あなたが道を渡れずにいるなら
素朴な心をもつ人が好きだ。痛みをごまかすことなく日々に耐える。
立ち上がる力をもつのはそんな人だ――約束はなく運次第だとしても。
娘の目に、父は落ちぶれて行った。悲しみは怒りに変わる。どうして、と思う。冬の夜、とうに家族から見放されたその父が訪ねて来る。どうやって暮らしているのか。作業服は何枚ものガムテープで補修されているようだ。
「縫ってあげるから脱いでよ」「いいよぉ」――へらへらと笑う父。
どこかで無銭飲食をして、免許証を置いてきたので金を借りたいという用向きだ。やるせなさがこみ上げ娘は老父を𠮟りつける。そんなガムテープだらけじゃいられないでしょ、と作業服から一枚剝がした。
「何これ」
予想に反して、現れたのは太い油性マジックで書かれた文字だった――「バカ」、「ハゲ」、「クソジジイ」、「デブ」、「死ね」。
「何やってんのよ!」――娘の言葉に父は力なく笑うだけだった。5万円を押し付けてクルマに乗せる。無銭飲食したという店の方角にクルマを向けながら、そんな職場は辞めて別の働き口を見つけるように父親に言う。捨てるように父を降ろし、一人になった娘は自分がしたことを悔いた――ガムテープを剥がしてしまった――あんな作業着で生きて行く父を思った――今夜、明日、どんな思いで。
そんな話を、読んだ。
一定期間をおいて、アカウントを削除してしまうらしいのだけど。
書かれるべき物語をもちながら姿を消していく人たちが、悲しい。この方が書けるのかどうか私には分からない。それでも書かれるべき物語はあったはずだと惜しまれる。
その夜から数年後、父はひとり死ぬ。娘はどう生きて行くのか。
人生に慰めがあるものかどうか、私は知らない。
ただ書かれるべき物語があって、それを待っている。いつも待っている。待っていたのに、と思う。
