冬生まれの羊たち①「ひつじ探偵団」
署名、ありがとうございました!
映画「ひつじ探偵団」を観て来た。
Takashi Hashiwaki さんのオススメなら、観てハズレはないだろ?
羊飼いのジョージ(ヒュー・ジャックマン)が殺された。残された遺書、村人たちと養子に出されていたジョージの子どもたちが集められる。心優しきジョージを殺した犯人が、どうやらその中にいる。頼りない警察に業を煮やして、ジョージのためにヒツジたちが立ち上がる。いつもジョージが探偵小説を読み聞かせてくれていたから、推理なら得意なのだ。——そんな「ディテクティブもの」なのですが、これが可笑しい。犯人捜しするぞと勇んで街に繰り出そうとするけど、道を渡れなくて「むり!」ってなるとか。
所詮はヒツジですから出来ることには限界もあって、という縛りをところどころ残したのが良かったと思います。穏やかな日常に安住したいから悲しいことはすぐ忘れちゃう。美味しいご飯と快適な寝床と、それらを用意してくれる次の管理者に気持ちが行っちゃう。平穏でありたいのだ。悲しみたくなんかない。いや批判なんかしないで。ヒツジは愛され動物なんだから。
でもね。群れでみれば皆おなじように見えるかもしれないヒツジたちだけど、見た目だって実は違うし、能力的にも個体差があるし、群れに馴染めない者も、群れから弾かれた者もいる。忘れられないことも忘れちゃいけないこともあるのかも。自分は自分でしかないけれど、それでもやっぱり頑張ろうとする姿には、ついホロリと。ええもうホロリと。

講義で性について語るから、いつも性について考えている。
全く官能的ではないし性的ですらない。
性的少数者について「だけ」でもない。
いつでも。映画を観てても。デパートの屋上で笹団子食ってても。
例えば昨日は、ALLY(性的少数者を支援する人)の立ち位置ということから考え始めて、そうした役割にない(という自認にある)性的多数派についてまで、あれこれ考えていた。暫定的にではあるが私が「性的多数派」と仮置きしているのは「性別違和がない異性愛者」という在り方だ。その恋愛/性愛欲求の実現において、社会的に抑圧されないであろうと見なしてよい(と思われる)人々である。その「(見なし)抑圧されない人々」との私的扶助関係は果たして一方通行的なものであるのか。
でも普通、「性のことを考える」ってもっとエッチだったりしない?
おれおかしいよね。分かってる。
しかし「抑圧構造が一方の当事者のみを抑圧している」という前提にこそ懐疑的でいなければならないのであって(そんなのバカな考えだ)、むしろそれこそ完全にファンタジーなのであって、両者は補完関係にある。マイノリティは社会の不備に「先に気づく者」なのだ。マイノリティからの要請はいつも社会の脆弱性を明らかにする。どちらもこの不完全な社会の「要」支援者であり犠牲者で、それぞれの役割も義務も、一緒に目指すべき地平も見えて来る……んじゃねえのかよ。そうだろ。どうなんだよ。
ならば「支援者」と「被支援者」の関係は「要支援者」同士だ。「ALLY」と性的少数者との関係においても、一方的な「支援」などあり得ない。そんなの不健康だ。——いや、何言ってんの。
それ、日曜の夜に考えているべきことか。
帰宅したら、オートロックのベルトが届いていた。ありがとうAmazon。穴が無いタイプのベルトで、ウエストサイズを微調整できる。いま体型管理していて(いつもポリコレばかりなのでパリコレ出ようかなと)、こんなものが便利なのだ。しかし、ふと「これ、外される時に外し方(相手)分かるかなあ」と思案した。GIベルト外せない人いたなあ、なんて。そして「ベルトを外される場面を想像しているのってエッチじゃねえ?」と気づき、少し感動した。おれ今エッチなこと考えた! すごい!
しかし次の瞬間、「異性愛者男性は性的パートナーからベルトを外される場面をどれだけ想定するだろう」「そこからベルトの機構上の分かりにくさを理由に買い控えたりするのか」と考え始めた。もう病である。おれダメかもしんない。
そういうワケで続く。
あんまし記事をまたぎたくないんだけどしょうがねえだろ遅刻すんだよ。
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たよろよろ図書館DATABASE 様、ありがとうございます。
