシャワーも浴びるし、外に出れば猫にシャーされたり犬に匂い嗅がれたり赤ん坊に「お前それでも人間か」みたいな目で凝視されたり見知らぬ人がハンカチ拾ってくれたりカワイコちゃんがいたり電車が遅延してたり電車が遅延してたり電車が遅延してたり同僚がおやつくれたり、何より仕事があって、時間がくれば「昼なのでメシ食って休憩せい」と言われる。服務規程上という範囲内では生産的であれるしボーナス的にメシも食える。何とか生きてることについてではなくとも「お疲れ様」と言ってもらえる。合間には冗談も言い合うかもしれないし、バカ笑いだってするかもしれないわけです。「涙の跡? アクビしたんだよバーカ」なんつってな。
 ヤバいのは休日です。廃人になる。とことん人間が嫌になる。寝込む。

 記事がそういう暴力になること、分かってないのかな。かもですね。「どれがヤバい発言なのか」って、パッと分からないこともありますもんね。

 ただしそれらの記事を書く目的が、性的少数者や他の社会的マイノリティの日常や人生そのものをめちゃくちゃにすることではないならば、「結果ただのヘイトになることが目的ではないならば」、社会的テーマで意見を書きたいだけならば、気を付けた方がいいポイントはやはりある。

 ポイントを詳述すれば、本一冊分になってしまうのでここではしません。「アイヌもやもや」など、既に良い本があるので読めばいいと思います——それでも今パッと考えてアドバイスするなら(上から失礼します)、次のことを心掛けるとよいでしょう。超(超とか書いちゃった)簡単です。

会社の上司に障害をもつ娘さんがいる、とイメージしてみよう。
その子について同じことを、その子に、また上司に言えるか。

世間の性的少数者に関する表現をチェックすると、不適切な表現かどうか分かります

 「権利を主張するのは構わないが、それで風当りが強くなることは覚悟しろ」と言えるか。あるいは善意表現と誤解されている「私は気にしませんよ」が言えるだろうか。「でも課題には優先順位がある」と言えますか。

 失礼すぎて、どれも言えないと思うんですよね。「何言い出したんだコイツ」と周囲がざわつく。叱責される。非常識な人物と敬遠される。こんな簡単なチェックで、たった一枚のフィルターで「ヤバい言葉」が分かります。

 どんな集団でも非常に愚かな人物はいるものだから、「ああ娘さんは目が見えないんですね、誰にも迷惑をかけなければ、いいと思います」くらい上司に言ってしまう者は1%以下でいるでしょう。これはそんな「1%以下」の人間にならないための提案です。特別な悪意をもつ人間もいます。しかし「目的がそのような人物と見られることではないならば」、この「ステイクホルダーに同じ言葉を言えるか立ち止まって考える」習慣は有効でしょう——あなたが「被抑圧者層について、その存在と生存にかかるイシューに何か個人的見解を述べてみたいならば」、よき習慣が必要です。もしそれも嫌で「無軌道に放埓な発言をしたいならば」極めて非常識な言動になるので、それこそ「それで風当りが強くなることは覚悟して」行なうことでしょう。

 さて、この「習慣」は何かあなたの自由や権利を侵害するでしょうか。
 「あの人の/自分の発言は適切なのか」考える習慣をもちたいですね。性的少数者についてインターネット上で発信されたあの言葉は適切なのか分からなかったら、自分もその言葉を使っていいのか迷ったら、「上司の娘について同じことが言えるか」考えてみる。それならできそうですよね。
 お盆休み、大人の自由研究にもいかがでしょうか。どんな記事が不当か、あの人の発信は大丈夫か、よく分かると思います。

 私は以前、「ゲイについて言いたいことがあるなら黙って聞くから会って面と向かって言ってみて」と記事に書いたことがありました。コーヒー仲間の募集です。誰一人、応募してくる人はいませんでした。「それ面と向かっておれに言えんの?」という、クリアすべき条件はそれのみだったにもかかわらず、誰も私に顔を見せたくなかったわけです。きっと「本名と顔を出して発言するなら」インターネットにおける表現は大きく変わるでしょう。

 それはまさに長年インターネットの匿名性が抱えてきた問題でした。未成熟な交流を重ねるなかで、人々は相対して言えないような暴言を一方的に投げ付けられる経験がいかに不条理か実感しながらきたわけです。公園のお砂場で思ったことのように、イノセントに湧きおこる感情として、それはノーなのだと今は知ってる。この「不条理だったよね。絶対にノーだよ」という気持ちを持ち続けていられるかどうかが、この「本名も顔も出さずに心を明かせる」唯一の場所の未来を決めてしまうのだと思います。「本名も顔も出しているときのように」他者の尊厳を扱う、「私」で居続ける、そんな努力なしには、この広大な遊び場を守ることはできなかったのです。

 「忖度なく」ものを言える自由は人々を夢中にさせた、しかし人には「他人を不快にさせたくない」という抗いがたい気持ちもありました——「私」として「あなた」と向き合うときには、直言と暴言は全くちがうことだったのです。「私」として言えないことに何の意味があるだろうか、と現在の私は考えています。大体、人間同士の礼節も忘れた発信が、社会で重要な役割を担い、人々からの尊敬を得ることなどないのです。いかがでしょうか。


記事をご紹介いただきました

小野 光一 様、ありがとうございます。


記事をご紹介いただきました

タイラー|五感翻訳家|五感解析ラボ主宰 様、ありがとうございます。


記事をご紹介いただきました

のんの 様、ありがとうございます。


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